第六話-【第一幕:聞こえない音】
第六話:不器用な家族の食卓
アイアンソーン工房の空気は、焼けた炉壁のように乾いていた。息を吸うたび、喉の奥へ細かな煤が張りつく。
巨大なふいごが、疲れた獣の呼吸のように低く鳴る。赤熱した鉄屑が飛び、重い槌が鉄床を打つたび、床の埃が薄く跳ねた。
半刻ほど前、職人も見習いも仕事を終えて帰っている。
今、広い工房に残っているのはアイアンソーン家の者たちと、予定外に居残ることになったヴァンデル家の令嬢だけだった。
トールは上半身を裸にし、自分の太腿ほどもある大槌を振るっていた。標的は農具用の大きな鋤先だ。
汗が岩のような肩を伝い、赤い鉄床へ落ちる。
じゅっ、と白い蒸気が上がった。
槌は必要以上に強かった。
一打ごとに、山王国から届いた裁定書を叩き潰しているようだった。全面的な取引停止。工房の名を市場から消すという宣告。その紙切れに刻まれた未来を、鉄と一緒に砕こうとしている。
工房の最も暗い一角では、アーガスが廃材だらけの作業台へ身を縮めていた。
細長い探針を一本持ち、積み上げられた鉄木の原木を順番に叩いていく。
こん。
澄んだ音。
次。
こん。
同じように澄んでいる。
アーガスが追っていたのは、木そのものよりも、打音の後に残るわずかな余韻だった。
車椅子を壊した鉄木は、外見だけなら正常品と見分けがつかない。森で侵された原木が伐採場へ混じり、そのまま工房まで流れ込んだ。内部の繊維は荷重を受けた時だけ脆く崩れる。
確実に見分ける方法は、今のところ削るか穿つかしかない。
一本を調べるために一本を傷つける。
正常な材まで大量に失う。
今のアイアンソーン家には、そんな検査を続けられる余裕などなかった。
だから、音だった。
内部の密度が違うなら、同じ形、同じ長さでも、響き方はわずかに変わるはずだ。
アーガスはもう一度叩いた。
こん……。
眉が動く。
今の音は、少しだけ低かった気がする。
彼は反射的に身を屈め、耳を樹皮へ近づけた。
あと指一本。
そこで身体が止まる。
「……駄目だ」
未処理の鉄木は、表面の粉塵と細かな毛が強い刺激を持つ。直接肌へ触れれば赤く腫れ、長く晒せばただれることさえある。
耳を近づけなければ微かな響きは拾えない。
近づければ耳を傷める。
アーガスは探針を持ったまま、原木を睨んだ。
「またそこ?」
背後から、紙の束が胸へ軽く当たった。
振り返ると、リナが巻いた報告書を手に立っていた。
彼女は鍛炉から最も遠い通風口の下を選んでいる。端正な乗馬服の裾と長靴には薄く炭灰がついていたが、それでも煤だらけの工房では異物のように整って見えた。
黒曜は少し離れた場所で、主人へ火の粉が飛ばない位置を静かに測っている。
「うちの技師も同じところで止まったわ」
リナは報告書を開き、最後の頁を指した。
赤字の走り書きで、短く記されている。
――侵された鉄木は打音に差が出る可能性あり。ただし原木は刺激性が強く、耳を近づけての聴取は不可。実用化困難。
アーガスはその一文を二度読んだ。
「……同じことを考えてたのか」
「専門家が何人か集まれば、その程度までは辿り着くわよ」
リナは肩をすくめた。
「でも、その先がない。だから死路だと判断した。あなたも同じところで耳を腐らせる必要はないわ」
言葉は冷たいのに、最後の一言だけ妙に具体的だった。
アーガスは報告書と原木を交互に見た。
高い場所にいる商会の令嬢と、煤の中に座り込む自分。
使える人間も、持っている金も、比べものにならない。
それでも、同じ問題へ手を伸ばし、同じ壁にぶつかっていた。
音。
近づけない。
なら。
アーガスの指が止まった。
耳を木へ運ぶ必要はない。
音の方を耳へ運べばいい。
「……そうか」
探針が作業台へ落ちた。
中空の管。
一端を原木の曲面へ密着させ、反対側を耳へ当てる。木の振動を管の中へ逃がさず導けば、皮膚を樹皮へ触れさせる必要はない。
水を管で引くのと同じだ。
形は簡単でいい。木管一本で足りる。
拍子抜けするほど単純だった。
単純すぎて、今まで誰も視界に入れていなかった。
アーガスは勢いよく立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れ、木材へぶつかる。
「リナ、方法がある!」
さっきまで焦点を失っていた黒い瞳に、一気に火が戻っていた。
リナは巻いた報告書を持ったまま片眉を上げた。
「……今、私が何をしたの?」
本人には心当たりがなかった。
けれど、アーガスの頭の中では、すでに一本の細い管が、聞こえなかった音をこちら側へ引き出し始めていた。




