第九話:【第七幕:崩れた士気と青風の解剖図】(挿絵あり)
腹が決まると、リナは振り返った。命令を下すためだった。
だが、最初に目に入った光景で、すぐに異変に気づく。
隊員たちの顔から、血の気が引いていた。
まるで骨を抜かれたように立ち尽くしている。目にあるのは、衝撃、恐怖、そして絶望に近い影だった。
先ほど見た屠殺のような光景が、せっかく立ち上がりかけていた士気を砕いていた。
指が震える者がいる。唇を白くする者がいる。目の奥に、逃げたいという光を浮かべる者もいた。
「こんなの……破れるわけがない……」
誰かが呟いた。声は空っぽだった。
「ひどすぎる……これ、試合じゃないだろ……」
「リナ、撤退しよう」
マシューが低く訴えた。
「あれは、俺たちがどうにかできるものじゃない」
リナは静かに聞いていた。
遮らない。叱りもしない。恐怖は本能だ。それを知らずに人を率いることはできない。
だが、隊を本能のままにはさせない。
「言い終えた?」
声は平らだった。
しかし、そこには冷たい権威があった。
隊員たちの言葉が止まる。
リナは一人ずつ見渡した。湖面のような青い瞳に、凍るような光が宿っていた。
「あの守りに怯えて退くことこそ、本当の恥です」
彼女の声は大きくない。
だが、一語ごとに重みがあった。
「下がる? そして青風学院が、一年生の新入生に追い払われたと認めるの?」
沈黙が落ちた。
リナは戦場の方を指した。
「あなたたちが見たのは屠殺でしょう。私は、機会を見た」
隊員たちの視線が揺れる。
「あの者たちが倒れたのは、盲目で、欲に飲まれ、戦い方を持たなかったから。私たちは違う」
リナの目に、鋭い光が走った。
「私たちは、あの巨大な魔導具がどう動いているかを見た。なら、次にすることは一つ」
隊員たちは息を呑んだ。
「解体します」
誰もすぐには反応できなかった。
リナは懐から羊皮紙を取り出し、平らな木の幹の上に広げた。
そして描き始める。一筆、一筆。冷静で、正確だった。
頭の中では、先ほど見たすべてが順に再生されていた。
警戒の仕掛けは灌木の外まで届く。音で反応する。範囲は少なくとも五十歩。
泥沼は草地の外側。広さはおよそ三十歩。
爆発する罠は草地の中ほどに散らばり、踏み込みで動く。再び使えるまでの間は一定ではない。およそ三十秒から一分。
塹壕の射撃位置は、十字に近い形で置かれている。
射線は計算され、草地のほぼ全域を覆っている。
リナは砦の輪郭を描いた。塹壕の位置を描いた。泥沼の範囲を描き、罠の散らばりと警戒範囲の予想線を加えていく。
それは攻城図というより、解剖図だった。
時間が過ぎる。
戦場では、まだ別の隊が砦へ突っ込んでいる。また青い光が上がった。それでも、リナは顔を上げない。
意識のすべてを、羊皮紙へ注いでいた。
やがて、筆先が止まる。
リナは羊皮紙の一点を見つめた。
「見つけた」
口元に、細い笑みが浮かぶ。
「人の手で魔力を注ぎ直す。その隙が、あなたの弱点よ」
彼女はその位置に、強く丸をつけた。
そして、クリシーへ向き直る。
「クリシー。三人連れて、東側へ。草地には入らない。灌木にも近づかない。開けた場所で動きなさい。相手から見える距離を保って、正面から攻めるように見せるの」
クリシーは即座に頷いた。
「分かった」
「マシュー。あなたは二人連れて、南側で待機。私の合図で、遠くから塹壕の守り手へ魔法を撃ちなさい。狙いは倒すことではない。魔力を注ぎ直す動きを止めること」
マシューは一瞬戸惑った。
「でも、どうやって近づく? 灌木に入れば――」
「近づかない」
リナは遮った。
目に危うい光が宿る。
「あなたたちは開けた場所に立ち、遠くから撃つ。必要なのは傷ではなく、乱れ。複数の方角から攻撃されれば、守り手は罠の手入れへ集中できなくなる」
マシューは唇を引き結び、それから頷いた。
「了解」
「ほかは私と来なさい。北側から突破します」
隊員たちは、リナを見た。
その瞳にある確信を見て、恐怖が少しずつ引いていく。
「覚えておきなさい」
リナは羊皮紙を畳んだ。
「どれほど精巧な仕掛けでも、歯車で動くものなら、歯車を一つ外せば止まる」
彼女は戦場を見た。
笑みが、さらに鮮やかになる。
「いい問いね、アーガス」
青い瞳が、獲物を捉える鷹のように細められた。
「お姉さんが、解き方を見せてあげる」
陽光は高く、戦場の騒ぎはまだ続いていた。
青い結界の光は、花火のように空へ弾けていく。
樹冠の上で、金色の髪を持つ少女が静かに立っていた。
手には、線と印で満たされた羊皮紙。背後では、隊員たちが命令通りに散っていく。
その目は、獲物を定めた鷹の目だった。その笑みは、運命を告げる女王の笑みだった。
けれど、その奥には、これまでになかった柔らかさがある。これまでになかった憂いがある。
今回、彼女は勝つためだけに戦うのではない。
不器用で、世慣れていなくて、それでも奇跡を作ってしまう工匠を守るために戦う。
風が、近づいていた。
今度のリナ・ヴァンデルは、観客ではない。
盤面へ踏み込む者。神話に傷を入れる者。そして、守る者だった。




