第八話-【第四幕:女王の賭け】(挿絵あり)
リナはバロックから視線を外した。
床に散った報告書へ歩み寄り、一枚を拾う。
煤がつき、端には軍靴の跡が残っている。
指先で大きな汚れだけを払い、該当箇所を開いた。
「見なさい」
紙をバロックの前へ掲げる。
「第十七行。病変した鉄木から検出された腐食性残留物。森で確認された未知の合成獣、仮称キメラ熊の分泌物との関連が疑われる」
「疑い、だと?」
バロックが食いついた。
「確定していないではないか!」
「ええ」
リナはあっさり認めた。
「だから調べるの」
バロックが一瞬言葉を失う。
「あなたが踏み潰させた聴音管は、その調査に必要な検査具よ。外から見えない病変木材を選別できる。今、この山城で同じことができる道具は他にない」
バロックの目が、潰れた管へ向いた。
ほんの一瞬。
リナは見逃さない。
「ところで」
声が少し軽くなる。
「あなた、商業監査と差し押さえの担当だったわね」
「それがどうした」
「鉱務局が今季に調達した坑道支柱の仕入れロット、知っている?」
バロックの瞳孔が縮んだ。
口が開く。
答えは出ない。
リナの笑みが深くなる。
「知らないのね」
「なっ」
「私も知らないわ」
今度こそ、バロックの顔が止まった。
工房の者たちまでリナを見る。
「同じ病変材が鉱務局へ流れたかどうか、私も知らない」
リナは汚れた報告書を軽く振った。
「だから賭けるのよ」
青い瞳がまっすぐバロックを射抜く。
「あなたの首を」
バロックの喉が鳴った。
「馬鹿を言うな!」
「なら断言して」
リナは一歩近づく。
「今季の坑道支柱に、この病変材と同じ仕入れ群は一本も使われていない」
「それは……」
「言えないでしょう?」
返事はない。
「外から正常に見える。荷重がかかるまで内部の崩壊は分からない。もし坑道支柱に使われていたら、折れた後で検査しても遅い」
バロックの額へ汗が浮かぶ。
「数十人。数百人。坑道に入っている時間なら、その人数が土の下へ埋まる」
リナは淡々と数える。
「鉱山が止まる」
一歩。
「死人が出る」
もう一歩。
「遺族が騒ぐ」
さらに一歩。
「産出量が落ちる」
バロックの背が僅かに退く。
「山王国の歳入まで減る」
そこで止まった。
「その時、山王陛下は何を必要とするかしら」
リナの声が柔らかくなった。
その柔らかさが、かえってバロックの顔を強張らせる。
「命令を受けただけだ、と言う?」
「当然だ! 私は陛下の」
「証拠を受け取らなかったのは誰?」
言葉を切る。
バロックの口が閉じる。
「検査具を壊させたのは誰?」
返事はない。
「危険を警告された後も調査を止めたのは誰?」
バロックの目が泳ぐ。
リナは答えを言わなかった。
言う必要がない。
彼自身が理解している。
山王が鉱山事故の責任を誰か一人へ押しつける必要に迫られた時、最も切り離しやすい名前。
今、その名前がバロック自身の頭の中へ浮かんでいる。
「私も賭けているわ」
リナが言った。
「キメラ熊が本当に原因なのか。病変材がどこまで流れたのか。まだ確定していない」
報告書を胸元へ持ち上げる。
「でも、あなたは賭けられる?」
青い目が笑った。
「自分の首で」
バロックの息が浅くなる。
知らない。
確認していない。
だから否定できない。
情報の空白が、彼の頭の中で一番悪い未来を勝手に育てていく。
「半月」
リナが告げた。
「あなたが最初にアイアンソーン家へ与えた期限。それを守りなさい」
汚れた報告書を彼の胸元へ押しつける。
「残りの期間、こちらは森へ入る。病変源を探す。合成獣の痕跡、分泌物、鉄木との関連。必要な証拠を持ち帰る」
バロックの手が反射的に報告書を受け取った。
「その間に、あなたは鉱務局へ行けばいい」
リナの笑みが僅かに深まる。
「自分の首がまだ胴についているうちに、坑道支柱がどこから来たのか確認してきなさい」
「貴様、私に指図を」
「嫌なら今ここで続けましょう」
バロックが黙った。
「期限までに病変源を示せなければ、ヴァンデル商会が責任を負う。アイアンソーン工房の処分にも異議を唱えない。罰金が必要なら倍額で払う」
工房の誰もがリナを見る。
ウォーレンの眉さえ僅かに動いた。
大きな賭けだった。
リナは一度も声を揺らさない。
「ただし」
足元を見る。
潰れた聴音管。
つま先で、その歪んだ集音口を軽く転がした。
金属が石床を擦る。
「私が勝ったら」
顔を上げる。
バロックをまっすぐ見る。
「跪きなさい」
バロックの顔から血の気が引く。
「それを拾って」
一拍。
「呑みなさい」
静寂が落ちた。
トールの口が半分開く。
アーガスまで言葉を失っている。
バロックの唇が震えた。
「き、貴様……正気か」
「ええ」
リナは穏やかに答えた。
「あなたが自分で踏み潰したものよ」
視線が聴音管へ落ちる。
「その価値を理解できないなら、せめて味だけでも覚えて帰りなさい」
バロックの頬が引きつる。
「さあ」
リナは彼へ手のひらを向けた。
商談の席を勧めるような、優雅な仕草だった。
「半月待つ?」
青い瞳が細くなる。
「それとも、今ここで首を賭ける?」




