第五話-【第七幕:醜い機械と嫉妬】
リナはV2・5・1の前に立ったまま、長い間動かなかった。
手元の光球は弱く、目の前のわずかな範囲だけを照らしている。
そのせいで、周囲の闇はいっそう深く見えた。
彼女は、自分の顔に張りついていた完璧な作り笑いが、この死んだような静けさの中で、少しずつひび割れていくのを感じていた。
これは、彼女が受けてきた教育とは違うものだった。
ヴァンデル家で。
パラディアの社交界で。
半精霊合衆国の宮廷で。
すべての行為には、必ず見返りがある。
愛には条件があり、関係は数値化でき、犠牲は必ず天秤の反対側に等価の報酬を要求する。
それが鉄則だった。
彼女の世界を支える土台だった。
だからリナが最初にアーガスを重視したのも、彼が有望な資産だったからだ。
商会に莫大な利益をもたらし得る道具。
育てる価値のある投資先。
彼女の優しさは、計算された投資だった。
だが、目の前にあるこれは何だ。
いつ爆発するか分からない部屋に自分を閉じ込め、わずかな可能性に命を賭ける。
失敗を重ね、肉親を殺しかけた罪悪感に焼かれながら、それでもなお自分を燃やし続ける。
ただ、姉を救うために。
商人や貴族の論理から見れば、それは完全な赤字だった。
愚かで、狂気で、理不尽極まりない。
理性は、リナに告げていた。
嫌悪すべきだ。
リスクと見返りを無視した原始的な衝動など、嘲笑すべきだ。
彼女は背を向け、この危険すぎる資産を再評価すべきだ。
けれど。
リナはゆっくりと手を伸ばした。
雪のように白い手袋は、手の甲だけならまだ美しい。
だが親指と人差し指の間には、トールが残した煤の跡がある。
彼女はそれを拭わなかった。
先ほど贈り物を受け取った時のように、ハンカチで隔てることもしなかった。
そのまま、煤のついた指先を、V2・5・1の中枢部にある最も荒々しい溶接跡へ押し当てる。
冷たかった。
単なる金属の冷たさではない。
深い夜と、孤独と、失敗の重みが混ざった冷たさだった。
指先に伝わる凹凸は、傷跡に似ていた。
それは、アーガスの痛みだった。
彼女の視線が下へ落ちる。
操作レバーには、二つの深く窪んだ溝があった。
何度も握られ、引かれ、削られた跡だ。
汗と鉄錆が混じり、金属を腐食させている。
それは、あの少年が数えきれない深夜に、この命綱を死に物狂いで握りしめていた証だった。
レバーの下には、乱雑な紙束が挟まっていた。
一番下から、皺だらけの小さな草図がのぞいている。
そこには、簡素な車椅子の原型が描かれていた。
赤いペンで、びっしりと点と注記が加えられている。
横には、小さな文字があった。
姉さんは歩けない。
だが、感覚は残っている。
ここは機能性だけでなく、快適さも必要。
そうしないと、彼女が痛がる。
その一行を見た瞬間、リナの胸の奥で、何かが変質した。
嫌悪と理解のどちらにも収まらない。
喉の奥に酸がせり上がる、もっと醜いもの。
嫉妬だった。
そう。
彼女は嫉妬していた。
すべてを持ち、数えきれない人々に囲まれているはずの商会の女王が。
車椅子に座る、歩けない少女に嫉妬していた。
アイリーンは持っている。
アーガスのように、代償を問わず、見返りも求めず、自分を砕いてでも守ろうとする誰かを。
自分が痛がるかもしれないという理由だけで、機械の性能だけでなく座り心地まで気にする誰かを。
一方で、リナはどうだ。
彼女は何でも持っている。
金も、権力も、血筋も、知識も、未来も。
けれど、そんなふうに自分を守ろうとする者は、誰一人としていない。
すべてを持っているのに、何も持っていない。
何も持っていないように見える少女が、最も欲しいものを持っている。
その落差が、重い鎚のようにリナの自尊心を叩いた。
「……本当に、狂っているわね」
リナは小さく悪態をついた。
声は、少し掠れていた。
彼女は自分の手袋についた煤を見た。
トールの煤。
機械の錆。
焦げ跡。
それらは混ざり合い、もう簡単には分けられなかった。
その瞬間、リナはそれを汚いとは思わなかった。
ただ、重いと思った。
手首が痛くなるほど重い。
それでも、手放すことをためらわせる重さだった。




