↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

169/205

第三話:【第四幕:猟師の証言と怪物の輪郭】

 ゲイルは治ったばかりの右手を膝に置き、深く息を吸った。


「三ヶ月ほど前、ギルドに調査依頼が出た。鉄木林の奥で、木の根が妙な壊れ方をしていると報告があったんだ」


「妙な壊れ方?」


「根元の土が、黄色がかった液体で濡れていた。火傷の跡でも、よくある腐食液でもない。樹皮は残っているのに、中の繊維だけが泥のように崩れていた」


 アーガスは羊皮紙へ書き留める。


「消化されたように見えた?」


「ああ。俺は十年以上、森で毒や腐食液を見てきた。あれは表面を焼く傷み方じゃない。内側だけが選ばれて、ゆっくり食われていた」


「その跡を追ったんですね」


「二日かけて森の北側まで進み、洞窟の近くで見つけた」


 ゲイルの右手が、無意識に肩の傷へ触れた。


「最初は大きなヒグマだと思った。毛色も身体つきも、この辺りの熊に似ていた。だが、奴が振り返った時……背中から脚が生えていた」


「何本ですか」


「八本。蜘蛛の脚だ。黒い甲殻に覆われ、人の胴ほど太かった」


 トールが息を呑む。


「奴は背中の脚で岩壁を登った。鉄木の幹も、地面と変わらない速さで這った。矢を放っても狙いが定まらない。次の瞬間には頭上にいた」


 ゲイルの呼吸が浅くなる。


「一本が肩をかすめた。傷は浅かった。血もほとんど出なかった。それなのに腕の感覚が消えた」


「すぐに?」


「ああ。猛毒の蜘蛛に噛まれた時と同じだ。仲間に引きずられ、どうにか森を出た。そこから三ヶ月、腕は一度も動かなかった」


 アーガスの筆が止まる。


 熊の身体。


 蜘蛛の脚。


 浅い傷から入り、神経へ居座る毒と呪い。


 彼は別の欄を開いた。


「木の根に残っていた液体を、直接見ましたか」


「少しだけ。透明に近いが、薄い黄色だった」


「水のように流れましたか」


「もっと粘っていた。地面に落ちても広がらず、小さな溜まりになった」


「痕跡は森全体に?」


 ゲイルは首を振った。


「十数本に一本ほどだ。並び方にも癖があった。獣道に沿って、一定の間隔で続いていた」


「乾いた後はどうなりました」


「暗褐色の硬い殻になった。刀で削ろうとしたら、刃に穴が開いた」


 アーガスの筆先が速くなる。


「匂いは」


 ゲイルは目を見開いた。


「苦杏仁だ。鼻の奥に刺さるほど強かった」


 アーガスは液体の色、粘り、分布、乾燥後の変化を四つの欄に分けた。その横に、獣道と鉄木の位置を簡単な図で描く。


「痕跡は道に沿い、一定の間隔で残されている。液体は植物の内側へ入り、繊維だけを崩す。乾けば硬い殻になり、苦杏仁の匂いを放つ」


 彼は図の上を指でなぞった。


「偶然に漏れた毒液なら、ここまで整った並び方はしません。生き物が移動しながら残した印です」


 ゲイルの顔が強張った。


「熊は、木へ爪痕や匂いを残して縄張りを示す……」


「ええ。その行動と一致します」


 アーガスは羊皮紙の中央へ、熊の輪郭を描いた。その背へ、八本の黒い脚を加える。


「ただし、残された液体の性質は蜘蛛に近い」


 しばらく図を見つめた後、アーガスは顔を上げた。


「ゲイル。猟師として答えてください。熊と蜘蛛が、同じ縄張りを共有することはありますか」


「まずない」


 ゲイルは迷わず答えた。


「小さな蜘蛛なら熊の餌になる。人を襲うほど大きな蜘蛛なら、互いに避ける。少なくとも、同じ獣道へ規則正しく痕跡を残し、同じ獲物を追うような関係にはならない」


「それに、熊は縄張り意識が強い」


 アーガスが促すと、ゲイルの顔色が変わった。


「ああ。尿、爪痕、身体を擦りつけた匂い。活動する道や休む場所、獲物を隠した場所に印を残す。あの痕跡は、確かに熊のやり方だった」


 彼は自分の右肩をつかんだ。


「だが、苦杏仁の匂いは蜘蛛の毒に近い。背中には八本の脚があり、俺の腕も蜘蛛毒と同じように麻痺した。なのに、身体は熊だった」


 声が震えた。


「そんなものが、一頭の獣に収まるはずがない」


「収まっていたから、あなたは傷を負った」


 アーガスは低く言った。


 羊皮紙の熊と蜘蛛脚を囲み、一つの輪郭として閉じる。


「熊の身体と縄張り行動。蜘蛛の脚、移動能力、毒、分泌液。別々の生き物の特徴が、一頭の中で働いている」


 ブレイクの顔が険しくなる。


「誰かが、二つの生き物を継ぎ合わせたというのか」


「そこまでは断定できません」


 アーガスは首を振った。


「自然に生じた異変か、魔法生物が持つ性質か、何者かの手が入ったのか。今ある証拠では決められない」


 彼はアイリーンとゲイルの診断図を並べた。


「姉さんの傷には蠍毒に似た働きがありました。ゲイルの傷には蜘蛛毒の性質がある。それでも、呪いが力を取り戻す周期は同じです」


 熊、蜘蛛、蠍。


 三つの名が、羊皮紙の上に並んだ。


「違う生き物の性質が、同じ系統の呪いで結ばれている」


 トールの顔から血の気が引いた。


「自然に、そんなものが生まれるのか」


「分かりません」


 アーガスは即座に答えた。


「ただ、目の前の特徴は否定できない。俺たちが追っているのは、複数の生物を縫い合わせた合成獣です」


 部屋から声が消えた。


 窓の外で風が鳴り、鉄木の枝が石壁を擦った。


 ごり、ごり、と鈍い音が続く。


 その場にいた誰もが、森の暗がりを這う硬い脚を思い浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。