第七話-【第二幕:夜明けと感情からの逃避】(挿絵あり)
外へ出ると、雪はもう止んでいた。
昨夜、家も道も白く埋めた吹雪は、屋根の端や石壁の隙間にだけ痕跡を残している。
空気には、ヴァンデル商会の執務室では嗅げない匂いが混じっていた。
切ったばかりの松材。
無煙炭。
熱を持った機械油。
鉄床を叩く振動まで、匂いに混ざっているようだった。
工房は沈んでいると思っていた。
昨日まで、全面的な取引停止と差し押さえの影が頭上にあったのだ。
ところが、中庭へ出たリナの足が止まる。
廃材の山の周りを、職人と見習いたちが走り回っていた。
沈んだ顔はない。
皆、手に札や白墨や小槌を持ち、次の材を運べ、番号を記せ、と声を掛け合っている。
中心にいたのはアーガスだった。
彼の手には、昨夜話していた木管とは少し違う、細長い金属製の管がある。片端には漏斗状の集音部、もう片端には耳へ当てる小さな受け口。
聴音管。
夜が明ける前に、形にしたらしい。
「第47番試料。打音」
アーガスが短く告げた。
見習いが小槌を上げ、巨大な鉄木の側面を軽く叩く。
こん。
わずかに濁った低音が残った。
アーガスは目を閉じた。
集音部を樹皮へ密着させ、耳元の管へ意識を集中させる。
数秒。
目が開いた。
「病変あり。内部繊維の崩壊音を確認。赤印。切断して断面確認」
「おう!」
トールが伐採斧を担いで前へ出る。
大きく振りかぶり、一気に落とした。
がつん、と硬い音。
二撃目。
鉄木が割れ、直径半メートルほどの断面が陽の下へ晒された。
本来なら濃く締まった色を持つ芯材の一部が灰色に変わり、筋に沿って細かな崩れが走っている。
切断面から、ごく薄い苦杏仁の匂いが上がった。
「……本当に当たってる」
「外から何も見えなかったぞ」
「音だけで分かったのか?」
見習いたちの声が一斉に上がった。
ヴァンデル側の技師たちまで、聴音管へ顔を寄せている。
昨夜、実用化困難と赤字を入れた者の一人が、悔しそうに笑っていた。
「お嬢様!」
ウォーレンが回廊のリナに気づいた。
羊皮紙の束を抱えたまま、子供のような勢いで走ってくる。
「お目覚めでしたか。これを!」
紙束を差し出す。
「首席が夜のうちに聴音管を仕上げました。倉庫の鉄木を順番に調べて、疑わしい材だけ切断確認しています。今のところ、聴音で病変判定したものは断面でも一致しています」
リナは報告を受け取り、上から追った。
試料番号。
仕入れロット。
打音所見。
切断後の内部状態。
客訴品との照合。
病変材の外観には共通した異常がない。
内部には灰斑と繊維崩壊。
そして、これまで破損した車椅子の材料ロットは、今回の病変材と同じ仕入れ群に集中している。
リナの目から眠気が消えた。
これは使える。
加工記録に致命的な欠陥はない。
破損品には同一仕入れ群という共通点がある。
聴音で選別した原木を切れば、内部病変を現物で示せる。
推測だった原因が、他人の前へ並べられる証拠へ変わった。
「いいわ」
口元が上がる。
昨夜の迷いは消え、商人の目が戻っていた。
数字。
記録。
再現可能な検査。
ここから先はリナの領域だ。
「ウォーレン。検査記録を正式な報告書へまとめて」
羊皮紙を丸め、掌へ軽く打ちつける。
「切断した病変材の断面は保存。客訴五件の製造記録、仕入れロット、納品日も一緒に綴じる。正常材との比較も付けて」
「はい!」
「これなら輪椅子の破損を理由に工房の技術欠陥を断定するのは難しい。原因は原料側にある。しかも市場へ流れ込んだ病変材よ」
リナの声に温度がなくなっていく。
「山王側が工房だけを差し押さえるなら、こちらは原料流通の監督責任を問える。汚染材を市場へ放置した問題として扱えば、公共安全まで話を広げられる」
ウォーレンの顔が明るくなった。
「承知しました。すぐに」
「待って」
踵を返しかけた彼を止める。
リナは中庭を見る。
アーガスが次の原木へ集音部を当てている。
少し離れた場所では、アイリーンが車椅子の上で番号と結果を書き留めていた。
トールが材を運び、ブレイクが断面を確かめ、サラが皆へ湯を配っている。
家族が同じ方向を向いて動いていた。
昨夜の食卓と同じ温度が、今度は工房全体に広がっている。
胸の奥がまたむず痒くなった。
症状が出た。
「車を出せるか確認して」
「……今からですか?」
ウォーレンが目を瞬く。
「雪は止んだ。街道が通れるなら、報告書をアーガスへ渡した後すぐパラディアへ戻る」
「ですが、まだ山王側との」
「証拠は揃った」
リナは言葉を切った。
「後は提出して手続きを進めればいい。私がここで家族団欒に付き合う必要はないわ」
「お嬢様」
「命令よ、ウォーレン」
声が冬の空気より冷たくなる。
「私は他にも仕事を抱えている。ここは重要な取引先ではあるけれど、私自身が何日も張りつく場所ではない」
礼服の裾を握る指に力が入った。
帰る。
この場所から離れる。
これ以上、自分の中に妙なものが根を張る前に。
「……承知しました」
ウォーレンは主人の背を数秒見つめ、短く息を吐いた。
それ以上は何も言わず、車隊へ向かう。
リナの肩から、わずかに力が抜けた。
終わる。
報告書を渡せば、ここでの仕事は終わる。
冷たく、広く、誰も勝手に皿へ肉を入れてこない商会の執務室へ戻れる。
アイリーンの声も、頭を撫でた掌の感触も、そのうち薄れる。
そう思いながら後室へ戻ろうとした瞬間。
轟音が工房を揺らした。
厚い正門が内側へ跳ね、木材が悲鳴を上げる。
冷たい風が一気に吹き込み、職人たちの声を奪った。
続いて響いたのは、規則正しい金属音だった。
がん、がん、がん。
黒鉄の重装鎧を着た矮人兵が二列になって入ってくる。
長戟の刃が冬の光を返し、鉄靴が工房の床を踏み鳴らした。
見習いたちが後ずさる。
アーガスは聴音管を下ろした。
隊列が左右へ割れた。
深紅の官服。
胸元の金色の竜章。
脂ぎった笑み。
バロックだった。
獲物を回収しに来た顔をしている。
リナの足が止まった。
たった今、自分で作った出口を、正面から踏み潰された気がした。
「……ちっ」
舌打ちが漏れた。




