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第八話-【第二幕:血に触れるやさしさ】(挿絵あり)

 リナは黒鉄の列の間をまっすぐ進んだ。


 バロックの横を通る。


 視線は一度も彼へ向かなかった。


 金の竜章も、深紅の官服も、彼女の足を半歩すら止められない。


 そこに一人の人間が立っていることさえ、最初から数えていないような歩き方だった。


 その無視に、バロックの頬が引きつる。


 恐怖の中へ、遅れて羞恥と怒りが混じった。


「待て!」


 側近の一人が長戟を持ち直し、リナの進路へ踏み出そうとした。


 黒曜が顔を上げた。


 それだけだった。


 兵の足が止まる。


 黒曜の目は静かに彼の喉を捉え、次に肩口、肘、膝へ流れた。


 視線は鎧の継ぎ目をなぞるように移った。


 兵の頭に、最短で身体を崩される順序が勝手に浮かんだ。


 反対側ではウォーレンが同じ兵を見ていた。


 笑っていない。


 いつもの柔和な管事の顔が消えただけで、年齢まで違って見えた。


 武器はない。

 言葉もない。


 それでも、その一歩を踏み出した後に何が起きるかだけは、兵の頭に妙にはっきり浮かんだ。


 足が床へ戻る。


 他の親衛兵も動かなかった。


 リナは一度も振り返らない。


 アイリーンの前で足を止めた。


 泥と煤に汚れた床。

 倒れた輪椅子。

 散った金属片。

 その上に残る血。


 そこに、細い身体が伏している。


「……文書……」


 アイリーンの唇が動いた。


「執行の……文書を……」


 まだ言っている。


 リナの青い瞳が揺れた。


 ほんの一瞬前まで、兵たちを凍らせていた目だった。


 その冷たさが、アイリーンを映した途端にほどける。


 リナは躊躇せず膝をついた。


 碧緑の天鵞絨が煤けた床へ触れる。


 高価な裾へ黒い汚れが広がる。


 彼女は見もしなかった。


 アイリーンの傷ついた手を、両手で包む。


 裂けた掌から血が滲んでいる。


 指先は冷たい。

 力が入っていない。


「……リナ……?」


 焦点の揺れていた翠緑の目が、少しずつこちらへ戻ってくる。


 リナは何も言わなかった。


 ただ、その目を見つめた。


 唇がゆっくり動く。


 姉さん。


 アイリーンの瞳が大きく揺れた。


 続けて、もう一度。


 ここからは、私に任せて。


 声はない。

 周囲の誰にも聞こえない。


 それでもアイリーンには伝わった。


 昨夜、自分が差し出した場所へ、リナが自分の意思で一歩入ったことも。


 アイリーンの肩から、わずかに力が抜ける。


 リナが片手を上げた。


「黒曜」


「はい」


 黒曜がすぐ傍へ膝をつく。


 兵へ向けていた視線を引き、傷口を見る者の冷静さへ切り替わった。


 携行していた救急包を開き、消毒薬と清潔な布を取り出す。


 ウォーレンは倒れた輪椅子を起こし、ブレイクたちへ手で合図した。


 リナはアイリーンの背へ腕を回した。


「痛むわよ」


 小さく告げる。


 持ち上げる動きは驚くほど慎重だった。


 膝へ負担が掛からないよう、黒曜と呼吸を合わせ、身体をゆっくり座面へ戻す。


 包帯が掌へ巻かれていく。


 薬が触れるたび、アイリーンの肩が小さく震えた。


 リナの眉も、そのたびに僅かに寄る。


 血が布の下へ隠れるまで、彼女は手を離さなかった。


「もう大丈夫です」


 黒曜が言った。


「深くはありません。ただ、しばらく手を使わせないでください」


 リナは頷いた。


 アイリーンの顔色を見る。

 呼吸を見る。

 包帯を見る。


 それから、もう一度だけ目を合わせた。


 温かい青だった。


 次に立ち上がる。


 ゆっくり振り返る。


挿絵(By みてみん)


 顔がバロックへ向くまでに、その温度はすべて消えていた。


 同じ青い目とは思えないほどだった。


 アイリーンへ向けていた視線には、触れれば壊れそうなものを扱う慎重さがあった。


 今、バロックへ向いた目には、処分する対象を選別する冷たさしか残っていない。


「さて」


 短い一言が落ちる。


「今度は、あなたの番ね」

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