第七話-【第一幕:アレルギー】(挿絵あり)
第七話:山王の牙
【第一幕:アレルギー】
光には重さがある。
リナ・ヴァンデルが目を開けた瞬間、最初に浮かんだのはそんな考えだった。
粗い麻布のカーテンを突き抜けた陽光が、瞼の上へ容赦なく落ちている。朝の柔らかな光ではない。もう正午に近い、白く強い日差しだった。
リナは跳ね起きた。
いつもなら弦のように張っている身体が、今日は妙に重い。肩も腰も力が抜け、長く眠った後にしか残らない鈍いだるさが全身にまとわりついていた。
反射的に枕元へ手を伸ばす。
短剣はない。
帳簿もない。
指先に触れたのは、陽の匂いを吸った柔らかな綿だけだった。
そこで、もう一つ気づく。
夢を見ていない。
契約を奪われる夢も、笑顔のまま背中を刺される夢も、一族の席順を巡って誰かが誰かを蹴落とす夢もなかった。
十年以上続いてきた夜の騒音が、昨夜だけは途切れていた。
赤子みたいに眠った。
もっと悪い。
何の警戒もしていない馬鹿みたいに眠った。
「……最悪」
掠れた声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
隣を見る。
アイリーンが使っていた場所はもう空いている。掛け布団はきちんと畳まれ、枕元には乾いた薬草の匂いが薄く残っていた。
昨夜、頭に触れた掌の温度まで思い出しそうになり、リナは眉を寄せた。
裸足で床へ降りる。
冷えた板の感触が足裏へ刺さった。少しだけ頭が冴える。
おかしい。
彼女の体内時計は、上等な懐中時計より遥かに正確だった。前夜にどれほど遅くまで仕事をしても、夜明け前には目が覚める。最初の陽が街へ落ちる頃には、髪も服も表情も整い、ヴァンデル商会の後継者として一日を始めている。
今日は、その時間を丸ごと失った。
扉が静かに開いた。
黒曜が銅の洗面器を持って入ってくる。
寝台の端に座る主人を見ると、口元がほんのわずかに上がった。
「おはようございます。……それとも、こんにちは、お嬢様?」
リナの目が細くなる。
「どうして起こさなかったの」
「起こしました」
黒曜は湯気の立つ布を差し出した。
「二時間ほど前に一度。そのさらに一時間前にも」
リナの手が止まる。
「私は何て?」
「最初は唸って、寝返りを打たれました。二度目は布団を頭まで引き上げて」
黒曜は一拍置いた。
「『うるさい』と」
熱い布を受け取ったまま、リナが固まった。
「……私が?」
「はい。アイリーン様も聞いておられました」
黒曜は平然と旅行鞄を開き、何着かの服を取り出す。
「もう起こさなくていい、と。お疲れなのだから、普通の女の子みたいに寝坊させてあげて、と仰っていました」
リナは熱い布を顔へ押し当てた。
表情を隠すために。
疲れている。
普通の女の子。
その二つの言葉が、ひどく気に障った。
原因は、もっと厄介なところにある。
アレルギーだ。
アイアンソーン家という環境そのものに、身体が妙な反応を起こしている。
無防備な信頼。
不器用なくせに温かい家族。
そして昨夜の、あの言葉。
アーガスの翼を、あなたに託してもいい?
思い出しただけで胸の奥がむず痒くなった。
毒性の花粉でも吸い込んだ気分だった。神経が鈍り、警戒心が眠り、あろうことかこの家で安全を感じた。
リナ・ヴァンデルにとって、安全は甘い毒だった。
居場所に慣れれば、離れがたくなる。
誰かを頼れば、そこを狙われる。
弱点を持った瞬間から、相手には攻める場所が見える。
「服を」
布越しの声が硬くなる。
「どちらを?」
リナは立ち上がり、黒曜が出した衣装を一瞥した。
それから旅行鞄の奥を指す。
「緑の天鵞絨。銀糸刺繍の、立ち襟のもの」
黒曜の手が止まった。
「正式な晩餐用ですが。工房でお召しになるには、少々」
「それを」
短い声だった。
黒曜はそれ以上言わず、衣装を取り出した。
硬い天鵞絨。
身体の線を崩さない仕立て。
首元を高く囲う襟。
銀糸の刺繍。
今のリナには、その窮屈さが必要だった。
昨夜の木綿のように、この家へ馴染む服で外へ出ていきたくない。
この家の一員に見えることさえ、今は避けたかった。
鏡の前で立ち襟を整える。
碧緑の天鵞絨に包まれた少女が、冷えた目でこちらを見返した。
ヴァンデル商会の後継者。
商人。
必要ならいつでも席を立ち、利益のない場所から離れられる人間。
それでいい。
「準備は?」
鏡の中の自分へ問う。
「これは商売。問題を片づけて、利益を守る。それが済んだら、すぐ帰る」
襟元を指で押さえる。
「二度と、変な勘違いをしないために」
リナは扉を開けた。




