第三・五話-【第五幕:黎明の疾駆、胸の奥で鳴り続ける焦燥】
夜明け前の闇は、最も濃い。
冷たい風が湿気を帯び、ヴァンデル商会の裏門へ吹きつけていた。
一切の家紋を持たない、特殊改造を施された魔導馬車が、すでに出発の準備を整えている。車体は漆黒。車軸には静音処理が施され、車室の内部には防振用の厚いクッションが追加されていた。
明らかに、長距離の強行軍を想定して用意された馬車だった。
リナは機能的な乗馬服へ着替えていた。その上から厚手のマントを羽織り、フードで輝く金髪を隠している。
彼女は大勢の随行員を連れてはいなかった。同行するのはウォーレン、数名の鑑定師と技師、二人の医師、そして黒曜だけだ。
黒曜は、すでに馬車のそばで待機していた。
夜色のような漆黒の長い髪が背中にしなやかに垂れ、身にまとっているのは無駄のない仕立てのメイド服だった。
今の黒曜は、黒曜石の短剣の刃を丹念に確認していた。その目には、人を震え上がらせるほどの集中が宿っている。
ただし、その場に軍人めいた護衛の列はない。戦力で押し潰すための隊列ではなく、原因を突き止めるための小さな実務部隊だった。鑑定師は試料箱を抱え、技師は折り畳み式の測定器を馬車へ固定し、医師たちは薬品箱の封を確認している。
リナはそれらを一瞥した。
「必要なものだけを積みなさい。飾りは要らない。現場で役に立たない荷物は、全部ここに置いていくわ」
「承知しております」
ウォーレンが静かに答えた。
「鑑定具、工具、薬品、記録用の羊皮紙、携帯用の魔導灯。すべて確認済みです」
「よろしい」
リナは視線を黒曜へ向けた。
「黒曜。あなたは道中、余計な報告をしなくていいわ。必要なことだけを言いなさい」
「かしこまりました」
黒曜は短剣を収め、リナへ標準的なメイドの礼を取った。声には、余計な感情が一切なかった。
「お嬢様、すべての物資の積み込みが完了しました。ご指定の、あの補給品も含めております」
リナは頷いた。
余計な言葉は交わさず、真っ直ぐ馬車へ乗り込む。
ウォーレンが最後に扉を閉める直前、黒曜は一度だけ商会の建物を振り返った。
その表情には、迷いも、感傷もなかった。
そこにいたのは、ヴァンデル家に仕える黒曜という一振りの刃だった。
そしてその刃は今、主が最も気にしている少年のもとへ向かおうとしている。
車室の中は暖かく、快適だった。
小卓には、淹れたての茶が入ったポットまで置かれている。
だが、リナにはそれを味わう気分などなかった。
彼女は懐から苦情報告書を取り出し、再び目を通した。
紙は、彼女が強く握りしめたせいで、すでに少し皺になっていた。
「鉄木の腐朽……構造の断裂……」
彼女は小さく呟いた。
指先が、無意識に膝を叩く。
「私の不器用な学生、アーガス君。あなた……絶対に持ちこたえなさいよ」
彼女は窓の外を見た。
東の空の端に、魚の腹のような白い光が差し始めている。
「出発」
リナの命令と共に、魔導機関が低く唸った。
馬車は放たれた黒い矢のように、黎明の薄霧を切り裂いて走り出す。
向かう先は、遥か遠くの鉄峰山城。
危機に満ちた、あの工房だ。
車輪が地上の残雪を砕き、乾いた音を立てる。
リナはクッションへ背を預け、目を閉じた。
しかし眉間の皺は、少しも解けなかった。
彼女は自分に言い聞かせる。
これはただの資産保全行動なのだと。
言うことを聞かない、あの馬鹿を教訓してやるためだけに行くのだと。
だが、彼女の心拍は普段よりも速かった。
それは興奮ではない。
いくら無視しようとしても振り払えない、焦燥だった。
ウォーレンが向かいの席で、静かに書類を整理している。黒曜は扉の近くに控え、目を伏せていた。医師たちは後続の小型馬車に分乗し、鑑定師と技師は器具の固定を確認しながら続いている。
隊列は大きくない。
だが、商会が動かせる最短距離の判断と、最小限の実務能力だけが詰め込まれていた。
リナはそれを理解していた。
理解しているからこそ、苛立った。
もっと大きく動くことはできる。金も、人も、圧力も、彼女にはある。だがそれをやれば、鉄峰山城の役人たちに余計な口実を与える。あの工房を救いに行くつもりが、逆に包囲網を広げることになりかねない。
だから、最小限で行く。
最速で行く。
そして、到着した瞬間に全員を黙らせるだけの証拠を叩きつける。
「本当に、面倒な男ね」
リナは目を閉じたまま呟いた。
誰も返事をしなかった。
それでよかった。
もし私が着く前に、あなたが諦めたら。
リナは心の中で、冷たく言葉を続ける。
その時は、絶対に私の手で、あなたのロバみたいに頑固な骨を一本ずつ解体してやるんだから。
馬車はさらに速度を上げた。
黎明の光が、車窓の縁を白く染めていく。
リナは目を開けなかった。
それでも、その青い瞳の奥に宿る怒りと焦燥は、消えることなく燃え続けていた。




