第六話-【第六幕:羊皮の寝衣】
夜が深まる頃には、吹雪がアイアンソーン家の小さな家を完全に閉じ込めていた。
窓硝子へ雪粒が叩きつけられ、時折、風が低く唸る。
その音の向こうで、アイリーンの部屋だけは静かだった。
広くはない。だが整っている。乾かした薬草の淡い香りが残り、壁際にはアーガスが取り付けた手すりが何本もある。どれも角が丸く削られ、指を滑らせても引っかかりがなかった。
黒曜が携行鞄を開き、薄い絹の寝衣を取り出した。
「お嬢様」
いつも使っているものだった。
軽く、柔らかく、肌へ触れてもほとんど重さを感じない。
リナはそれを見た後、寝台の端に置かれた別の寝衣へ目を移した。
サラが貸してくれた厚手の木綿だった。
何度も洗われて白さが抜け、袖口には小さな毛玉がある。形も野暮ったい。
「そっちはしまって」
リナは絹を指した。
黒曜の眉が、ほんのわずかに動く。
「こちらをお召しになりますか」
「ええ」
木綿の寝衣を持ち上げる。
「羊の群れに混ざるなら、羊皮くらい被るものよ」
小声だった。
「警戒させないための偽装。今夜だけ」
黒曜は何も言わなかった。
ただ一礼し、絹の寝衣を鞄へ戻した。
着替えると、布は予想通り粗かった。首元も手首も少しちくちくする。けれど厚い生地が身体を包む感覚には、妙な重さがあった。
寝台へ入る。
掛け布団は十分に温かかった。
隣に横たわるアイリーンから、乾いた草の香りがする。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
薪がぱちりと爆ぜる。
リナは天井の太い梁を見つめながら、頭の中を切り替えた。
夕食の失態は終わった。
次に考えるべきことがある。
アイリーンと二人きり。
これは機会だった。
アーガスにもっとも強く影響を与える家族。彼が何より守ろうとする姉。彼女と信頼関係を築ければ、今後の協力は格段に進めやすくなる。
リナは横を向いた。
「この部屋、薬草の匂いがするのね」
「そう?」
「ええ。それに、この手すり」
暗がりの中で、壁際の木製扶手へ目を向ける。
「全部アーガスが作ったのでしょう? 触っても引っかからない。握る位置までよく考えてある」
「そうね」
アイリーンの返事は穏やかだった。
「彼、本当にあなたを大事にしているのね」
入り口としては悪くない。
姉を褒めながら、弟の価値も認める。
そこからヴァンデル商会が何を与えられるかへ繋げればいい。
「リナ」
アイリーンが先に口を開いた。
「私にあの子を売り込まなくていいわよ」
リナは瞬きをした。
「……売り込む?」
「ええ。アーガスが金だってことなら、とっくに知ってるもの。誰より早くね」
暗闇の中で、アイリーンが少し笑った気配がした。
リナは数秒黙った。
見抜かれた?
いや。
単に姉として、弟を褒められることに慣れているだけかもしれない。
なら、切り口を変える。
「もちろん、あなたが彼の才能をよく知っていることは分かっています」
声を整えた。
「だからこそ、その才能を活かせる環境が必要です。ヴァンデル商会なら、大陸規模の材料調達も販路も用意できる。彼が研究だけに集中できる条件も――」
「リナ」
また止められた。
今度は名前だけだった。
リナの口が閉じる。
アイリーンが身体を少しこちらへ向けた。
「私はアーガスの話より、あなたの話が聞きたいな」
「……私?」
「そう」
問いの意味が分からない。
リナは反射的に、もっとも安全な答えを選んだ。
「私は彼の共同事業者で、ヴァンデル商会の後継者です。私の役目は、双方に最大の利益が残るよう資源を配分し――」
「そういう肩書きじゃなくて」
アイリーンは笑った。
「あなた自身のこと」
リナの指が、掛け布団の内側で少し動いた。
「私は……私ですよ」
「うん。だから、そのリナの話」
答えになっていない。
商談なら、質問の目的を確認するところだ。
何を知りたいのか。どこまで情報を渡すべきか。返答から相手が何を得るのか。
けれどアイリーンは、答えを急かさなかった。
「若いのに、あれだけの技師や商会の人たちを動かしてる。姓だけで出来ることじゃないわ」
暗闇の中で、翠緑の目がこちらを見ていた。
「リナちゃん、あなたはとても強い人なのね」
その呼び方に、リナの眉が少し動く。
「でも、ずいぶん硬い殻を着てる」
「殻?」
「アーガスが作る鉄の箱みたい。きれいに磨いて、隙間をなくして、中を見せないようにしてる」
リナの手が掛け布団を掴んだ。
その言葉の奥にある観察の鋭さを、リナははっきり感じ取った。
「この世界で鎧を着ない人間は、生き残れません」
声が少し冷たくなった。
「私は、自分と協力者を守るために必要なものを身につけているだけです。アーガスにも、その保護は必要でしょう」
「うん。必要だと思う」
あっさり肯定された。
リナが用意していた次の言葉が行き場を失う。
「あなたなら、守れるものも多いでしょうね」
アイリーンは天井へ目を戻した。
それから、ごく自然な口調で続けた。
「でもね。アーガスがあなたを見る時だけ、少し目が違うの」
リナの心臓が、一拍だけ遅れた。




