第六話-【第五幕:涙の落ちる音】(挿絵あり)
考えようとしているのに、思考だけが白く途切れていた。
その空白を埋めるように、身体が先に動いた。
リナの右手が匙を持ち上げる。自分でそうしようと決めた覚えはない。褐色の汁を吸った飯と、サラが置いた脂身の多い肉が、匙の上で一緒になった。
口元まで運ばれる。
止める理由なら、いくらでもあった。
衛生。礼儀。体調管理。食事量の統制。
それでも手は止まらなかった。
肉を噛んだ。
熱い。
塩辛い。
脂が舌の上で一気に溶け、濃い味が口いっぱいに広がる。上品さとは無縁だった。香辛料は荒く、火の入り方にもむらがあり、脂は多すぎる。
なのに、妙に鮮烈だった。
頬の内側まで熱が届く。喉を通り、胃へ落ちていく。その一連の感覚が、今ここに自分の身体があることを嫌でも知らせてきた。
――食べすぎてはいけません。
冷たい声が、突然、記憶の底から浮かび上がった。
幼い頃の礼儀教師だった。
――特定の料理を好む素振りは見せないこと。嗜好は弱点になります。毒を盛る側に、手掛かりを与えるだけです。
――涙は交渉の席でもっとも安い札です。感情は判断を濁らせます。ヴァンデルの後継者に必要なのは、正確な計算だけ。
背筋がさらに伸びた。
そうだ。
顔を戻せ。
食べ方を整えろ。
今の自分は客だ。見られている。弱いところを晒すな。
リナは呼吸を整えようとした。
表情は崩れていない。
口元も、姿勢も、いつも通りだった。
それでも。
右目の縁から、一滴だけ熱いものがあふれた。
頬を伝う間さえ長く感じた。
雫は顎先を離れ、白い飯の上へ落ちた。
小さな音だった。
誰にも聞こえないはずの音。
けれどリナには、卓の上に槌を落としたほど大きく響いた。
会話が止まった。
ブレイクの口が開いたまま固まる。
トールは箸を止めた。
アーガスは目を見開き、反射的に懐へ手を入れた。出てきたのは、機械油の染みた作業布だった。
彼は布とリナの顔を見比べ、絶望したように手を止める。
「えっと……これ、肉が辛すぎた、とか……?」
ブレイクが最悪の問いを口にしかけた、その時。
ちん。
硬い箸先が、彼の器の縁を軽く叩いた。
アイリーンだった。
「お父さん。この煮込み、今日は少し塩が強いわ」
「ん?」
「地下室から去年の木苺酒を持ってきて。口直しにちょうどいいから」
「今か?」
「今」
声は柔らかい。
だがブレイクは、娘がこういう声を出した時に逆らってはいけないことを知っていた。
「……分かった」
立ち上がりかけて、まだ座ったままのトールを見る。
「おい、何してる。手伝え」
「俺も?」
「瓶を落としたらどうする!」
「親父の方が落とすだろ……」
二人はぶつぶつ言いながら部屋を出ていった。
アイリーンは次にアーガスを見る。
「アーガス」
「な、何?」
「お湯を沸かして。部屋の暖房管が少し詰まってるみたい。今夜はリナさんに私の部屋を使ってもらうから」
「でも今――」
「お願い」
短い一言だった。
アーガスは姉の目を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
リナを一度だけ心配そうに見てから、台所へ向かう。
サラもそこで察したらしい。
何も尋ねなかった。
卓の皿を重ね、わざと少し大きな音を立てながら片づけを始める。食器が触れ合う音が、残った沈黙を細かく砕いていった。
アイリーンは紙も布も差し出さなかった。
泣かないで、とも言わない。
ただ向かい側に座ったまま、リナと他の家族の間へ静かに身体を置いていた。
見られたくないものを、見られないようにするために。
リナは自分の膝へ視線を落とした。
涙を見られた。
それなのに、誰も理由を問い詰めなかった。
誰も慰めようと手を伸ばさなかった。
誰も、それを弱点として拾わなかった。
ただ、見なかったことにするために動いた。
その扱い方を、リナは知らなかった。
もう一滴が落ちそうになり、彼女は目を閉じた。
今度は、無理に止めなかった。




