第七話-【第三幕:権力の蹂躙】(挿絵あり)
工房の空気が一息で凍った。
少し前まで職人たちの声が飛び交っていた場所に、重装兵の鎧が擦れる音だけが残る。
リナは回廊の陰で身体を固くした。
一歩、前へ出かける。
取引先が官兵に囲まれている。
ヴァンデル商会の人間なら、守るために動く。
その反射を、理性が止めた。
相手は正式な官服を着ている。
山王国の衛兵を連れている。
行いは恐喝そのものでも、官の執行という形を取っている。
ハーフエルフの商会令嬢が矮人王国の行政処分へ正面から介入すれば、話は工房一軒では済まない。
外交問題になる。
リナは踏み出しかけた足を戻した。
落ち着け。
アーガスには証拠がある。
報告書を出せばいい。
検査法も、切断した病変材も、客訴品との対応表も揃っている。
相手が役人なら、少なくとも書類を受け取る必要がある。
ここは矮人同士の手続きだ。
自分は後ろで見ていればいい。
リナは後室と前工房をつなぐ陰へ下がった。
ウォーレンも前へ出ようとしたため、片手で制する。
「お嬢様?」
「見ていて」
黒曜が差し出した紅茶を受け取る。
「ここは彼らの国よ」
ウォーレンは一瞬だけ前方を見て、それから頷いた。
「……承知しました」
前では、バロックが切断された原木を眺めていた。
嫌悪を隠そうともしない。
「これは何だ?」
尖った声が工房へ響く。
「差し押さえ対象になる資材を勝手に破壊したのか。公物損壊まで重ねるつもりか?」
「第一に、破壊ではありません。原因調査のための検査です」
アーガスが一歩出た。
手には聴音管と報告書。
緊張で肩は硬い。それでも声は崩さなかった。
「第二に、工房はまだ差し押さえられていません」
羊皮紙を持ち上げる。
「第三に、前回あなたが示した猶予は十五日です。今日は四日目。期限前の執行には根拠が必要です」
工房が静かになる。
リナは紅茶を口元まで運びながら、その言葉を聞いた。
日付。
手続き。
前回の通告。
アーガスは自分が理解できる規則の上へ、相手を引き戻そうとしている。
だがバロックは何も返さなかった。
十五日という期限を否定しない。
新しい命令も示さない。
言い訳すら作らない。
ただアーガスを見ている。
視線は空虚で、返答する気配さえなかった。
リナの眉が少し寄る。
おかしい。
普通の腐敗官吏なら、自分の体裁を守るための文句くらい用意する。
上から命令が変わった。
緊急性が生じた。
新たな証拠が出た。
嘘でも構わない。権力を合法に見せる包装はする。
目の前の男には、それすら必要ないらしい。
「大人」
アーガスが歯を噛み、もう一度声を出す。
「事故原因は判明しています。こちらの報告を確認してください」
紙束を差し出した。
バロックが動いた。
顔を少し横へ向け、隣の衛兵隊長へ顎を振った。
重装の矮人兵が前へ出る。
アーガスがまだ報告書を差し出している。
鉄の籠手が振られた。
ぱん、と乾いた音。
アーガスの手首が弾かれ、羊皮紙が宙へ散った。
何枚も床へ落ち、煤と濡れた泥を吸う。
アーガスは腕を上げた姿勢のまま止まった。
目が見開かれたまま、数秒動かない。
次に、顎が固く締まる。
バロックの視線が聴音管へ移った。
「それが、お前たちの切り札か?」
衛兵がもう一歩近づく。
アーガスが反射的に聴音管を引いた。
「触るな」
間に合わなかった。
軍靴が管の中央へ落ちる。
ぐしゃり、と金属が潰れた。
細い導音部が折れ、集音口が歪む。
衛兵はさらに踵を捻った。
きし、きし、と昨夜一晩かけて削り、合わせ、組んだ部品が潰れていく。
最後に、靴底についた煤をアーガスのズボンへ擦りつけて足を戻した。
バロックは指一本動かしていない。
口元には薄い笑みが残っていた。
「てめえええっ!」
トールが大槌を掴んだ。
「アイアンソーンを舐めるな!」
二歩も進まないうちに、ブレイクが後ろから腰へしがみつく。
「やめろ、トール!」
「離せ、親父!」
「駄目だ!」
ブレイクの声が震えている。
太い指がトールの服を掴み、布越しに肉へ食い込んだ。
「相手は官だ! 山王の名で来てる! お前が槌を振った瞬間、工房の話じゃ済まなくなる!」
「そうだ。父親の言うことを聞け」
バロックが袖口を整える。
「少しは頭の回る野蛮人もいるらしい」
彼は散らばった報告書を見下ろした。
「お前たちは、こんな木切れや落書きで罪が消えると思っているのか?」
一歩だけブレイクへ近づく。
手が届かない距離で止まり、袖口を軽く払った。
「私が見ているのは、この工房が山王国に従う場所かどうかだ」
鼻と口を布で覆う。
「お前たちは臭い。鉄と煤の臭いじゃない。命令されても頭を下げない者の臭いだ」
目が細くなる。
「山王の認可がなければ、お前たちは槌を振ることも、物を売ることもできない」
一拍。
「呼吸さえ、許されているだけだ」
その場の誰も声を出せなかった。
書類も検査も、この男の前では審理の材料にすらならない。
権力そのものが、証拠を床へ踏みつけている。
後室の陰で、リナの紅茶が止まった。
聞き覚えのある声だった。
力を持つことと、正しいことを混同した者の声。
自分より弱い者の仕事も尊厳も、最初から数に入れない人間の声。
かつて処刑台へ送られる直前まで、自分の家名だけで世界が従うと思い込んでいた貴族たちとよく似ている。
ただし、ここは彼女の領地ではない。
動くな。
頭の奥で理性が命じる。
出れば、外交になる。
商会を巻き込む。
アイアンソーン家を助けるどころか、別の罪状を与えるかもしれない。
分かっている。
それでも胃の奥がひっくり返りそうだった。
怒り。
嫌悪。
目の前で誰かの尊厳を靴底に敷く光景への、生理的な拒絶。
リナは紅茶を受け皿へ戻そうとした。
いつも通り、音を立てずに。
かち。
薄い磁器が触れ合った。
ほんの小さな音だった。
茶が一滴、白い指へ跳ねる。
熱い。
リナは指先の茶色い染みを見つめた。
自分の手が、わずかに震えている。




