第三話:【第四幕:猟師の証言と怪物の輪郭】
ゲイルは治ったばかりの右手を膝に置き、深く息を吸った。
「三ヶ月ほど前、ギルドに調査依頼が出た。鉄木林の奥で、木の根が妙な壊れ方をしていると報告があったんだ」
「妙な壊れ方?」
「根元の土が、黄色がかった液体で濡れていた。火傷の跡でも、よくある腐食液でもない。樹皮は残っているのに、中の繊維だけが泥のように崩れていた」
アーガスは羊皮紙へ書き留める。
「消化されたように見えた?」
「ああ。俺は十年以上、森で毒や腐食液を見てきた。あれは表面を焼く傷み方じゃない。内側だけが選ばれて、ゆっくり食われていた」
「その跡を追ったんですね」
「二日かけて森の北側まで進み、洞窟の近くで見つけた」
ゲイルの右手が、無意識に肩の傷へ触れた。
「最初は大きなヒグマだと思った。毛色も身体つきも、この辺りの熊に似ていた。だが、奴が振り返った時……背中から脚が生えていた」
「何本ですか」
「八本。蜘蛛の脚だ。黒い甲殻に覆われ、人の胴ほど太かった」
トールが息を呑む。
「奴は背中の脚で岩壁を登った。鉄木の幹も、地面と変わらない速さで這った。矢を放っても狙いが定まらない。次の瞬間には頭上にいた」
ゲイルの呼吸が浅くなる。
「一本が肩をかすめた。傷は浅かった。血もほとんど出なかった。それなのに腕の感覚が消えた」
「すぐに?」
「ああ。猛毒の蜘蛛に噛まれた時と同じだ。仲間に引きずられ、どうにか森を出た。そこから三ヶ月、腕は一度も動かなかった」
アーガスの筆が止まる。
熊の身体。
蜘蛛の脚。
浅い傷から入り、神経へ居座る毒と呪い。
彼は別の欄を開いた。
「木の根に残っていた液体を、直接見ましたか」
「少しだけ。透明に近いが、薄い黄色だった」
「水のように流れましたか」
「もっと粘っていた。地面に落ちても広がらず、小さな溜まりになった」
「痕跡は森全体に?」
ゲイルは首を振った。
「十数本に一本ほどだ。並び方にも癖があった。獣道に沿って、一定の間隔で続いていた」
「乾いた後はどうなりました」
「暗褐色の硬い殻になった。刀で削ろうとしたら、刃に穴が開いた」
アーガスの筆先が速くなる。
「匂いは」
ゲイルは目を見開いた。
「苦杏仁だ。鼻の奥に刺さるほど強かった」
アーガスは液体の色、粘り、分布、乾燥後の変化を四つの欄に分けた。その横に、獣道と鉄木の位置を簡単な図で描く。
「痕跡は道に沿い、一定の間隔で残されている。液体は植物の内側へ入り、繊維だけを崩す。乾けば硬い殻になり、苦杏仁の匂いを放つ」
彼は図の上を指でなぞった。
「偶然に漏れた毒液なら、ここまで整った並び方はしません。生き物が移動しながら残した印です」
ゲイルの顔が強張った。
「熊は、木へ爪痕や匂いを残して縄張りを示す……」
「ええ。その行動と一致します」
アーガスは羊皮紙の中央へ、熊の輪郭を描いた。その背へ、八本の黒い脚を加える。
「ただし、残された液体の性質は蜘蛛に近い」
しばらく図を見つめた後、アーガスは顔を上げた。
「ゲイル。猟師として答えてください。熊と蜘蛛が、同じ縄張りを共有することはありますか」
「まずない」
ゲイルは迷わず答えた。
「小さな蜘蛛なら熊の餌になる。人を襲うほど大きな蜘蛛なら、互いに避ける。少なくとも、同じ獣道へ規則正しく痕跡を残し、同じ獲物を追うような関係にはならない」
「それに、熊は縄張り意識が強い」
アーガスが促すと、ゲイルの顔色が変わった。
「ああ。尿、爪痕、身体を擦りつけた匂い。活動する道や休む場所、獲物を隠した場所に印を残す。あの痕跡は、確かに熊のやり方だった」
彼は自分の右肩をつかんだ。
「だが、苦杏仁の匂いは蜘蛛の毒に近い。背中には八本の脚があり、俺の腕も蜘蛛毒と同じように麻痺した。なのに、身体は熊だった」
声が震えた。
「そんなものが、一頭の獣に収まるはずがない」
「収まっていたから、あなたは傷を負った」
アーガスは低く言った。
羊皮紙の熊と蜘蛛脚を囲み、一つの輪郭として閉じる。
「熊の身体と縄張り行動。蜘蛛の脚、移動能力、毒、分泌液。別々の生き物の特徴が、一頭の中で働いている」
ブレイクの顔が険しくなる。
「誰かが、二つの生き物を継ぎ合わせたというのか」
「そこまでは断定できません」
アーガスは首を振った。
「自然に生じた異変か、魔法生物が持つ性質か、何者かの手が入ったのか。今ある証拠では決められない」
彼はアイリーンとゲイルの診断図を並べた。
「姉さんの傷には蠍毒に似た働きがありました。ゲイルの傷には蜘蛛毒の性質がある。それでも、呪いが力を取り戻す周期は同じです」
熊、蜘蛛、蠍。
三つの名が、羊皮紙の上に並んだ。
「違う生き物の性質が、同じ系統の呪いで結ばれている」
トールの顔から血の気が引いた。
「自然に、そんなものが生まれるのか」
「分かりません」
アーガスは即座に答えた。
「ただ、目の前の特徴は否定できない。俺たちが追っているのは、複数の生物を縫い合わせた合成獣です」
部屋から声が消えた。
窓の外で風が鳴り、鉄木の枝が石壁を擦った。
ごり、ごり、と鈍い音が続く。
その場にいた誰もが、森の暗がりを這う硬い脚を思い浮かべた。




