第十話:【第一幕:霧と蜂鳴、崩れる全知の目】
第十話:崩れゆく歯車と女王の独舞
戦場の縁に、リナ・ヴァンデルは静かに立っていた。
秋風が金の髪をさらい、湖面のような青い瞳の奥に、獲物を見定める冷たい光が宿っている。
彼女の視線の先では、泥の砦がいまだ沈黙を保っていた。
外周では青い結界光が散発的に弾けている。だが、その数は先ほどより明らかに減っていた。無謀な突撃を繰り返していた者たちは、すでにあらかた刈り取られたのだろう。
それでも、砦は崩れていない。
守り手たちは疲れているはずなのに、罠はまだ動き、塹壕からの射撃も途切れない。つまり、アーガスの目と耳は、まだ戦場を捉えている。
最初に断つべきものは、あの工匠が戦場を読むための感覚そのものだった。
リナは右手を上げた。
細い指が、指揮者のように空中へ優雅な弧を描く。
それが合図だった。
青風学院の小隊が、音もなく散った。六人の学生がそれぞれ定められた位置へ走り、風の魔法が林の間で低く唸る。巻き上げられた落ち葉と土埃が、まず視界を濁した。
続いて、リナが唇を開いた。
青風学院に籍を置く彼女は、風だけでなく水の素養にも優れている。風で流れを作り、水で白い幕を編む。濃霧を戦場に広げる術は、リナ・ヴァンデルが最も得意とする手管の一つだった。
「風よ、白き水脈を抱きなさい。水よ、地の息をほどきなさい。青き流れよ、我が指先に従い、戦場を薄絹の奥へ沈めなさい」
詠唱に応じ、水の魔力が地面から白く立ちのぼる。そこへ仲間たちの風が重なり、湿った気配を一気に押し広げた。霧は生き物のように戦場へ這い出し、泥の砦と周囲の草地を、蒼白い混沌の中へ沈めていく。
中央砦の指揮台で、アーガスは粗末な木卓の前に立っていた。
卓上には黒鉄の操作盤が置かれている。そこには小さな魔力灯がいくつも並び、それぞれが彼の仕掛けた感知網の節点へつながっていた。
さっきまで、灯りは落ち着いて瞬いていた。
東側は激しく、南側と西側は浅く、北側はほとんど静かに。灯りの明滅には、それぞれの防区の呼吸があった。アーガスはその差を読み、敵の数と距離を測り、必要な場所へ指示を送っていた。
それは彼が戦場へ置いた目と耳であり、この砦の外側をほぼ透明に変える仕組みだった。
次の瞬間、すべての灯りが一斉に狂ったように明滅した。
ブーン、ブーン、ブーン。
異なる高さの蜂鳴が、狭い指揮台の中で絡み合った。東から、南から、西から、北から。いくつもの警報が重なり、耳の奥を削るような雑音となって押し寄せる。
アーガスの眉が寄った。
黒い瞳に、ほんの一瞬だけ困惑が浮かぶ。彼は操作盤へ指を走らせ、灯りの流れを追い、誤反応を切り分けようとした。
どの節点も叫んでいる。
どの節点も、確かな敵の位置を示さない。
警報は、外から意図して揺さぶられていた。
アーガスは射撃孔へ歩き、細い隙間から外を見た。
霧はもう、砦の外を白く塗り潰している。遠くではマシューたちが起こした爆煙と土埃が混じり、灰白の壁になっていた。
視界が奪われた。
音も奪われた。
彼が作った全知の目は、濃霧が広がってから三分も経たずに、ほとんど役に立たなくなっていた。
外周の塹壕でも、守り手たちは混乱していた。
警報が鳴るたび、彼らは反射的に別の方向へ身体を向け、見えない敵へ無駄な防御魔法を放つ。霧の中へ撃ち込まれた火球が一瞬だけ白い壁を照らし、何も捉えずに焦げた匂いだけを残した。
誰かが、もう一度警報の方角を確かめようとした。
けれど次の瞬間には別の蜂鳴が鳴り、その判断を塗り潰す。迷いは塹壕の中で伝染し、守り手たちの呼吸を少しずつ乱していった。
仕組みが狂っていく気配が、守りの中へ広がっていた。




