↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

176/212

第三・五話-【第五幕:黎明の疾駆、胸の奥で鳴り続ける焦燥】

 夜明け前の闇は、最も濃い。


 冷たい風が湿気を帯び、ヴァンデル商会の裏門へ吹きつけていた。


 一切の家紋を持たない、特殊改造を施された魔導馬車が、すでに出発の準備を整えている。車体は漆黒。車軸には静音処理が施され、車室の内部には防振用の厚いクッションが追加されていた。


 明らかに、長距離の強行軍を想定して用意された馬車だった。


 リナは機能的な乗馬服へ着替えていた。その上から厚手のマントを羽織り、フードで輝く金髪を隠している。


 彼女は大勢の随行員を連れてはいなかった。同行するのはウォーレン、数名の鑑定師と技師、二人の医師、そして黒曜だけだ。


 黒曜は、すでに馬車のそばで待機していた。


 夜色のような漆黒の長い髪が背中にしなやかに垂れ、身にまとっているのは無駄のない仕立てのメイド服だった。


 今の黒曜は、黒曜石の短剣の刃を丹念に確認していた。その目には、人を震え上がらせるほどの集中が宿っている。


 ただし、その場に軍人めいた護衛の列はない。戦力で押し潰すための隊列ではなく、原因を突き止めるための小さな実務部隊だった。鑑定師は試料箱を抱え、技師は折り畳み式の測定器を馬車へ固定し、医師たちは薬品箱の封を確認している。


 リナはそれらを一瞥した。


「必要なものだけを積みなさい。飾りは要らない。現場で役に立たない荷物は、全部ここに置いていくわ」


「承知しております」


 ウォーレンが静かに答えた。


「鑑定具、工具、薬品、記録用の羊皮紙、携帯用の魔導灯。すべて確認済みです」


「よろしい」


 リナは視線を黒曜へ向けた。


「黒曜。あなたは道中、余計な報告をしなくていいわ。必要なことだけを言いなさい」


「かしこまりました」


 黒曜は短剣を収め、リナへ標準的なメイドの礼を取った。声には、余計な感情が一切なかった。


「お嬢様、すべての物資の積み込みが完了しました。ご指定の、あの補給品も含めております」


 リナは頷いた。


 余計な言葉は交わさず、真っ直ぐ馬車へ乗り込む。


ウォーレンが最後に扉を閉める直前、黒曜は一度だけ商会の建物を振り返った。


その表情には、迷いも、感傷もなかった。


 そこにいたのは、ヴァンデル家に仕える黒曜という一振りの刃だった。


 そしてその刃は今、主が最も気にしている少年のもとへ向かおうとしている。


 車室の中は暖かく、快適だった。


 小卓には、淹れたての茶が入ったポットまで置かれている。


 だが、リナにはそれを味わう気分などなかった。


 彼女は懐から苦情報告書を取り出し、再び目を通した。


 紙は、彼女が強く握りしめたせいで、すでに少し皺になっていた。


「鉄木の腐朽……構造の断裂……」


 彼女は小さく呟いた。


 指先が、無意識に膝を叩く。


「私の不器用な学生、アーガス君。あなた……絶対に持ちこたえなさいよ」


 彼女は窓の外を見た。


 東の空の端に、魚の腹のような白い光が差し始めている。


「出発」


 リナの命令と共に、魔導機関が低く唸った。


 馬車は放たれた黒い矢のように、黎明の薄霧を切り裂いて走り出す。


 向かう先は、遥か遠くの鉄峰山城。


 危機に満ちた、あの工房だ。


 車輪が地上の残雪を砕き、乾いた音を立てる。


 リナはクッションへ背を預け、目を閉じた。


 しかし眉間の皺は、少しも解けなかった。


 彼女は自分に言い聞かせる。


 これはただの資産保全行動なのだと。


 言うことを聞かない、あの馬鹿を教訓してやるためだけに行くのだと。


 だが、彼女の心拍は普段よりも速かった。


 それは興奮ではない。


 いくら無視しようとしても振り払えない、焦燥だった。


 ウォーレンが向かいの席で、静かに書類を整理している。黒曜は扉の近くに控え、目を伏せていた。医師たちは後続の小型馬車に分乗し、鑑定師と技師は器具の固定を確認しながら続いている。


 隊列は大きくない。


 だが、商会が動かせる最短距離の判断と、最小限の実務能力だけが詰め込まれていた。


 リナはそれを理解していた。


 理解しているからこそ、苛立った。


 もっと大きく動くことはできる。金も、人も、圧力も、彼女にはある。だがそれをやれば、鉄峰山城の役人たちに余計な口実を与える。あの工房を救いに行くつもりが、逆に包囲網を広げることになりかねない。


 だから、最小限で行く。


 最速で行く。


 そして、到着した瞬間に全員を黙らせるだけの証拠を叩きつける。


「本当に、面倒な男ね」


 リナは目を閉じたまま呟いた。


 誰も返事をしなかった。


 それでよかった。


 もし私が着く前に、あなたが諦めたら。


 リナは心の中で、冷たく言葉を続ける。


 その時は、絶対に私の手で、あなたのロバみたいに頑固な骨を一本ずつ解体してやるんだから。


 馬車はさらに速度を上げた。


 黎明の光が、車窓の縁を白く染めていく。


 リナは目を開けなかった。


 それでも、その青い瞳の奥に宿る怒りと焦燥は、消えることなく燃え続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。