表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

132/141

第十話:【第一幕:霧と蜂鳴、崩れる全知の目】

第十話:崩れゆく歯車と女王の独舞

 戦場の縁に、リナ・ヴァンデルは静かに立っていた。

 秋風が金の髪をさらい、湖面のような青い瞳の奥に、獲物を見定める冷たい光が宿っている。


 彼女の視線の先では、泥の砦がいまだ沈黙を保っていた。

 外周では青い結界光が散発的に弾けている。だが、その数は先ほどより明らかに減っていた。無謀な突撃を繰り返していた者たちは、すでにあらかた刈り取られたのだろう。


 それでも、砦は崩れていない。

 守り手たちは疲れているはずなのに、罠はまだ動き、塹壕からの射撃も途切れない。つまり、アーガスの目と耳は、まだ戦場を捉えている。


 最初に断つべきものは、あの工匠が戦場を読むための感覚そのものだった。


 リナは右手を上げた。

 細い指が、指揮者のように空中へ優雅な弧を描く。


 それが合図だった。


 青風学院の小隊が、音もなく散った。六人の学生がそれぞれ定められた位置へ走り、風の魔法が林の間で低く唸る。巻き上げられた落ち葉と土埃が、まず視界を濁した。


 続いて、リナが唇を開いた。

 青風学院に籍を置く彼女は、風だけでなく水の素養にも優れている。風で流れを作り、水で白い幕を編む。濃霧を戦場に広げる術は、リナ・ヴァンデルが最も得意とする手管の一つだった。


「風よ、白き水脈を抱きなさい。水よ、地の息をほどきなさい。青き流れよ、我が指先に従い、戦場を薄絹の奥へ沈めなさい」


 詠唱に応じ、水の魔力が地面から白く立ちのぼる。そこへ仲間たちの風が重なり、湿った気配を一気に押し広げた。霧は生き物のように戦場へ這い出し、泥の砦と周囲の草地を、蒼白い混沌の中へ沈めていく。


 中央砦の指揮台で、アーガスは粗末な木卓の前に立っていた。

 卓上には黒鉄の操作盤が置かれている。そこには小さな魔力灯がいくつも並び、それぞれが彼の仕掛けた感知網の節点へつながっていた。


 さっきまで、灯りは落ち着いて瞬いていた。

 東側は激しく、南側と西側は浅く、北側はほとんど静かに。灯りの明滅には、それぞれの防区の呼吸があった。アーガスはその差を読み、敵の数と距離を測り、必要な場所へ指示を送っていた。


 それは彼が戦場へ置いた目と耳であり、この砦の外側をほぼ透明に変える仕組みだった。


 次の瞬間、すべての灯りが一斉に狂ったように明滅した。


 ブーン、ブーン、ブーン。

 異なる高さの蜂鳴が、狭い指揮台の中で絡み合った。東から、南から、西から、北から。いくつもの警報が重なり、耳の奥を削るような雑音となって押し寄せる。


 アーガスの眉が寄った。

 黒い瞳に、ほんの一瞬だけ困惑が浮かぶ。彼は操作盤へ指を走らせ、灯りの流れを追い、誤反応を切り分けようとした。


 どの節点も叫んでいる。

 どの節点も、確かな敵の位置を示さない。


 警報は、外から意図して揺さぶられていた。


 アーガスは射撃孔へ歩き、細い隙間から外を見た。

 霧はもう、砦の外を白く塗り潰している。遠くではマシューたちが起こした爆煙と土埃が混じり、灰白の壁になっていた。


 視界が奪われた。

 音も奪われた。


 彼が作った全知の目は、濃霧が広がってから三分も経たずに、ほとんど役に立たなくなっていた。


 外周の塹壕でも、守り手たちは混乱していた。

 警報が鳴るたび、彼らは反射的に別の方向へ身体を向け、見えない敵へ無駄な防御魔法を放つ。霧の中へ撃ち込まれた火球が一瞬だけ白い壁を照らし、何も捉えずに焦げた匂いだけを残した。


 誰かが、もう一度警報の方角を確かめようとした。

 けれど次の瞬間には別の蜂鳴が鳴り、その判断を塗り潰す。迷いは塹壕の中で伝染し、守り手たちの呼吸を少しずつ乱していった。


 仕組みが狂っていく気配が、守りの中へ広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ