第六話-【第七幕:悪意を問う夜】(挿絵あり)
「目?」
リナは平静な声を作った。
頭の中では、すでに過去の場面を拾い始めている。
学院。
商会。
工房。
馬車。
自分は距離を守ってきた。アーガスも露骨な態度を取った覚えはない。
どこを見られた。
「どんな目なんです?」
「警戒してる」
アイリーンは指を一本折るような調子で言った。
「それから、困ってる。あなたが次に何をするか分からなくて、いつも少し振り回されてる感じ」
「それは否定しません」
「あと、頼ってる」
リナは黙った。
「本人は気づいてないかもしれないけどね」
アイリーンの声は、弟の癖を語る姉のものだった。
「帰ってきてから、私たちに言いたそうで言わないことが何度かあった。あなたのことも、商会のことも。口まで出かかって、飲み込むの」
背中に細い緊張が走った。
アーガス。
あの馬鹿。
何か顔に出していたのか。
いや。
ここで反応すれば、かえって情報を与える。
「守秘契約があります」
リナは即座に答えた。
「商会で扱う情報を家族へ漏らさないのは当然です。彼が話さないのは職業倫理を守っているから。それ以上の意味はありません」
「契約で口は止められても、目までは止められないでしょう?」
アイリーンの返答は速くなかった。
それでも、逃げ道を塞ぐには十分だった。
「今夜の食事でもそうだった」
リナの指先が強張る。
「あなた、ずっと私たちを見てたでしょう。お父さんが怒鳴る時。お母さんが料理を取り分ける時。トールが言い返す時。アーガスが笑う時」
「初めての家ですもの。観察くらいします」
「うん。商人ならするでしょうね」
アイリーンはそこで一度、言葉を止めた。
「でも、あの目は商品の値段を測ってる目じゃなかった」
リナは返さない。
「すごく遠いところから、暖かい窓を見てるみたいだった」
夕食で飲み込んだ脂の重さが、胸の奥へ戻ってきた。
孤独。
そう言われなかったことが、かえって苦しかった。
アイリーンはそれ以上、踏み込まなかった。
「リナちゃん」
「……何です?」
「こっちを見て」
命令というほど強くない。
それでもリナは顔を向けた。
暗い部屋の中で、翠緑の目だけがはっきり見える。
「あなたは、悪意を持って私たちに近づいたの?」
呼吸が止まった。
商談なら、簡単な質問だった。
定義を曖昧にする。
目的と手段を分ける。
相手の前提を問い直す。
質問そのものを無効にする。
百通りでも逃げられる。
なのに、口が動かなかった。
最初は。
利用価値を測った。
囲い込めるか考えた。
アーガスの才能を、商会にとって扱いやすい形へ置きたいと思った。
それは悪意なのか。
商人なら投資と呼ぶ。
では、今は。
答えを作ろうとするほど、言葉が遅れた。
その僅かな遅れを、アイリーンは見逃さなかった。
けれど追及もしなかった。
「そっか」
小さく笑う。
「ちゃんと迷うんだね」
「……どういう意味です?」
「悪い意味じゃないよ」
アイリーンはリナの手へ触れた。
指先を重ねるだけの、軽い触れ方だった。
「何も感じない人なら、今みたいな顔はしないもの」
リナは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
「私、あなたが何を隠してるか知りたいわけじゃないの」
アイリーンの声がさらに柔らかくなる。
「言えないことがあるなら、言わなくていい。アーガスにもあるし、たぶんあなたにはもっとある」
そこで境界を引く。
越えてこない。
「ただ、あの子を傷つけないで」
言葉は穏やかだった。
けれどそこだけは、姉として一歩も退かない線だった。
「それさえ守ってくれるなら、ここでは話せることだけ話せばいい。何も話したくない日は、それでもいい」
リナは答えられなかった。
契約書より明確な条件だった。
なのに署名も保証も求められない。
「それと」
アイリーンが急に少し笑った。
「その寝衣、やっぱり着心地悪いでしょう?」
「……別に」
「首のところ、さっきから三回も掻いてるよ」
リナの手が止まる。
「お母さんの木綿、丈夫だけど少し硬いから」
「問題ありません」
「羊に混ざるための羊皮だから?」
リナの身体が固まった。
耳の奥まで熱くなる。
「聞いてたんですか!?」
「聞こえちゃった」
くすくす笑う声。
「黒曜さんにあんなに真面目な顔で言うから」
リナは掛け布団を鼻先まで引き上げたくなる衝動を必死で抑えた。
「……忘れてください」
「じゃあ一つだけ」
アイリーンは笑いを収めた。
「ここの羊は、毛だけ見て仲間を決めたりしないよ」
リナは黙った。
リナは数秒黙り、その言葉を胸の中で転がした。
この女は、秘密を暴こうとしなかった。
警戒を解けとも言わなかった。
境界線を一本引いて、その内側に小さな扉だけを開けた。
入るかどうかは、リナに任せたまま。
それが、ひどく厄介だった。




