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第二話-【第一幕:仮初めの平常運転、隠しきれない予兆】

【第二話:王座の陰影、絶望の報告書と迫り来る権力】

 夜明け前の工房は、死んだような静けさに包まれていた。


 炉の火はとうに落ち、冷たい空気の中に、細い煙だけが名残のように漂っている。昨夜の家宴の残りはまだ片づけられていなかった。食卓には半分空いた杯が散らばり、冷めた料理は白く固まった脂を浮かべている。その中央には、ヴァンデル商会から届いた苦情報告書が広げられていた。羊皮紙の角は、何度もめくられたせいで少し丸まっている。


 アイアンソーン家の五人は、その食卓を囲んで座っていた。


 誰も眠っていなかった。


 ブレイクの目は赤く血走り、太い指は無意識に卓上を叩いていた。トールは椅子の背にもたれ、腕を組んだまま、険しい顔をしている。サラは両腕で自分の体を抱きしめ、疲労と不安に沈んだ目で家族を見ていた。アイリーンは車椅子に座り、視線を報告書へ落としたまま、眉をきつく寄せている。


 ただ一人、アーガスだけが静かだった。いつものように感情を表へ出さず、冷静に見えた。けれど、膝の上で固く握りしめられた両手だけが、彼の内側にある緊張を隠しきれていなかった。


 長い沈黙のあと、ブレイクがようやく口を開いた。


「三台だ。パラディアで、三台の車椅子が壊れた」


 声はひどく掠れていた。彼は報告書を睨みつけ、文字の隙間から誤解や書き間違いを探し出そうとしているようだった。


「アーガス。お前は本当に、この報告が正しいと見ているのか」


 それは疑いではなかった。むしろ、絶望に近い確認だった。ブレイクはまだ、これが何かの間違いであってほしいと願っていた。


 アーガスはすぐには答えなかった。懐から別の紙束を取り出し、食卓の上へ置く。それは彼自身が描いた破損分析図だった。断裂位置、荷重のかかる箇所、木材の状態、事故の時期が、細かく書き込まれている。


「三回確認しました」


 彼の声は平穏だった。だが、その平穏さがかえって家族を不安にさせた。


「破損の形が、あまりにも似ています。どれも荷重の集中する箇所で、鉄木そのものの強度が落ちています。繊維が裂けたというより、粉のように崩れている。使用者の扱いが悪かったわけでも、偶然の事故でもありません」


「どういう意味だ」


 トールが勢いよく身を起こした。その目には怒りと恐怖が混じっていた。


「俺たちの手仕事に問題があると言いたいのか」


「手仕事ではありません」


 アーガスは首を振った。視線は、分析図から離れない。


「材料です。鉄木そのものに、何かが起きています」


「鉄木だと?」


 ブレイクの声が一段高くなった。


「俺たちが使っている鉄木は、ずっと同じ業者から仕入れてきたものだ。二十年だぞ。二十年使って、一度もこんなことは起きなかった」


「だからこそ、今回は違うんです」


 アーガスの声は静かだったが、揺らがなかった。


「未知の要因があります。環境、生物、あるいは……」


 彼はそこで言葉を止めた。


 人為的に。


 その言葉だけは、口にしなかった。


「馬鹿な」


 トールは立ち上がり、食卓を強く叩いた。


「三台だぞ。しかも、パラディアの別々の場所にあった車椅子だ。それが同じように壊れる? そんなことがあるわけないだろ!」


「可能性が低いことと、起きていないことは違います」


 アーガスは顔を上げ、兄を見た。


「そして、測定結果は嘘をつきません」


「測定結果だと!」


 トールの声に、苦い皮肉が混じった。


「お前はいつもそうだ。数字と図面ばかり見ている。でもこの報告書が何を意味するか分かっているのか? 信用が崩れるんだぞ。注文が消えるんだぞ。この家が……」


「もういいわ」


 アイリーンの声は大きくなかった。だが、その一言はトールの怒声を止めるには十分だった。


 彼女は報告書から顔を上げ、家族一人ひとりを見た。最後に、その視線は父であるブレイクへ落ちる。


「言い争っても、何も解決しない。今考えなければならないのは、商売への影響よ」


 その声には、工房を支える管理者としての冷静さがあった。


「この事が外に漏れれば、真相がどうであれ、アイアンソーン工房の評判は大きく傷つくわ。今は注文が一番集まっている時期よ。西境も、北の地も、人間の商会も、私たちの車椅子を見ている。大きな信用不安が起きたら……」


「破産してしまうわ」


 サラが小さく言った。その声は震えていた。


 沈黙が戻ってきた。


 今度の沈黙は、先ほどよりもずっと重かった。


 ブレイクはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。再び目を開けた時、その眼差しには迷いではなく、家長としての決断があった。


「なら、外へ漏らすわけにはいかない」


「父さん……」


 アーガスは眉をひそめた。


「最後まで聞け」


 ブレイクは手を上げ、末息子を制した。


「隠せと言っているんじゃない。だが、確かな原因が分かる前に、町中を騒がせるわけにはいかない」


 彼は立ち上がった。


「今日から品質管理を強化する。車椅子を一台出す前に、材料、構造、荷重の三つを必ず確認する。一つも省くな。トール、お前が直接見ろ」


 トールは黙って頷いた。


「アイリーン、お前は商会への対応を頼む。調査を進めていること、後日きちんと説明することを伝えろ。ただし、こちらの責任だとは認めるな。否定もしない。今は曖昧にしておく」


 アイリーンは肘掛けを指で叩き、少し考えてから頷いた。


「分かったわ」


「アーガス」


 ブレイクは末息子を見た。その表情は複雑だった。


「お前は調査を続けろ。ただし、目立つな。騒ぎを大きくするな。本当に材料の問題なら、確実な証拠が必要だ」


 アーガスは父を見つめた。


 彼が望んでいた答えではなかった。本当なら、すべての生産を止め、すべての木材を洗い直すべきだと思っていた。だが今のアイアンソーン家には、工房を止める余裕などない。


 だから、彼は頷いた。


 それは脆い合意だった。


 恐れと希望の間に、かろうじて置かれた細い板のようなものだった。


「それで決まりだ」


 ブレイクは家族全員を見渡した。声は掠れていたが、決意だけは残っていた。


「原因が分かるまで、通常通りに動く。品質管理を強め、注文を守る」


 少しの間を置いて、彼は付け加えた。


「これが、ただの取り越し苦労であることを願う」


 しかし、その場にいる誰もが分かっていた。


 それは自分たちを慰めるための嘘にすぎなかった。


 朝の最初の光が窓から差し込んだ時、アイアンソーン家の人々はそれぞれの仕事へ戻り始めた。


 ブレイクは炉に火を入れた。


 トールは材料の確認を始めた。


 アイリーンは商会へ送る手紙を書き始めた。


 サラは昨夜の食卓を片づけていた。


 アーガスは工房の隅へ移動し、再び苦情報告書を開いた。


 工房はいつもの忙しさを取り戻したように見えた。槌の音、炉の音、人の声。すべてが普段通りに聞こえた。


 だが全員が、心のどこかで分かっていた。


 これは嵐の前の静けさにすぎない。

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