第十三話 END:【第四幕:不器用な謝罪と、旅立ちの手配】(挿絵あり)
リナは窓辺に立っていた。
背中は変わらず優雅で、気位が高い。
だが、アーガスは気づいた。
その肩が、ほんのわずかに強張っている。
何かを待っている姿勢だった。
アーガスはゆっくり歩み寄る。
一歩ごとに、胸の奥で熱いものが重く沈む。
彼はリナの背後、三歩の距離で立ち止まった。
そして、深く息を吸う。
「……ごめんなさい」
短い言葉だった。
けれど、これまでのどの言葉よりも真剣だった。
「ごめんなさい。俺が……」
リナの背中が、かすかに震えた。
本当に、わずかに。
だが、震えた。
それでも彼女は振り返らなかった。
声だけが、氷のように落ちてくる。
「言い終わったなら、もう帰っていいわよ」
アーガスは頷いた。
もう弁明はしない。
言い訳も探さない。
彼は身を翻し、黒髪の侍女の先導で扉へ向かった。
扉が閉まる音が、部屋の中へ静かに響いた。
リナは、まだ窓辺に立っていた。
高慢な姿勢のまま。
優雅な背中のまま。
けれど、アーガスの足音が廊下から完全に消えたことを確認した時。
その肩が、ようやく小さく下りた。
リナはすぐには振り返らなかった。
数秒ほど、窓の外の夜景を見つめ続ける。
それから、ゆっくりと身を翻した。
平静な足取りで本棚へ向かう。
彼女の視線が、額縁の上に落ちた。
指先が持ち上がる。
写真の縁を、そっと撫でた。
壊れやすい宝物に触れるような、優しい動きだった。
口元に、ごく薄い苦笑が浮かぶ。
「……大馬鹿者」
その夜。
黒髪の侍女が、静かに背筋を伸ばした。
彼女は窓の外の夜景を一度見やり、口元にかすかな安堵を浮かべた。
リナは顔を向けた。
その青い瞳には、非難と、どうしようもない諦めが混じっていた。
「次は、私の許可なく勝手な真似はしないでちょうだい」
侍女は浅く微笑む。
低く、磁力のある声で答えた。
「お嬢様が何をおっしゃっているのか、私には分かりかねます」
「そう」
リナは軽く鼻を鳴らした。
喜怒は読めなかった。
それ以上、追及はしない。
代わりに、彼女は書斎の机へ戻り、自ら話題を冷たい実務へ移した。
「車椅子と旅行鞄の工芸保護契約はどうなっているの?」
侍女は音もなく一歩前へ出た。
表情を変えず、淡々と報告する。
「申請は半精霊王国の工芸権保護局へ提出済みです。通常の手続きであれば、承認まで半年ほどかかる見込みです」
リナは上の空で、短く答えた。
「ええ」
彼女の視線は、机の上に浮かぶ柔光術の灯を越え、窓の外へ向けられていた。
夜の闇の中へ消えていく、あの頑固で孤独な背中を思い出す。
「……進んでいるなら、それでいいわ」
侍女は深く一礼した。
そして、音もなく部屋を退出した。
翌日の早朝。
パラディア学院の広場には、淡い朝の光が降り注いでいた。
冬休みの帰省用馬車は、すでに準備を終えている。御者たちは荷物の数を確認し、学生たちはそれぞれの行き先へ向かうため、広場を行き来していた。
アーガスは馬車のそばに立っていた。
手には、アイアンソーン製の旅行鞄がある。
これから、故郷へ帰る。
「あの……アーガス君、でしょうか?」
背後から声がした。
振り返ると、一人の女子学生が歩いてきていた。
学院の制服を着ている。緑色の短い髪が朝の光を受けて揺れ、顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ええと、あなたは?」
アーガスの視線が、彼女の髪飾りに止まる。
黒曜石の髪飾り。
陽光を受け、深い光沢を放っていた。
「私はリナの……同級生よ。クリシーって呼んでくれればいいわ」
女子学生クリシーはそう言った。
「彼女から、これをあなたに渡してほしいって頼まれたの」
彼女は一束の書類と、小さな包みを差し出した。
アーガスはまず、封のされた書類を受け取った。
封蝋には、ヴァンデル商会の印章が押されている。
「あなたの家の商品について、最近届いた顧客からの報告よ」
クリシーは言った。
「リナが言うには、アイアンソーン工房の商品に関する異常報告だそうよ。首席顧問であるあなたなら、直接目を通したがるだろうって」
「ありがとう」
アーガスは眉をひそめ、書類を開いた。
羊皮紙に書かれた内容を、素早く目で追う。
その顔が、少しずつ重くなっていった。
顧客報告。
車椅子に異常あり。
鉄木板の突然の断裂により、転倒負傷事故が三件発生。
複数の顧客が返品、または交換を要求。
鉄木。
枠組みの断裂。
これは、いったい。
アーガスが考え込んでいると、クリシーがさらに小さな包みを差し出した。
「それと、これ」
彼女は言った。
「数日前、あなたの家族の一人が、商会の宿場へ急ぎで預けたものだそうよ。リナが、これも一緒に渡してほしいって」
アーガスは、ハンカチに包まれた小さな品を受け取った。
開く。
中には、一枚の粗い素描が入っていた。
木炭で描かれた絵だった。
線は不器用だ。
けれど、温もりに満ちていた。
絵の中には、車椅子に座った少女がいた。
長い髪を肩へ垂らし、瞳には優しい笑みが浮かんでいる。手は輪椅の肘掛けに置かれていた。
その姿は、アーガスにとって最もよく知るものだった。
アイリーン。
アーガスの手が、かすかに震えた。
木炭の線は白黒しか持たない。
それでも、彼の頭の中では自然に色が差していく。
淡い金色の髪。
翠緑の瞳。
姉に特有の、温かな気配。
まるで、彼女が目の前にいて、静かに微笑んでいるようだった。
アーガスは素描を裏返した。
そこには、母の筆跡があった。
アーガスへ。
アイリーンは最近、調子がいいのよ。でも、あなたがいつ帰ってくるのかと、ずっと聞いているわ。これは私が描いたもの。今の彼女の姿を、あなたにも見せたくて。早く帰っていらっしゃい。家族みんな、あなたに会いたがっています。
母より。
クリシーは、最後の用件を伝えるように口を開いた。
「リナが、ご家族によろしく伝えてほしいって言っていたわ。親愛なる首席さん」
彼女はそこで少し間を置き、笑みを温かくした。
「それから、良い旅を」
そう言って、彼女は身を翻した。
だが、クリシーは数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返る。
「ああ、そうそう。問題の出た車椅子だけれど、リナが商会の貨物車を手配して、鉄峰山城まで運ばせることにしたそうよ」
彼女は一拍置いた。
「あなたも、それに乗って帰ればいいって。貨物車は東門の外よ。御者が待っているわ」
アーガスは呆然とした。
それに乗って帰ればいい。
相談ではない。
ほとんど命令だった。
その言い方は、あまりにも馴染み深かった。
リナ先輩らしい。




