第八話-【第一幕:静かな嵐】(挿絵あり)
第八話:女王の賭け
「ガァン!」
青磁が砕ける音が、鉄と煤の臭いに満ちた工房を貫いた。
石床を跳ねた破片が、乾いた音を残して散っていく。
つい先ほどまで怒声と長戟の金属音で張り詰めていた空気が、その一音を境に凍りついた。
誰も話さない。
誰も動かない。
工房にいるすべての者の視線が、ゆっくりと後室の陰へ集まった。
そこに、リナ・ヴァンデルがいた。
茶杯を手放した姿勢のまま、白い指先だけが宙に残っている。
視線の先には、床へ倒れたアイリーン。
裂けた掌。
煤に汚れた指。
そこから落ちる赤い血。
その色を見た途端、リナの頭からすべての計算が消えた。
利益も、商会の立場も、外交上の損得も浮かばない。
胸の奥で、白熱した怒りが爆ぜた。
高圧の蒸気を閉じ込めた炉が内側から破裂したような熱だった。
叫びたい。
殴りたい。
目の前の男が二度とその太い指で誰かへ命令できないようにしてやりたい。
怒りが頂点まで膨れ上がった直後、リナの呼吸が止まった。
そして、冷えた。
胸を灼いていた熱が急速に沈み、鋭く固まり、底の見えない氷へ変わっていく。
一度、息を吸う。
吐く。
呼吸が整う。
肩から震えが消える。
口元の柔らかさが消えた。
工房で見せていた親しげな笑みも、商談で使う計算された微笑も、顔からきれいに引いていく。
あとに残ったのは、何の感情も読ませない表情だった。
罪人へ判決を告げる上位者の静けさが、その顔にはあった。
リナはゆっくり立ち上がった。
背筋が伸びる。
顎がわずかに上がる。
その姿勢が完成した時、後方で二人が動いた。
黒曜。
ウォーレン。
二人とも言葉を交わさない。
確認の視線すら必要なかった。
ウォーレンの顔から、気のよい商会管事の表情が消えた。肩を引き、顎を収め、視線が冷える。
黒曜も静かに袖口を整えた。垂れた指先が、袖の内側に隠された黒曜石の留め具へ触れる。
二人は左右へ分かれ、リナの一歩後ろへついた。
迷いはなかった。
二人にとっては、身体に染みついた動きだった。
ただ元の位置へ戻る。
主人の左右。
一歩後方。
三人の配置は、高位の者を護って進む近衛の隊形を思わせた。
工房の誰も、その理由を知らない。
それでも、その形が完成した途端、空気の質が変わった。
リナが歩き出す。
こつ。
こつ。
靴底が煤に汚れた石床を打つ。
力を込めて歩いているわけではない。普段より静かな歩き方だった。
誰も息をしない工房では、一歩ごとの音が異様なほど遠くまで響いた。
こつ。
一歩。
こつ。
また一歩。
そのたびに、兵たちの肩がわずかに強張った。
左右には黒鉄の鎧。
鋭い長戟。
分厚い肩当て。
灰色と黒ばかりの鋼鉄の列。
その中央を、碧緑が進んでいく。
硬い天鵞絨。
銀糸の刺繍。
高い立ち襟。
鉄の群れの中では、あまりにも柔らかな色だった。
細い身体も、白い肌も、何も持たない両手も、兵たちより遥かに脆く見える。
だが、近づくほど誰も前へ出られなくなった。
魔力の波はない。
精神へ触れる術式の気配もない。
それでも、目の前の少女より自分の方が下にいる。
理由のない感覚が、兵たちの腹の底へ重く沈んでいった。
一人の若い衛兵が息を詰めた。
長戟を握る指へ汗が滲む。
リナの視線は彼へ向いていない。
それが余計に怖かった。
指が硬直し、握力が抜ける。
がらん!
重い長戟が石床へ落ちた。
刺耳な金属音が工房へ響き渡る。
兵自身が青ざめた。
だが拾えない。
腰を屈めれば、首筋を晒すことになる。
その考えが浮かんだ途端、彼は黒曜の視線に気づいた。
黒曜は何もしていない。
ただ一度、彼の喉元を見た。
次に、脇。
手首。
膝。
視線が戻るまで、ほんの一息だった。
それだけで衛兵は、自分の鎧の隙間を順番に数えられたような気がした。
隣ではウォーレンが笑っていなかった。
いつもなら柔らかく下がっている目尻が、冷たく細められている。
彼も武器を抜いていない。
脅しの言葉もない。
それでも若い兵は、落とした長戟へ手を伸ばせなかった。
誰も笑わない。
他の兵も同じように固まっていた。
バロックが口を開いた。
「きさ……」
そこまでだった。
続きが出ない。
喉が乾き、舌が上顎へ張りついている。
目の前にいるのは、武器も持たない若い女だ。
理性では分かっている。
だが身体の奥に残る、もっと古い何かが警告していた。
声を出すな。
目を合わせるな。
敵だと思われるな。
死ぬ。
バロックの喉が小さく鳴った。
アーガスだけが、その光景を別の意味で見つめていた。
ここにいるアイアンソーン家の者の中で、彼はリナを最も長く見てきた。
学園で上級生を言葉一つで振り回す姿を知っている。
砦の下で感情を乱した顔も見た。
この家へ来て、無理に隣家の娘のような笑みを作っていた姿も知っている。
自分なりに、かなり多くのリナを見たつもりだった。
今、その自信が消えていた。
目の前を歩いている少女を知らない。
青い瞳には怒りがない。
焦りもない。
相手をどう言い負かすか計算している光すら見えない。
静かだった。
深く。
冷たく。
ひどく遠い。
遥か高い場所から、地上にあるものの価値を静かに量る目だった。
アーガスは息を忘れた。
リナが一歩進む。
兵が一歩退く。
誰も命令していない。
誰も道を空けろと言っていない。
それでも黒鉄の列が、リナの前で左右へ割れていった。
碧緑の少女が、その中央を進んでいく。
後ろには黒曜とウォーレン。
左右一歩後方。
寸分違わない距離。
アーガスには、その三人の姿がどうしても普通の商人と従者には見えなかった。
高い席へ向かう者と、その背を守る近衛。
一瞬だけ、そんな像が脳裏をよぎった。
アーガスはすぐに眉を寄せた。
馬鹿な。
そんなはずはない。
だが、目の前の光景だけは消えてくれなかった。




