第四話-【第六幕:権力の悪意】(挿絵あり)
「標的が特定できた以上、解決策はこれです」
アーガスは討伐依頼書をリナへ差し出した。
「キメラの弱点と素材の回収価値を、可能な限り詳しく書いてあります。これを冒険者ギルドへ持ち込み、高級懸賞として出せば、三日以内に受ける小隊が現れるはずです」
リナは羊皮紙を受け取り、記された金額を一瞥した。
今のアイアンソーン家にとっては巨額。だがヴァンデル商会から見れば、一晩の晩餐会にも満たない額だった。
彼女は何も言わず、腰から金色のペンを抜いた。
そしてアーガスとアイリーンが息を呑む前で、金額の後ろに優雅に二つのゼロを書き足した。
「この費用は商会が負担するわ」
修正された依頼書は、彼女の傍らに控えていた黒と白のメイド服の侍女へ渡された。
「黒曜、処理しなさい」
アーガスはその名に反応し、思わず相手を見た。
黒曜と呼ばれた侍女が、静かに顔を上げる。
波一つない表情。冷たいほど整った顔立ち。背筋の角度から指先の位置まで、必要なものだけで構成されたような無駄のない所作。
アーガスは、その顔を知っていた。
学院で、リナのそばに控えていた専属メイドだ。
思わず会釈しようとした瞬間、黒曜は無表情のまま人差し指を立て、薄い唇へ軽く当てた。
しっ。
声はなかった。
けれど、その仕草だけで意味は十分だった。
今は私語を挟む場ではない。
今の彼女は、学院で見かけたリナの侍女ではなく、ヴァンデル家の命令を遂行する実務者としてここに立っている。
アーガスはすぐに視線を外し、何も見なかったふりをした。
黒曜は依頼書を受け取ると、余計な確認を一切せず、ただ短く一礼した。
「承知いたしました」
その声には、温度がなかった。
だが、それは冷酷さではない。
命令を正確に理解し、正確に処理する者だけが持つ、刃物のような静けさだった。
「他に、私に知らせておくべきことはあるかしら」
リナの声が、アーガスの思考を断ち切った。
彼はしばらく沈黙した。
ここまで彼女が誠意と資源を示した以上、隠すことは無意味だった。
「もう一つあります」
アーガスの声が低くなる。
「最後通牒についてです」
彼はバロックの来訪、山王国側からの圧力、そして車椅子技術の献上を求められたことを、一つずつ説明した。
「彼らは半月の猶予を与えました。今は、もう二日が過ぎています」
工房の温度が、一段下がったようだった。
リナの顔から、すべての表情が消えた。
怒鳴らない。
机も叩かない。
ただ、異様なほど静かになる。
「つまり……」
彼女の声が変わった。
先ほどまでの冷たい執行官の声ではない。アーガスもトールも知っている、銀鈴のように澄んだ少女の声だった。
だからこそ、恐ろしかった。
「あの車椅子には、はっきりとヴァンデル商会の馬車輪の紋章が刻まれているわよね」
リナは首を少し傾け、甘い笑みを浮かべた。
「それなのに彼らは、私の印を無視して、私を飛び越えて、私の裏庭に手を突っ込もうとしたと?」
彼女は軽く笑った。
眼底には、欠片ほどの笑みもない。
「しかも、あの強欲な大トカゲに何百年も血を吸われ続け、外面だけ取り繕っている小さな山王国が?」
空気が凍った。
トカゲ。
それは高貴なる竜族への、あまりにも露骨な蔑称だった。
このドワーフの国で、鉄顎カロックスをそこまで侮辱できる者など、そうはいない。
トールとブレイクは、息をするのも忘れていた。
その時、白い手袋の手が、湯気を立てる紅茶を静かにリナへ差し出した。
黒曜だった。
いつの間に用意したのか、誰にも分からない。
ただ、リナの怒りが最も危険な形へ変わる直前、彼女はそこにいた。
リナはカップを受け取り、軽く一口飲む。
熱い茶の香りが、眼底の殺意をわずかに薄めた。
再び目を開けた時、彼女は冷静な意思決定者へ戻っていた。
「そういうことなら、冒険者ギルドの正規ルートは期待できないわね」
「どうしてですか?」
アイリーンが思わず尋ねた。
「懸賞金は十分に高額なのに」
「お金の問題じゃないの、アーガスの姉さん」
リナは静かに言った。
「山王国が絡んでいるなら、政治が絡んでいる。冒険者ギルドが中立を名乗っていても、依頼の掲示手順は王国の監視下にあるわ。情報不備、審査保留、危険度再確認。適当な名目をつければ、十日や半月くらい簡単に止められる」
アーガスは拳を握った。
これが権力の悪意だ。
刃を振るう必要すらない。
手順という柔らかな縄で、相手の首をゆっくり締める。
「黒曜は通常通り依頼書を出しに行くわ。でも、それは目くらましにしかならない」
リナはアーガスを見た。
「だから、あなたの代替案を聞かせなさい。首席さん」
全員の視線がアーガスへ集まった。
彼は左手の革手袋を見た。
曙光。
掌には冷たい汗が滲んでいる。
自分が言おうとしていることの意味を、彼は理解していた。
これを口にすれば、もう単なる商売や工芸の問題ではなくなる。
家族を、毒と怪物のいる場所へ引きずり込むことになる。
失敗すれば、家は終わる。
アーガスは目を閉じ、恐怖を飲み込んだ。
再び目を開けた時、その黒い瞳には、追い詰められた者だけが持つ決意が宿っていた。
「もし本当にギルドが使えないなら……」
彼はトールを見た。
愚直で、不器用で、だが鉄峰山城で誰よりも確かな手を持つ兄を。
「俺たち自身の手で、狩るしかありません」
声は少し嗄れていた。
「俺たちには魔法がある。最高の工匠もいる。たとえこの山をひっくり返してでも、俺たちは生き残らなきゃならない」
アーガスは無理やり笑った。
「そうだろ、トール兄さん?」




