第九話:【第四幕:戦の形を変える泥の砦】
リナはしばらく黙っていた。
軍事学院の教本に載る標準的な防衛陣地。堅い柵。厚い木壁。何重にも守られた門。巡回する見張り。
それらは、多くの兵を必要とする。細かな指揮を必要とする。鍛えられた者たちの連携を必要とする。
だが目の前の泥の砦は、その前提を踏み越えていた。
「教本の守りは、まるで前の時代の遺物ね」
リナの声は軽い。だが、その奥には震えがあった。
「重くて、高くて、動かしにくい」
クリシーは言葉を失った。
「でも……あれは何百年も使われてきた守りの考え方でしょう?」
「ええ。何百年も」
リナは頷いた。
「でも、その考え方は、多くの兵と、難しい指揮と、高価な砦を前提にしている」
彼女は、泥の砦を見た。
「これは違う。必要なのは、基礎の魔力を注げる者が十人ほど。戦いに熟達していなくてもいい。戦の読みが浅くてもいい。極端に言えば、考える力さえ最小限でいい。決められた手順通りに動ければ、それで足りる」
リナの指先が、剣の柄を軽く叩いた。
「昔ながらの守りには、石材、木材、兵の育成、食料、給金がいる。でもこの守りは、いくつかの魔法仕掛けと、魔力を注げる人手で成り立つ」
彼女はゆっくり息を吸う。瞳の奥に、深い憂いが宿った。
「ここまで安く、ここまで簡単に扱えるなら、守りは貴族と軍だけのものではなくなる」
リナは、ヴァンデル商会の商隊を思い出していた。国境近くを通る商路。大国と小国のあわい。力の差に屈した小さな町。守りを持たず、踏みにじられた村。
もし、この仕組みがそこにあったなら。
「十人」
リナは小さく呟いた。
「基礎の魔力を持つ者が、たった十人。それだけで要所を守り、自分たちの何倍もの敵を退けられるかもしれない」
声はさらに小さくなる。けれど、冷たさは増していた。
「そして、その十人は精鋭でなくてもいい。長年鍛えられた戦士でなくてもいい。農民でも、基礎の魔力さえあれば足りる」
クリシーは、ようやくリナの憂いを理解した。
「もし、この守りが広まったら……戦の形が変わる」
「戦だけではないわ」
リナは首を横に振った。
「力の釣り合いも変わる。小さな貴族がこれを持てば、わずかな代価で堅い防線を作れる。大貴族が誇る精鋭の兵も、こうした守りの前では――」
彼女は言葉を飲み込んだ。その短い間にも、青い光球は次々と安全区域へ弾き出されていく。潮が引くように、学生たちが戦場から消えていった。
これは安全な試合だから、青い光で済んでいる。本当の戦場なら、あれは命を刈る鎌になる。
リナは観測塔を見上げた。逆光の中に、貴族と教授たちの影が並んでいる。魔導透鏡が、弾き出される青い光の一つ一つを冷たく記録していた。
もし、この完璧な姿が、そのまま見られ、記録され、写し取られるなら。
次に伸びるのは、試合の手ではない。
権力の手だ。
神話が固まる前に、その殻へ傷を入れなければならない。




