第六話-【第八幕:見えない鉄衣】
(昨日、第6幕から第8幕へ飛んでしまい申し訳ありません。第8幕しかご覧になっていない方は、上に戻っていただければ第7幕もございますので、そうしていただけるとより自然につながってわかりやすいかと思います。)
しばらくして、アイリーンが自分の脚へ手を置いた。
「リナちゃん。私の脚、どう見える?」
突然の問いに、リナは眉を寄せた。
掛け布団の下にある両脚へ目を向ける。
「……重い傷を負った脚。治療しても、まだ歩けない」
「それだけ?」
答えを求められ、少し考える。
「本人にとっては、大きな損失でしょうね」
アイリーンは静かに笑った。
「私には、牢籠かな」
その言葉にリナの視線が戻る。
「この脚が動かないから、私は一人で遠くへ行けない。階段一つでも誰かの手が要る。家を出る時には、いつも先に道を考えなきゃいけない」
アイリーンは淡々と事実を並べた。
「そして、この脚はアーガスの牢籠でもあるの」
「彼の?」
「うん」
アイリーンは膝のあたりを撫でた。
「私がこうなったことを、あの子は今でも自分の責任みたいに抱えてる。治したい。元に戻したい。それが出来ない自分を許せない」
リナは反論できなかった。
あの試験室に残っていた記録を思い出す。
成功より後悔ばかりを書いた紙。
「私がいる限り、あの子は何度でもここへ戻ってくる」
アイリーンの声は優しい。
「それは嬉しいよ。家族だもの」
少し間を置いた。
「でも、嬉しいからって、縛っていい理由にはならない」
リナの胸に、その言葉が静かに落ちた。
「私はあの子に、帰ってこられる巣は作れる。でも空までは渡せない」
アイリーンは窓の方を見る。
「私は飛べないから」
吹雪の音が硝子を叩いた。
「アーガスの才能は翼よ。あの子はもっと遠くまで行く。ここに置いておけば、きっといつか自分で羽を折る」
リナは口を開きかけた。
慰めの言葉ならいくつも知っている。
医療は進歩している。
治療法はまだ探せる。
資金なら用意できる。
どれも今の話とは違う気がして、言えなかった。
アイリーンがこちらを見る。
「でもね」
翠緑の瞳が、まっすぐリナを捉えた。
「あなたも、私と同じものを着てるように見える」
「私が?」
反射的に否定する。
「私は自由です。大陸の半分は自分の足で回りました。行きたい場所へ行けます」
「そうだね」
「なら――」
「たくさんの場所へ行けるのに、リナちゃん自身はどこにいるの?」
言葉が止まった。
意味を量ろうとしているうちに、アイリーンは続ける。
「今夜、あなたは私たちの間に座ってた。でも、ずっと遠かった」
声には責める気配がなく、ただ静かだった。
「見えない鉄の服を着てるみたいだった。磨いて、継ぎ目をなくして、何を投げられても傷つかないようにしてる」
リナの喉が詰まる。
「それは必要な防護です」
ようやく出た声は、思っていたより硬かった。
「この世界で、無防備な人間から先に食われます。私は私を守るために――」
「うん」
また肯定された。
「生きるためには必要なんだと思う」
アイリーンの笑みは暖かかった。
「だから、脱げなんて言わないよ」
リナは目を瞬いた。
「ただ」
アイリーンは少し首を傾ける。
「ずっと着たまま食べて、寝て、誰かと話すのは……寒くない?」
胸の奥へ、細い針が入った。
アイリーンが選んだのは、ただ「寒くない?」という一言だった。
孤独や不幸を勝手に名づける言葉を重ねられるより、その問いだけが深く刺さった。
「これは保護です」
リナは同じ言葉を繰り返した。
「必要だから着ているんです」
同じ説明を繰り返すしかなかった。
「うん。私たちはみんな、生きなきゃいけないからね」
アイリーンはゆっくり手を伸ばした。
長く手仕事をしてきた指には、わずかな硬さがある。
その手が暗がりを越え、リナの手の甲へ重なった。
温かい。
驚くほど。
「私たち、どっちも何かに閉じ込められてるのかもしれないね」
アイリーンの親指が、リナの冷えた指先へ触れる。
「せっかく吹雪が今夜だけ同じ場所に閉じ込めてくれたんだから」
翠緑の目が笑った。
「その鉄の服、ここでは少しだけ脱いでみない?」
返事が出来ない。
「ほんの少しでいいよ」
アイリーンの声は、火のそばで溶ける雪のように静かだった。
「ここには商会も、交渉相手もいない。炉の火と、私しかいないから」
身体の内側で、何かが切れた。
音はしなかった。
肩から急に力が抜ける。
奥歯に残る痛みが、それまでどれほど強く噛み締めていたかを教えた。
疲れが一気に押し寄せた。
何年分もの疲れが、身体の奥から一度に押し寄せたような重さだった。
掛け布団の中で呼吸が浅くなる。
見抜かれた。
算段も、言葉の選び方も、表情の作り方も。
母に見透かされた時は、抗えない力で鎧を剥がされ、怒りと怖さと無力さだけが残った。
アイリーンは鎧へ手を掛けない。暖かい場所を示し、脱ぐかどうかをリナへ委ねている。
だからこそ、逃げ方が分からなかった。
リナは何も言わない。
手も引かなかった。
完璧な姿勢も、整えた微笑みも、もうなかった。
暗い部屋の中で、ただ一人の疲れた少女として、肩を落とした。




