↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

193/263

第六話-【第三幕:油煙と青磁】(挿絵あり)

 アイアンソーン家の食堂は、リナが想像していたより狭かった。


 部屋へ入ると、人との距離の近さが真っ先に身体へ迫ってきた。


 部屋の中央には、角の一部が欠けた丸い木卓が置かれている。表面はきれいに拭かれていたが、長い年月でついた包丁傷や焦げ跡までは消えない。油灯の光を受け、黒ずんだ木目が鈍く光っていた。


 煮込み肉の脂。


 焼いた平パンの焦げ。


 安い蒸留酒の刺すような匂い。


 炭火鉢から上がる煙。


 どれも遠慮なく混ざり合い、部屋を満たしている。


 香りそのものに重さがあるようだった。


 リナの乗馬服に残る香油の匂いなど、押し潰してしまいそうなほどに。


「ほらほら、遠慮しないで座って!」


 サラが布巾で卓をもう一度強く拭いた。


 リナに割り当てられた席は、アーガスとサラの間だった。


 古い樫の椅子へ腰を下ろす。


 ぎしっ。


 思わず背筋がさらに伸びた。


 卓が小さい。


 全員が座れば、肩と肩の間にほとんど空間が残らない。


 隣のアーガスが腕を少し動かすだけで、薄い布越しに体温が伝わった。


 温かい。


 近い。


 逃げ場がない。


 リナの肩がわずかに固まった。


 顔には、いつもの微笑みを置いたまま。


 目の前にあるのは、欠けた黒い丸卓だった。


 それなのに視界の奥へ、別の食卓が重なった。


 ヴァンデル家の白樺の長卓。


 磨かれた白い天板は広く、席と席の距離は正確に保たれている。


 母は五メートルほど先。


 手を伸ばしても届かない場所に座っていた。


 料理は一皿ずつ取り分けられ、銀器は決められた角度で並ぶ。誰の皿へも手は伸びない。誰の身体も触れない。


 会話は穏やかだった。


 声量まで整っていた。


 銀のナイフが磁器へ触れる音だけが、やけに鮮明だった。


「それでな、あの馬鹿が槌を振り上げたまま滑りやがって!」


 ブレイクの大笑いが、記憶の音を吹き飛ばした。


 卓が揺れる。


 酒が少しこぼれる。


 トールが「親父、それ何年前の話だよ!」と声を上げ、サラが笑いながら彼の皿へ勝手に料理を足す。


 誰も境界を守らない。


 誰かの手が誰かの皿へ入り、肩がぶつかり、笑い声が重なる。


 ヴァンデル家では、食卓の秩序が人を守っていた。


 ここでは、湯気と笑い声の中で境界そのものが曖昧になっていく。


 しかも誰も困っていない。


 距離が消えるほど、むしろ楽しそうだった。


 リナは重い鉄の匙を持ち上げた。


 銀器より太く、重心も悪い。


 指先へ馴染まない。


 壁際には黒曜が立っていた。


 食卓には着かない。


 静かに控え、必要があれば一歩で動ける位置にいる。


 この部屋で唯一、いつもの秩序を残している存在だった。


 その姿が視界へ入るたび、リナはわずかに呼吸を整えられた。


「……大丈夫?」


 隣から小さな声がした。


 アーガスだった。


 彼はリナの前にある陶杯を見ていた。縁に洗い残した水滴が一つついている。


 アーガスは清潔な布を探し、見つけた食卓布の端で杯を拭こうとした。


 その不器用さが、かえって目立った。


 リナはすぐ手を伸ばし、その手の甲を軽く押さえた。


「いいのよ、アーガス」


 笑う。


「ここ、とても温かいわ。こういう賑やかな食卓……私、好きよ」


 半分は、彼を安心させるための言葉だった。


 半分は、本当だった。


 暖かい。


 暖かすぎて、逃げたくなるほどに。


「ほら見なさい!」


 サラが笑い、アーガスの手から布を奪った。


「リナちゃん本人がいいって言ってるのに、あんたが一番気にしてどうするの。さっさと食べなさい!」


「いや、でも――」


「食べる!」


「はい……」


 卓の向こうで笑いが起きた。


 リナも合わせて笑った。


 また一つ、境界が消えた。


 食器。


 距離。


 身体。


 会話。


 ヴァンデル家では、越えてはいけない線として教え込まれてきたものが、この家では湯気の中で次々と消えていく。


 リナは匙を握ったまま、自分がどこへ座っているのか分からなくなるような、軽い眩暈を覚えた。


 白い長卓の端。


 黒い丸卓の中央。


 二つの食卓が視界の中で重なり、互いに相容れない距離感を突きつけてくる。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。