第九話:【第三幕:蜂鳴の警戒網と再び目覚める罠】
沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、マシューだった。
「もう少し近くで……見てみる」
彼は息を殺し、灌木の陰へ身を寄せる。一歩ずつ、気配を消しながら進んだ。
その瞬間。
歯の奥が痛むような蜂鳴が響いた。匍匐していたマシューの位置が、あらわになった。
次の瞬間、塹壕の中から複数の魔法が放たれる。
「下がって、早く!」
リナは最速で風壁を張った。かろうじて、突如の攻撃を受け止める。
音。
まさか、守りの範囲は草地だけではない?
周囲の灌木まで含めているの?
マシューは転がるように木の陰へ戻った。顔色は蒼白で、先ほどの攻撃に完全に呑まれている。ほかの隊員たちも、本能的に数歩下がった。目には警戒が宿っている。
リナはすぐには話さなかった。遠眼鏡を下ろし、深く息を吸う。
先ほど見たすべてを、頭の中で並べ直す。警戒の仕掛けは、予想よりも広い。この守りは、最初に考えたよりもずっと完整で、ずっと恐ろしい。
だが同時に、より多くの手がかりも見えた。
リナは振り返り、隊員たちを見た。全員が、彼女の判断を待っている。
「言って」
彼女の視線がクリシーを捉えた。
「あなたには、何が見えた?」
クリシーはすぐには答えなかった。目を閉じ、先ほどの光景を頭の中で巻き戻す。
「三重の守り」
彼女は目を開けた。声は速く、正確だった。
「外側に泥沼。中ほどに爆発する罠。内側に塹壕からの射撃。それぞれが、次の仕掛けのために時間を稼いでいる」
「ほかには?」
「警戒の範囲が広い。外側の灌木まで入っている」
クリシーは眉を寄せた。
「でも、一番おかしいのは罠。私は同じ場所が二度爆発するのを見た。間は一分もない」
リナの目に、かすかな賞賛が宿る。
「そこに気づいたのね」
その時、また新たな隊が突撃を始めた。リナは指を向ける。
「見て」
隊が草地へ踏み込む。
「轟!」
同じ場所で、爆発が起きた。
クリシーが息を呑む。
「また同じ場所……罠って、一度きりじゃないの?」
彼女の眉間のしわが深くなる。
「爆発するたびに誰かが走って行って置き直してる? でも、それには――」
「置き直してはいないわ」
リナは遮った。
「塹壕の中を見て」
クリシーも遠眼鏡を上げ、焦点を塹壕へ落とした。守り手たちが、半ば身を沈めて待機している。その中に、ひときわ目立つ少年がいた。
雄獅の紋章。アウグストゥス家のしるし。
「ヴァレリウス……」
リナは相手を認めた。
「アウグストゥス家の次男。灰色学院一年」
その少年は足元から、手のひらほどの金属箱を拾い上げた。そこへ少量の魔力を注ぐ。上部の赤い灯りがともった。
彼が押す。
遠く、さきほど爆発した罠の地点に、薄い魔法の波紋が走った。まるで、術式が再び目を覚ましたように。
クリシーは息を止めた。
「離れた場所から……もう一度動かした……」
「近づかなくても、罠をまた使える状態に戻せるのね」
リナは遠眼鏡を下ろした。瞳が沈む。
「人の手で魔力を注ぎ直している。あの箱を通して。だから同じ場所で、短い間に何度も爆発させられる」
彼女は一拍置いた。
「しかも、複雑な魔法陣を描く必要がない。長い詠唱もいらない」
クリシーは二秒遅れて、その意味に追いついた。
「描かなくていい……」
「つまり、扱う者に高い魔法の腕は要らない」
リナの声は冷たかった。
「基礎の魔力を注げればいい。それだけで罠は戻る。つまり、この守りは精鋭に頼っていない。替えの利く人手で回る」
クリシーの指先が、髪際の黒曜石へ触れた。冷たく美しい飾りを撫でるのは、彼女が考える時の癖だった。
「それって……」
「これは、粗末な砦ではないわ」
リナは呟いた。
「巨大な魔導具よ」
「魔導具?」
「そう。複雑な魔導具と同じ」
リナの瞳に、思考の光が走る。
「あの塹壕の守り手たちは、防いでいるというより、部品なの。罠、塹壕、射撃孔。すべてが精密に噛み合った歯車で、人はそれを回すための力にすぎない」
そこまで考えた時、リナの中で何かが繋がった。
あの夜、勤勉な半ドワーフの生徒が口にした考え。
彼が言っていたのは、これだったのね。




