↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

199/259

第六話-【第九幕:凍土に蒔かれた種】(挿絵あり)

 沈黙の中で、薪が一度だけ爆ぜた。


 アイリーンはリナの手から自分の手を離さなかった。


「リナちゃん。私ね、あの場所を見たことがあるの」


「……あの場所?」


「死ぬところ」


 あまりに静かな言い方だった。


 リナは顔を上げる。


 アイリーンの指が、自分の動かない脚をゆっくり撫でている。


「暗かった。何もなかったよ。音も、痛みも、怖さも、だんだんなくなっていった」


 その声に震えはない。


「そこから戻ってきて、分かったの。人の一生って、思ってるよりずっと短いんだって」


 リナは、今夜交わした言葉を思い返した。


 弟を縛りたくない。


 帰る巣は作れる。


 でも空は渡せない。


 どれも先の時間が短い人間の言葉に聞こえた。


「あなた……」


 喉が乾く。


「さっきから、まるで遺言みたいなことばかり言ってる」


 アイリーンが少し笑った。


「そう聞こえた?」


 リナは笑えなかった。


 目の前の女は、自分の身体を削りながら、この家の全員へ熱を分けている。


 父の頑固さを受け止める。


 母の不安を和らげる。


 弟のトールが苛立てば、ぶつける先を少しずらしてやる。


 末弟のアーガスが自分を責めれば、帰る場所になる。


 誰も気づかないように。


 その姿が急に、ひどく危うく見えた。


 言葉が口から落ちた。


 考えるより先だった。


「あなたがみんなを照らしてるなら」


 アイリーンが目を瞬く。


「誰が、あなたを照らすの?」


 リナ自身が、その問いに一番驚いた。


 利益も、立場も、次の言葉も考えていない。


「そんなふうに燃え続けたら、鍛炉より先にあなたが消えるわ」


 声が少し掠れた。


 アイリーンはしばらくリナを見ていた。


 それから、柔らかく笑った。


「消えること自体は、そんなに怖くないよ」


「……怖くない?」


「怖いのはね。消える前に、渡せるはずだった光を残してしまうこと」


 窓の外では、まだ雪が降っている。


「だから、出来るだけ遅くまで燃えていたい。私が安心して沈めるくらい、ちゃんとした夜空を見つけるまで」


 リナの胸が重くなる。


 アイリーンは、今度は逃げずに真正面からこちらを見た。


「私は飛べない」


 同じ言葉。


「アーガスを連れて飛ぶことも出来ない」


 そして。


「でも、あなたなら出来る」


 リナの指が動いた。


「私?」


「うん」


 アイリーンはリナの手を両手で包んだ。


「あなたにいくつ顔があるのか、私は知らない。あの子へ近づいた最初の理由が何だったのかも」


 アイリーンの表情は穏やかなままだった。


「たぶん、計算もしてるでしょう。あの子の価値も、商会に何をもたらすかも」


 リナは黙った。そこは事実だった。


「でも、それだけじゃない」


 アイリーンは続ける。


「あなたがアーガスを見る時、ときどき痛そうな顔をするの」


 リナの眉が寄る。


「……私が?」


「うん。本人はたぶん、認めないだろうけど」


 心配。


 いたわり。


 それを自分へ当てはめる言葉が、ひどく居心地悪い。


 ――あの驢馬を心配して、私に何の得がある。


 反射的に浮かんだ反論は、口には出なかった。


 アイリーンはその沈黙ごと受け取った。


「だから、お願いがあるの」


 声が少しだけ真剣になる。


「私が渡せない空を、あの子に見せてあげて」


 リナは動けなかった。


「私には、帰る場所を守ることしか出来ない。でもあなたは、あの子が行ける場所を増やせる」


 そこには条件も、報酬も、違約金もなかった。


 一人の姉が、もっとも大切な弟の未来を差し出している。


「アーガスの翼を、あなたに託してもいい?」


 重い。


 口約束一つでは受け止めきれない重さだった。


 リナは頷かなかった。


 頷けば、自分の未来にまでこの家を組み込むことになる。


 その意味が分からないほど、彼女は軽くない。


 けれど目を逸らすことも出来なかった。


 アイリーンは、それで十分だったらしい。


「今すぐ答えなくていいよ」


 微笑む。


「聞いてくれただけでいい」


 そして、その手が伸びた。


 リナは何をされるのか分からず、身体を固くした。


 掌が頭頂へ触れた。


「……っ」


 髪を一度、ゆっくり撫でられる。


 リナの全身が硬直した。


 記憶を探しても、こんなふうに頭を撫でられた経験がない。


 掌から伝わるのは、疲れた子供を落ち着かせる穏やかさだけだった。


 危険だ、と頭が告げる。


 こういう温度は判断を鈍らせる。


 弱点になる。


 距離を取れ。


 なのに身体は反対のことをした。


 肩が落ちる。


 首の力が抜ける。


 ほんのわずか、掌の方へ頭が寄った。


 次の瞬間、リナは慌てて顔を背けた。


「……子供扱いしないでください」


「ごめんね」


 アイリーンはまったく反省していない声で笑った。


 それから長くはかからなかった。


 身体の弱いアイリーンは、先に眠りへ落ちた。


 呼吸がゆっくり整っていく。


 リナだけが目を開けたまま、暗い天井を見ていた。


 やがて横を向く。


 眠っているアイリーンの顔は白い。


 昼間よりさらに弱く見える。


 歩くことも出来ない。


 家の外へ出るだけで誰かの助けが要る。


 なのに。


 この家で一番大きなものを支えているのは、この人なのかもしれない。


 父が怒鳴れば、受け止める。


 母が不安になれば、笑わせる。


 弟のトールが意地を張れば、逃げ道を作る。


 末弟のアーガスが自分を責めれば、帰る場所になる。


 夕食でリナが涙を落とした時も、誰より早く卓を動かした。


 言葉を強めなくても、皆が自然に彼女の作った流れへ乗る。


「……恐ろしい人」


 リナは音にしないほど小さく呟いた。


 こんな統率を、商会の会議室で見たことはない。


 柔らかいのに、逆らう必要を感じさせない。


 この女が、アイアンソーン家の中心にいる。


 そして。


 アーガスが何度失敗しても前へ進める理由の一つが、ここにある。


 帰れば、この人がいる。


 自分を失敗作だと思っても、受け入れる人がいる。


 だから、また外へ出られる。


 リナの中で、一つの式が静かに固まった。


 アイリーンを抜きに、アーガスという人間は語れない。


 窓の外で風が強くなる。


 この温かさは、あまりに無防備だった。


 権力を持つ者。


 利益のためなら他人の生活ごと踏み潰す者。


 弱さを見つければ、そこへ刃を入れる者。


 そんな世界に、この家の不器用さをそのまま晒せば、いつか壊される。


 リナは自分の手を見た。


 先ほどアイリーンに包まれていた場所に、まだ熱が残っている。


 最初に浮かんだのは、守る、という言葉だった。


 リナはその衝動へ名前を与える代わりに、頭の中へ商会の理屈を並べ始めた。


 アイアンソーン工房は重要な取引先。


 アーガスは商会の重要な技術顧問候補。


 この家が潰れれば、商会にも損失が出る。


 理由はいくらでも作れた。


 それでも、最後まで消えなかった像がある。


 雪の中に立つ、小さな家。


 その周囲へ、自分の手で高い壁を築く。


 常春藤の葉を思わせる、深い緑の壁。


 凍った土の奥へ、誰にも見えない種が一つ落ちた。


 芽が出るかどうかは、まだ誰も知らない。


 リナ自身でさえ。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。