第六話-【第二幕:白い封印】(挿絵あり)
「木管だ。中を空洞にして、片側を原木へ――」
アーガスが興奮したまま説明を始めた、その時だった。
工房の外を吹き抜けていた風が、突然止んだ。
ふいごの音も、槌の音も残っている。
それなのに世界だけが、一枚の厚い布をかぶせられたように静かになった。
窓辺へ、一片の白が落ちる。
雪だった。
煤で灰色になった窓枠の上へ、真っ白な結晶が一つだけ残った。
「止めろ!」
ブレイクの怒声が飛んだ。
次の瞬間、彼は冷却用の大桶を持ち上げ、その水を燃え盛る炉へ一気に浴びせた。
轟音。
白い蒸気が爆ぜ、工房を丸ごと呑み込む。
橙色の火は一瞬で潰れ、濡れた炭と鉄の臭いが鼻を刺した。
「父さん!?」
トールが大槌を取り落としかける。
「炉を閉じろ」
ブレイクは空になった桶を床へ置き、窓の外を見た。
顔が硬い。
「焼入れ雪だ」
リナは一歩下がった。
黒曜が音もなく前へ出て、蒸気と煤の流れから主人を庇う。
「伯父様」
リナは眉を寄せた。
「今、完全に炉を落としたら、再点火にも時間がかかるでしょう。工房の状況を考えれば――」
「山神を怒らせるよりは安い」
トールが槌を置き、窓へ近づいた。
いつの間にか白い粒が次々と斜めに流れ、石畳を薄く覆い始めていた。
「今年最初の雪だ。初雪は山神が炉を冷ます水だって、昔から決まってる。今夜は鉄峰山中の鍛炉を止める」
彼は振り返った。
「無理に火を使えば、打った鉄は脆くなる。そう教わってきた」
「規則だ」
ブレイクが短く言った。
「アイアンソーンでは、稼ぎより先に守るものがある」
リナの唇がわずかに開いた。
迷信だ。
そう切り捨てる言葉は、舌先まで来ていた。
だが工房の扉が乱暴に開いた。
「お嬢様!」
御者が雪まみれで飛び込んでくる。髭には細かな氷がつき、肩で息をしていた。
「出られません。急に積もり始めました。車輪は凍り、坂道は黒く凍っています。馬が踏ん張れません」
リナは一秒だけ黙った。
黒曜を見る。
黒曜は窓の外へ目を向け、それから小さく頷いた。
馬車では無理。
リナは指先に生まれた苛立ちを、手袋の中で一度だけ握り潰した。
予定外。
計画外。
彼女が最も嫌う種類の言葉だった。
けれど、変えられない事実に腹を立て続けても利益は生まれない。
ならば、条件を変える。
それだけだった。
顔から硬さが消えた。
黒曜へ短く視線を送り、余計な動きをするなと伝える。
「アーガス」
振り返った時には、いつもの整った微笑みが戻っていた。
「どうやら今夜は、お世話になるしかないみたい」
聴音管の構想を頭の中で組み立てていたアーガスが、そこでようやく現実へ戻った。
リナの乗馬服を見る。
煤で汚れた床を見る。
狭い主屋の方角を見る。
「……家、客間がないんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる。
「たぶん、かなり不便だと思う」
「雪を止められるなら、今からでも帰るわよ」
「それは無理だ」
「でしょう?」
リナはあっさり答えた。
工房と主屋をつなぐ細い通路を抜けると、壁際に粗い石造りの水槽があった。山から引いた冷たい水が絶えず流れ込んでいる。
「先に洗った方がいい」
アーガスが水槽を示した。
「ここ、煤がすごいから」
リナは頷き、白い手袋を外して黒曜へ渡した。
指先を水へ沈める。
「……っ」
刺すような冷たさが骨まで走った。
彼女はゆっくり両手を擦った。
汚れなど、ほとんどついていない。
それでも何度も水を掬い、指の間まで洗う。
石槽を流れる水が、苔の縁を濡らしていった。
予定が崩れた時、彼女はいつも次の手順を作る。
今夜は帰れない。
なら、ここで失点しない。
ヴァンデルの人間として、不快さも戸惑いも表へ出さない。
それが次の手順だった。
リナは水面に揺れる自分の顔を見た。
少し疲れている。
だが、それ以外はいつも通りだ。
口角を上げる。
目元を柔らかくする。
誰に見せても問題のない、感じのよい少女の顔が出来上がった。
「行きましょう」
振り返ったリナは、待っていたアーガスへ完璧な微笑みを向けた。
「皆さんを待たせたら悪いもの」
アーガスの足が、ほんの少し止まった。
優しい笑顔だった。
礼儀正しくて、親しみやすい。
自分たちに気を遣っていることも分かっている。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
さっきまで雪と馬車のことで苛立っていた顔は、もうどこにもない。
切り替えが速すぎた。
精密に削った歯車を、形の違う箱へ無理に押し込んだような違和感だった。
アーガスは後頭部を掻いた。
うまく言葉にはできない。
ただ。
あんなに綺麗に笑っているのに、どうして少し苦しそうに見えるんだろう。
答えが出ないまま、彼はリナの後を追った。




