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第九話-【第一幕:荷造りをする?】

第九話:蜘蛛の糸と鉄床

 夜の色が、アイアンソーン工房の窓を静かに満たしていた。


 昼間の対峙が終わっても、火薬に似た緊張は残っている。話がまとまった後の方が、むしろ冷たかった。半月という期限が形を持ち、全員の喉元へ細い縄のように掛かっている。


 臨時の作戦室には、誰も無駄口を叩く者がいなかった。


 長卓の端で、アーガスが指先を樫の天板へ落としている。


 とん。とん。とん。


 鈍い音が一定の間隔で続く。


 頭の中では、条件が増えるたびに計算が組み替わっていた。使える人員。残された日数。森へ入る経路。病変した鉄木。キメラ熊。公会の協力。証拠として成立する条件。


 行き止まりを一つ潰すたび、別の行き止まりが現れる。


 それでも手を止める気はなかった。


 主座にはリナ・ヴァンデルが座っていた。


 碧緑の天鵞絨。胸元には常春藤と馬車輪を意匠化した徽章。背筋は定規を当てたように真っ直ぐだった。


 昼間の冷気はもう表へ出ていない。


 手元の羊皮紙だけが正直だった。報告書の端が、指の力で深く折れている。


「確認できました、お嬢様」


 扉脇にいたウォーレンが沈黙を破った。


 声は平坦だった。仕入れ数を報告する時と変わらない。


「山王国の冒険者公会。掲示板は見事に空です。アイアンソーン名義の依頼は一件もなし。緊急募集も消えています。商会名義で出した高額の捜索依頼まで、きれいに引っ込められていました」


 リナは地図から目を上げない。


「理由は?」


「審査中、だそうです」


 ウォーレンは肩をすくめ、役所の窓口を真似た気味の悪い笑顔を作った。


「高危険度魔獣を対象とする依頼であり、依頼主には重大な製品安全上の争議があるため、資格を再審査する必要があります。所要日数は」


 わざと一拍置く。


「十五営業日」


 アーガスの指が止まった。


 背中へ冷たい汗が浮く。


 偶然ではない。


 リナが昼間、あれだけの賭けを積み上げて奪い返した半月。その期限を一日もはみ出さず、制度上は何一つ違反しない形で塞いできた。


 公会は動かない。


 外から人も集められない。


 アイアンソーン家だけを規則の内側へ残し、外部との道を切る。


 老獪だった。


「バロックのクソ野郎」


 部屋の隅で、トールが鼻を鳴らした。


 腕を組んだ胸板が火灯りの中で膨らむ。


「税務庁の溝に腹を擦ってる鼠が。正面から槌も振れねえくせに、こういう腐った真似だけは早い」


「トールさん」


 リナがようやく顔を上げた。


「それを蔑視と呼ぶのよ」


 報告書を卓上へ置く。


 指先が紙を滑り、乾いた音を立てた。


「合法。適法。手続きにも瑕疵なし。彼らは私たちを殴る必要すらない」


 青い瞳が細くなる。


「規則の箱へ閉じ込めて、息が切れるまで蓋を押さえていればいい」


 部屋がまた静かになった。


 壁の時計を見たウォーレンが、小さく咳払いする。


「では、別案を検討しますか」


 少しだけ口調を軽くした。


「たとえば、今から荷造りをするとか。夜のうちなら、まだ格好よく逃げられます」


 視線がアーガスを通り越し、リナへ向く。


「今朝も、どなたかずいぶん早く帰りたがっていましたし。撤退の段取りはお得意でしょう?」


 アーガスの指先が止まった。


 空気が一段冷える。


 リナは顔を向けない。


 羽根ペンを取り、地図の上へ赤い線を一本引いた。


 ざり、と紙が鳴った。


「ウォーレン」


 声は小さい。


「黙って」


 ゆっくり顔を上げる。


 青い目がウォーレンへ向いた。


「商会の酒蔵。北壁から三枚目の棚。その裏にある小箱について、奥様と話し合う時間が欲しい?」


 ウォーレンの笑顔が止まった。


 両手が即座に上がる。


「冗談です、お嬢様。少し空気が乾いていたもので」


「次はもっと湿らせてあげるわ」


 リナは鼻を鳴らし、椅子を引いた。


 立ち上がる。


 両手を卓へつき、身体を前へ傾けた。


 地図の上に影が落ちる。


「今回、私は正面から介入した」


 視線がアーガス、トール、ウォーレンを順番に通る。


「だから、もうアイアンソーン家だけの問題ではない」


 一度息を吸う。


「ヴァンデル商会の名まで賭け札に乗った。私が直々に座った案件を、こんな安い嫌がらせで潰されたと知られれば、次に足元を見られるのは私たちよ」


 指先が黒い森を囲む赤い印へ落ちる。


「私の名前と逃走を、同じ記録へ書かせる気はない」


 顔を上げた。


「一歩も退かない」


 声は低かった。


「荷造りは負けた側がすればいい。私たちは、この戦場を片づける」


 トールが腰の鍛造槌を叩いた。


 かん、と澄んだ金属音がする。


 質問はなかった。


 その一音だけで十分だった。


 アーガスもリナを見る。


 卓上の地図を見下ろす横顔には、勝ち筋を自分で作る者の強さがあった。


 賭け金まで自分で積み上げた指揮官の顔だった。


 妙に安心した。


 リナは部屋を見回す。


 外から見れば、援軍を絶たれた小さな工房だ。


 使える札は、まだ手元に残っている。


「向こうは、公会を止めれば中身まで空になると思っている」


 地図へ視線を戻す。


 声から怒りが消えた。


 商談で資産を一つずつ数える時の冷静さへ戻っている。


「計算違いよ」


 指を一本立てる。


「残り半月」


 二本目。


「こちら側についている技師、鑑定師、医師」


 視線がアーガスへ向く。


「常識をひっくり返す頭が一つ」


 次にトール。


「奇跡だろうが無茶だろうが、鉄へ叩き込む拳が二つ」


 トールが鼻を鳴らした。


 最後に、リナの視線が二人の肩越しへ抜ける。


 工房の奥。


 アイリーンが車椅子に座り、返品された破損部品を一つずつ整理していた。


 包帯を巻いた手は使わず、反対の手だけで記録札を揃えている。


 弱い灯りの下でも、その背中は止まらない。


 リナは数秒だけ見つめ、視線を戻した。


「それと」


 声は平坦だった。


「もう十分に機嫌を損ねたハーフエルフが一人」


 誰も笑わなかった。


 笑える言い方ではなかった。

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