第六話-【第四幕:五感の侵入】
決定的な一撃は、主菜と一緒に運ばれてきた。
鉄峰山名物の山猪の煮込みだった。
大きな鉢の中で、濃い褐色の汁が湯気を上げている。皮付きの豚肉、根菜、汁を吸った豆腐。脂が表面に薄く浮き、炭火の熱で揺れていた。
匂いが強い。
安い香辛料。
獣脂。
薪の煙。
生きているものをそのまま鍋へ押し込んだような、乱暴な香りだった。
リナは鉢の端から野菜をほんの少し掬い、自分の皿へ移した。
一口。
小さく噛む。
飲み込む。
「まあ、リナちゃん。それじゃ小鳥じゃない」
サラの声がすぐ横で弾けた。
「そんな細い手首して。遠慮しないで食べなさい」
リナが返事をするより早く、箸が伸びてきた。
サラの手だった。
長年働いてきた指は太く、節には硬い皮膚がある。
そして、その箸。
さっきまでサラ自身が使っていた。
口へ入れたものと同じ箸だった。
リナの視線が止まった。
箸は煮込みの中へ入る。
一度、二度。
肉を探す。
それから、最も大きく、脂身の多い一切れをつまみ上げた。
褐色の汁が、肉の端から垂れる。
箸はアーガスの皿を越えた。
自分の側へ来る。
近い。
止まらない。
ぽとり。
大きな肉が、白い飯の上へ置かれた。
濃い汁が米粒の間へ染み込み、白を褐色へ変えていく。
リナの瞳孔が縮んだ。
胃がきゅっと痙攣する。
汚い。
同じ箸。
他人の唾液。
自分の皿へ勝手に入れられた食べ物。
身体が先に拒絶した。
幼い頃から叩き込まれてきた衛生と境界の感覚が、一斉に警報を鳴らした。
けれどサラは、そんなことを何も知らない。
「アイアンソーンじゃ、腹が減ってたら戦えないよ。もっと食べて、少し肉をつけなさい。街の娘は細すぎるんだから」
彼女は笑った。
「誰かにいじめられても、いじめ返せるくらいにはね!」
リナの頭の奥で、冷たい声が返した。
馬鹿馬鹿しい。
誰が私をいじめる。
誰がそんなことを許される。
人を守る力は、契約にある。
金にある。
規則にある。
相手が手を出す前に、その選択肢そのものを奪う。
それが力だ。
肉を食べて強くなるなど、獣と変わらない。
そう考えた時だった。
「トール! お前、また炉材を使いすぎたな!」
ブレイクの怒鳴り声が卓を揺らした。
「だから違うって! あの鋤先は温度を落としたら――」
「言い訳するな! 燃料がただだと思ってるのか、この馬鹿!」
顔を真っ赤にしたブレイクが卓を叩く。
唾が飛びそうな勢いだった。
トールも負けずに言い返す。
リナは反射的に視線を向けた。
喧嘩。
少なくとも、彼女の知る食卓ならそう分類する。
父親が息子を公然と罵倒している。
言葉だけを拾えば、関係が壊れていてもおかしくない。
その最中。
ブレイクの匙が、煮込み鉢へ入った。
肉を探る。
骨付きの、最も柔らかそうな一切れを取る。
そして怒鳴り続けたまま、トールの器へ放り込んだ。
「食え!」
ごん、と肉が器へ落ちる。
「その身体で腹減らして槌振れるか! 食ってから反省しろ!」
トールは一瞬だけ肉を見た。
「……分かってるよ」
口ではまだ不満そうだった。
だが肉には手をつけた。
いつものことなのだ。
誰も気に留めないほど自然だった。
リナは、自分の皿の上にある、脂身の多い肉を見た。
次にトールの器を見る。
同じだった。
言葉では怒鳴る。
手では与える。
責めながら、一番いいものを渡す。
筋が通っていない。
少なくとも、彼女の知っている計算では。
好意を示すなら、好意的な言葉を使う。
敵意を示すなら、利益を与えない。
それが普通だ。
なのにこの家では、口と手がまったく別のことをしている。
しかも誰も、その矛盾を矛盾だと思っていない。
アーガスが小さく笑った。
サラが「また始まった」と呆れた声を出す。
アイリーンは困ったように笑いながら、トールの器を少し奥へ押して、父親の次の一撃から守った。
皆、分かっている。
怒鳴り声の中身も。
肉を渡す意味も。
明日がどうなるか分からない、この家の状況さえも。
それでも誰も口にしない。
代わりに笑う。
食べさせる。
怒鳴る。
いつもの夜を、いつもより少しだけ大きな音で続けている。
リナの理解が追いつかなかった。
苦しいなら、なぜ隠す。
怖いなら、なぜ笑う。
終わるかもしれないなら、なぜ今夜をこんなに楽しそうにする。
合理性のある答えが、一つも出てこない。
自分の皿に置かれた肉から、まだ湯気が上がっていた。
鼻を刺す脂の匂い。
肩へ触れるアーガスの体温。
ブレイクの怒鳴り声。
サラの笑い声。
鉄の匙が器へ当たる音。
五感すべてから、知らない価値観が押し込まれてくる。
頭の中で何かが渋滞した。
整理できない。
分類できない。
損得の秤へ載せても、針が止まらない。
リナはただ、目の前の肉を見つめた。
考えようとしているのに、思考だけが白く途切れていた。




