第六話-【第九幕:凍土に蒔かれた種】(挿絵あり)
沈黙の中で、薪が一度だけ爆ぜた。
アイリーンはリナの手から自分の手を離さなかった。
「リナちゃん。私ね、あの場所を見たことがあるの」
「……あの場所?」
「死ぬところ」
あまりに静かな言い方だった。
リナは顔を上げる。
アイリーンの指が、自分の動かない脚をゆっくり撫でている。
「暗かった。何もなかったよ。音も、痛みも、怖さも、だんだんなくなっていった」
その声に震えはない。
「そこから戻ってきて、分かったの。人の一生って、思ってるよりずっと短いんだって」
リナは、今夜交わした言葉を思い返した。
弟を縛りたくない。
帰る巣は作れる。
でも空は渡せない。
どれも先の時間が短い人間の言葉に聞こえた。
「あなた……」
喉が乾く。
「さっきから、まるで遺言みたいなことばかり言ってる」
アイリーンが少し笑った。
「そう聞こえた?」
リナは笑えなかった。
目の前の女は、自分の身体を削りながら、この家の全員へ熱を分けている。
父の頑固さを受け止める。
母の不安を和らげる。
弟のトールが苛立てば、ぶつける先を少しずらしてやる。
末弟のアーガスが自分を責めれば、帰る場所になる。
誰も気づかないように。
その姿が急に、ひどく危うく見えた。
言葉が口から落ちた。
考えるより先だった。
「あなたがみんなを照らしてるなら」
アイリーンが目を瞬く。
「誰が、あなたを照らすの?」
リナ自身が、その問いに一番驚いた。
利益も、立場も、次の言葉も考えていない。
「そんなふうに燃え続けたら、鍛炉より先にあなたが消えるわ」
声が少し掠れた。
アイリーンはしばらくリナを見ていた。
それから、柔らかく笑った。
「消えること自体は、そんなに怖くないよ」
「……怖くない?」
「怖いのはね。消える前に、渡せるはずだった光を残してしまうこと」
窓の外では、まだ雪が降っている。
「だから、出来るだけ遅くまで燃えていたい。私が安心して沈めるくらい、ちゃんとした夜空を見つけるまで」
リナの胸が重くなる。
アイリーンは、今度は逃げずに真正面からこちらを見た。
「私は飛べない」
同じ言葉。
「アーガスを連れて飛ぶことも出来ない」
そして。
「でも、あなたなら出来る」
リナの指が動いた。
「私?」
「うん」
アイリーンはリナの手を両手で包んだ。
「あなたにいくつ顔があるのか、私は知らない。あの子へ近づいた最初の理由が何だったのかも」
アイリーンの表情は穏やかなままだった。
「たぶん、計算もしてるでしょう。あの子の価値も、商会に何をもたらすかも」
リナは黙った。そこは事実だった。
「でも、それだけじゃない」
アイリーンは続ける。
「あなたがアーガスを見る時、ときどき痛そうな顔をするの」
リナの眉が寄る。
「……私が?」
「うん。本人はたぶん、認めないだろうけど」
心配。
いたわり。
それを自分へ当てはめる言葉が、ひどく居心地悪い。
――あの驢馬を心配して、私に何の得がある。
反射的に浮かんだ反論は、口には出なかった。
アイリーンはその沈黙ごと受け取った。
「だから、お願いがあるの」
声が少しだけ真剣になる。
「私が渡せない空を、あの子に見せてあげて」
リナは動けなかった。
「私には、帰る場所を守ることしか出来ない。でもあなたは、あの子が行ける場所を増やせる」
そこには条件も、報酬も、違約金もなかった。
一人の姉が、もっとも大切な弟の未来を差し出している。
「アーガスの翼を、あなたに託してもいい?」
重い。
口約束一つでは受け止めきれない重さだった。
リナは頷かなかった。
頷けば、自分の未来にまでこの家を組み込むことになる。
その意味が分からないほど、彼女は軽くない。
けれど目を逸らすことも出来なかった。
アイリーンは、それで十分だったらしい。
「今すぐ答えなくていいよ」
微笑む。
「聞いてくれただけでいい」
そして、その手が伸びた。
リナは何をされるのか分からず、身体を固くした。
掌が頭頂へ触れた。
「……っ」
髪を一度、ゆっくり撫でられる。
リナの全身が硬直した。
記憶を探しても、こんなふうに頭を撫でられた経験がない。
掌から伝わるのは、疲れた子供を落ち着かせる穏やかさだけだった。
危険だ、と頭が告げる。
こういう温度は判断を鈍らせる。
弱点になる。
距離を取れ。
なのに身体は反対のことをした。
肩が落ちる。
首の力が抜ける。
ほんのわずか、掌の方へ頭が寄った。
次の瞬間、リナは慌てて顔を背けた。
「……子供扱いしないでください」
「ごめんね」
アイリーンはまったく反省していない声で笑った。
それから長くはかからなかった。
身体の弱いアイリーンは、先に眠りへ落ちた。
呼吸がゆっくり整っていく。
リナだけが目を開けたまま、暗い天井を見ていた。
やがて横を向く。
眠っているアイリーンの顔は白い。
昼間よりさらに弱く見える。
歩くことも出来ない。
家の外へ出るだけで誰かの助けが要る。
なのに。
この家で一番大きなものを支えているのは、この人なのかもしれない。
父が怒鳴れば、受け止める。
母が不安になれば、笑わせる。
弟のトールが意地を張れば、逃げ道を作る。
末弟のアーガスが自分を責めれば、帰る場所になる。
夕食でリナが涙を落とした時も、誰より早く卓を動かした。
言葉を強めなくても、皆が自然に彼女の作った流れへ乗る。
「……恐ろしい人」
リナは音にしないほど小さく呟いた。
こんな統率を、商会の会議室で見たことはない。
柔らかいのに、逆らう必要を感じさせない。
この女が、アイアンソーン家の中心にいる。
そして。
アーガスが何度失敗しても前へ進める理由の一つが、ここにある。
帰れば、この人がいる。
自分を失敗作だと思っても、受け入れる人がいる。
だから、また外へ出られる。
リナの中で、一つの式が静かに固まった。
アイリーンを抜きに、アーガスという人間は語れない。
窓の外で風が強くなる。
この温かさは、あまりに無防備だった。
権力を持つ者。
利益のためなら他人の生活ごと踏み潰す者。
弱さを見つければ、そこへ刃を入れる者。
そんな世界に、この家の不器用さをそのまま晒せば、いつか壊される。
リナは自分の手を見た。
先ほどアイリーンに包まれていた場所に、まだ熱が残っている。
最初に浮かんだのは、守る、という言葉だった。
リナはその衝動へ名前を与える代わりに、頭の中へ商会の理屈を並べ始めた。
アイアンソーン工房は重要な取引先。
アーガスは商会の重要な技術顧問候補。
この家が潰れれば、商会にも損失が出る。
理由はいくらでも作れた。
それでも、最後まで消えなかった像がある。
雪の中に立つ、小さな家。
その周囲へ、自分の手で高い壁を築く。
常春藤の葉を思わせる、深い緑の壁。
凍った土の奥へ、誰にも見えない種が一つ落ちた。
芽が出るかどうかは、まだ誰も知らない。
リナ自身でさえ。




