第十二話:【第五幕:見えない者】(挿絵あり)
それから数日、学院は冬休み前の空気に包まれていった。
学生たちは荷物をまとめ始め、廊下のあちこちから別れの挨拶が聞こえてくる。
ヴァレリウスのアーガスに対する態度は、明らかに変わっていた。
軍人らしい厳しさは変わらない。だが、その目には本物の承認と敬意が加わっている。
一方で、アーガスは別のことを考え続けていた。
リナ先輩のことだ。
彼に、人心をどう扱うかを教えた先輩。
彼は彼女に、自分がやり遂げたのだと伝えたかった。
冬休み前夜。
学院の食堂へ続く廊下には、学生たちの声が満ちていた。三々五々に集まり、別れの挨拶を交わし、休みの予定を話している。空気には食べ物の香りと、どこか軽やかな解放感が漂っていた。
アーガスは校内報を抱え、寮へ戻る道を歩いていた。
頭の中では、ずっとリナの言葉を反芻している。
分裂したクラスの人心を、どうまとめるか。
彼女が教えた核心は、そこにあった。
自分は、彼女が教えた通りに全員をまとめたわけではない。
カテリーナの派閥は最後まで攻撃を選び、全滅した。ヴァレリウスの協力も、状況に追い込まれた結果に近い。
アーガスが最初から考えていたのは、協力する意思のある者たちだけで防衛を成立させることだった。
それでも、彼は別の方法を見つけた。
複雑な理屈を理解していなくても動ける仕組み。
間違えにくい手順。
役割を置くだけで機能する配置。
人心を操るのではなく、人心が揺れても破綻しにくい構造を作った。
さらに、あの花火。
暗い森の中で火を灯し、敵の虚栄心まで引き寄せた。
彼女は味方の心をどう扱うかを教えてくれた。
自分は、その原理を敵にも広げた。
方法は違う。
だが、これも一つの解のはずだ。
それを、リナ先輩に伝えたかった。
彼の考え方を理解できる、数少ない人の一人に。
その時、廊下の角から聞き慣れた笑い声がした。
アーガスが顔を上げる。
少し離れた場所で、リナが学生会の仲間たちと談笑していた。
冬の陽光が窓から差し込み、金色の髪に柔らかな輪をかけている。
アーガスは無意識に足を止めた。
彼女たちがこちらへ歩いてきたら、声をかけよう。
そう思った。
リナの視線が廊下を流れた。
ほんの一瞬、アーガスの体に触れる。
だが次の瞬間には、何も見なかったかのように、彼女は隣の学生との会話を続けていた。
軽やかな声。
優雅な笑顔。
そして、完全な素通り。
いつもの、面白がるような視線はなかった。
代わりにあったのは、徹底した冷淡さだった。
アーガスはその場に立ち尽くした。
見えていなかったのか。
偶然か。
それとも、会話に集中していただけなのか。
リナが彼の横を通り過ぎようとした、その時だった。
彼女のそばにいた女子学生が、ふと好奇心から尋ねた。
「リナ、さっきの人……あなたのこと、見ていなかった?」
リナは足を止めた。
そして振り返る。
三歩にも満たない距離で、その青い瞳がまっすぐアーガスを捉えた。
それは偶然の視線ではなかった。
急ぎの一瞥でもなかった。
リナは確かに彼を見ていた。
三秒間。
彼がそこにいることも。
彼が何かを言いたがっていることも。
すべて分かったうえで、彼女は表情を動かさなかった。
笑みも、温度も、感情の揺らぎもない。
まるで、置き場所を間違えた家具を見るような目だった。
いや。
アーガスは、その瞳の奥で、一瞬だけ何かが揺れたのを見た。
怒りか。
失望か。
それとも、彼には名前をつけられない何かか。
リナは何かを押し殺しているように見えた。
やがて彼女は顔を戻し、社交用の完璧な微笑みを浮かべた。
「見間違いよ」
声は、湖面のように波がなかった。
「そこには誰もいないわ」
その語気には、普段のからかいとは違う、意図的な冷たさがあった。
あなたが見えている。
その上で、あなたを無視する。
そう告げられたようだった。
リナは優雅に背を向け、立ち去った。




