第四話-【第五幕:探偵の演繹】
アーガスは怯まなかった。
むしろ、彼の口元には、ごく薄い弧が浮かんだ。
待っていたのは、この問いだった。
「ここから先は、確定した数値ではありません」
アーガスは討伐依頼書を手に取った。声が少し低くなる。
「痕跡学と生態の推論です」
彼は廃棄木材の山へ歩き、割れた木片を一つ拾い上げ、リナへ差し出した。
「嗅いでみてください」
ウォーレンが止めようと一歩出たが、リナが手で制した。彼女は木片へ顔を近づけ、軽く匂いを確かめる。
ほのかに、苦杏仁に似た甘く不快な匂いがした。
「苦杏仁の匂い?」
「正確には、その前段階の匂いです」
アーガスの目は鋭い。
「大型節足類の魔物、鬼面蜘蛛の消化酵素に近い匂いだと、専門の冒険者から裏付けを取りました。奴らは獲物に毒液を注入し、内部を溶かしてから吸い取る。今回の鉄木は、それに近い酵素で汚染されています」
「それだけじゃない」
トールが、低く補足した。
「樹皮に残っていた爪痕は、三メートル以上の高さにあった。普通の蜘蛛が、あんな跡を残せるはずがない」
「その通りです、トール兄さん」
アーガスは兄へ頷いた。
「三メートルの高さの爪痕。それは巨大熊が縄張りを示す時の特徴です」
工房の空気が、少しずつ重くなっていく。
「蜘蛛の毒。熊の爪と体格。そして最後の手がかりです」
アーガスはアイリーンを見た。
「アイリーン姉さん。前の隊長さんは、どこで負傷したと言っていましたか」
アイリーンは一瞬、言葉を失った。次の瞬間、その顔から血の気が引いていく。
「老サムの伐採場の近くよ。力が異常に強くて、森の中を立体的に動き、毒の網を吐く熊の怪物に襲われたと……」
すべての手がかりが、一つの像を結んだ。
アーガスは振り返り、リナを見た。
「これは自然発生した生物ではありません。蜘蛛の毒性と巨大熊の力を併せ持つ、人工的に縫合された歪んだ魔物」
彼は、最後の言葉を口にした。
「キメラ熊です」
工房にざわめきが広がった。
キメラ。禁忌の錬金術師が作るとされる、伝説じみた怪物。
「そんな……馬鹿げている!」
商会の技術顧問の一人が思わず声を上げた。
「生態学の常識に合わない。そんなものが自然にいるはずが」
「自然には、です」
アーガスはその反論を静かに受け止めた。
「だから、自然物ではないと言っています」
そして彼は、静かに言った。
「あらゆる不可能を取り除いた後に残ったものが、どれほど信じがたくても、それが真実です」
その言葉は、工房のざわめきを一瞬で静めた。
リナはアーガスをじっと見つめていた。
その目には、確信がある。虚勢ではない。恐怖をごまかすための妄想でもない。観察と論理の積み重ねだけで、彼は禁忌の端に触れている。
リナは三秒だけ沈黙した。
ヴァンデル家の継承者として、彼女は王都の封印された機密資料の中で、生物縫合実験の記録を見たことがある。
存在し得る。
だが、こんな辺境の山脈に現れるとは思っていなかった。
この少年は、そんな機密に触れたことなどないはずだ。
それなのに、論理だけでそこへ届いた。
リナはゆっくりと身を翻し、ウォーレンへ目配せした。
ウォーレンは音もなく近づく。リナが低く耳打ちすると、その目が一瞬で刃のように細くなった。
「承知いたしました、お嬢様」
彼は深く一礼し、数人の実務員を連れて工房を出ていった。
リナは再びアーガスへ向き直った。口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
「そこまで言うなら、証明してみせなさい。首席さん」
それは、最終判断の権限を彼へ渡す言葉だった。
アーガスの肩から、わずかに力が抜けた。
信頼と専門性を賭けた最初の勝負に、彼は勝った。




