第六話-【第三幕:油煙と青磁】(挿絵あり)
アイアンソーン家の食堂は、リナが想像していたより狭かった。
部屋へ入ると、人との距離の近さが真っ先に身体へ迫ってきた。
部屋の中央には、角の一部が欠けた丸い木卓が置かれている。表面はきれいに拭かれていたが、長い年月でついた包丁傷や焦げ跡までは消えない。油灯の光を受け、黒ずんだ木目が鈍く光っていた。
煮込み肉の脂。
焼いた平パンの焦げ。
安い蒸留酒の刺すような匂い。
炭火鉢から上がる煙。
どれも遠慮なく混ざり合い、部屋を満たしている。
香りそのものに重さがあるようだった。
リナの乗馬服に残る香油の匂いなど、押し潰してしまいそうなほどに。
「ほらほら、遠慮しないで座って!」
サラが布巾で卓をもう一度強く拭いた。
リナに割り当てられた席は、アーガスとサラの間だった。
古い樫の椅子へ腰を下ろす。
ぎしっ。
思わず背筋がさらに伸びた。
卓が小さい。
全員が座れば、肩と肩の間にほとんど空間が残らない。
隣のアーガスが腕を少し動かすだけで、薄い布越しに体温が伝わった。
温かい。
近い。
逃げ場がない。
リナの肩がわずかに固まった。
顔には、いつもの微笑みを置いたまま。
目の前にあるのは、欠けた黒い丸卓だった。
それなのに視界の奥へ、別の食卓が重なった。
ヴァンデル家の白樺の長卓。
磨かれた白い天板は広く、席と席の距離は正確に保たれている。
母は五メートルほど先。
手を伸ばしても届かない場所に座っていた。
料理は一皿ずつ取り分けられ、銀器は決められた角度で並ぶ。誰の皿へも手は伸びない。誰の身体も触れない。
会話は穏やかだった。
声量まで整っていた。
銀のナイフが磁器へ触れる音だけが、やけに鮮明だった。
「それでな、あの馬鹿が槌を振り上げたまま滑りやがって!」
ブレイクの大笑いが、記憶の音を吹き飛ばした。
卓が揺れる。
酒が少しこぼれる。
トールが「親父、それ何年前の話だよ!」と声を上げ、サラが笑いながら彼の皿へ勝手に料理を足す。
誰も境界を守らない。
誰かの手が誰かの皿へ入り、肩がぶつかり、笑い声が重なる。
ヴァンデル家では、食卓の秩序が人を守っていた。
ここでは、湯気と笑い声の中で境界そのものが曖昧になっていく。
しかも誰も困っていない。
距離が消えるほど、むしろ楽しそうだった。
リナは重い鉄の匙を持ち上げた。
銀器より太く、重心も悪い。
指先へ馴染まない。
壁際には黒曜が立っていた。
食卓には着かない。
静かに控え、必要があれば一歩で動ける位置にいる。
この部屋で唯一、いつもの秩序を残している存在だった。
その姿が視界へ入るたび、リナはわずかに呼吸を整えられた。
「……大丈夫?」
隣から小さな声がした。
アーガスだった。
彼はリナの前にある陶杯を見ていた。縁に洗い残した水滴が一つついている。
アーガスは清潔な布を探し、見つけた食卓布の端で杯を拭こうとした。
その不器用さが、かえって目立った。
リナはすぐ手を伸ばし、その手の甲を軽く押さえた。
「いいのよ、アーガス」
笑う。
「ここ、とても温かいわ。こういう賑やかな食卓……私、好きよ」
半分は、彼を安心させるための言葉だった。
半分は、本当だった。
暖かい。
暖かすぎて、逃げたくなるほどに。
「ほら見なさい!」
サラが笑い、アーガスの手から布を奪った。
「リナちゃん本人がいいって言ってるのに、あんたが一番気にしてどうするの。さっさと食べなさい!」
「いや、でも――」
「食べる!」
「はい……」
卓の向こうで笑いが起きた。
リナも合わせて笑った。
また一つ、境界が消えた。
食器。
距離。
身体。
会話。
ヴァンデル家では、越えてはいけない線として教え込まれてきたものが、この家では湯気の中で次々と消えていく。
リナは匙を握ったまま、自分がどこへ座っているのか分からなくなるような、軽い眩暈を覚えた。
白い長卓の端。
黒い丸卓の中央。
二つの食卓が視界の中で重なり、互いに相容れない距離感を突きつけてくる。




