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第九話:【第一幕:戦場の残り香と集う捕食者たち】(挿絵あり)

第九話:防線の神話と、その亀裂

 空気にはまだ、魔法の余韻が残っていた。

 そして、あの淡く、不安を誘う香りも。


 リナ・ヴァンデルは、たった今終わったばかりの戦場の中央に立っていた。金の髪が、森を抜ける微風に静かに揺れる。


「クリシー、相手が全員退場したか確認して。マシューは味方の損傷を見なさい。ほかの者は警戒の形を崩さないこと」


 リナの声は、静かで、よく通った。命令は短い。だが、その短さがかえって逆らいがたい重みを帯びていた。


 彼女の背後で、ひとりの少女がすぐに前へ出た。鮮やかな緑の短い髪。頬にはまだ、幼さを残すやわらかな丸みがある。髪際には、飾り気の少ない黒曜石の髪飾りが留められていた。


 ただし、その縁は異様なほど鋭く磨かれている。


「うん、リナ! 任せて!」


 クリシーは、隣家の少女のような明るい笑顔で答えた。その声は鈴のように澄んでいて、まるで任されたのが戦場の確認ではなく、楽しいおつかいであるかのようだった。


挿絵(By みてみん)


 けれど、彼女が振り返った瞬間。その笑みが、半呼吸だけ消えた。指先が無意識に、髪際の黒曜石へ触れる。最も鋭く磨かれた先端を、そっとなぞる。


 次の瞬間には、もう手は下ろされていた。速すぎて、見間違いのような仕草だった。彼女が再び仲間たちへ顔を向けた時、そこにあったのは、先ほどと同じ天真爛漫な笑顔だけだった。


 そして、何事もなかったように隊を動かし始める。


 その時だった。


「轟――!」


 遠くで、鈍い爆発音が響いた。続いて二つ目、三つ目。音は途切れない。


 さらに目を引いたのは、森の向こうで次々と立ちのぼる青い光柱だった。保護結界が発動し、誰かを戦場から弾き出している光だ。


「……あの方向、退場が速すぎるね」


 クリシーが空を仰いだ。リナは、青い光が上がる間隔を数えた。三つ数える間に一つ。五つ数える間に二つ。時には、同時に三つ、四つ。


「一分で、少なくとも十五人」


 リナは低く呟いた。


「しかも途切れない。屠殺場と呼んでも、大げさではないわね」


 彼女の瞳が冷える。


「全員、樹冠へ。上から移動します」


 短い命令で、隊は一斉に動いた。


「集合。あの方向へ向かいます」


「でも――」


「危ないからこそ、見に行くのです」


 リナの口元に、危うい笑みが浮かんだ。


「彼が、どうやって戦場を屠殺場に変えたのか。私はそれを知りたい」


 その名は、声にはならなかった。だが、胸の奥で確かに響いていた。


 アーガス・アイアンソーン。


 さらに進むにつれ、遠くの音は輪郭を帯びていった。爆発。叫び声。魔法が衝突する轟き。音は密で、乱れていて、まるで盛大な祝祭のようだった。


 ただし、その祝祭には、死の匂いが混じっている。


 クリシーはリナの隣を進みながら、低い声で報告した。


「外側から見ただけでも、かなりの数の隊があの場所へ向かってる。十隊以上はいると思う。赤紅学院、岩黄学院、青緑学院、深藍学院……聖白学院の制服も見えた」


「互いに戦っている様子は?」


「ない。警戒はしてるけど、攻撃していない。まるで……どこかで示し合わせたみたい」


 リナの瞳が深くなる。


「止まって」


 彼女が片手を上げると、隊は音もなく停止した。すでに戦場の外縁まで来ている。葉の隙間から、前方に広がる開けた地帯が見えた。


「クリシー、遠眼鏡を」


 クリシーはすぐに、精巧な魔導遠眼鏡を差し出した。リナはそれを目に当て、視界を絞る。


 まず見えたのは、次々と立ちのぼる青い光だった。それから、視線を地表へ落とす。


 草地には、戦闘の痕跡がいたるところに残っていた。だが、最も目を引いたのは焦げ跡だった。普通の火炎魔法ではない。螺旋を描くように焼き込まれ、地面の奥まで炭化した跡。


 烈火嵐のしるし。


 赤紅学院二年で、この威力の烈火嵐を扱える者はひとりしかいない。


 ヴォルマール・フレイムハート。


 赤紅学院二年一組で、最も強い男。


 リナの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。彼女はゆっくりと遠眼鏡を下ろし、戦場へ向かっている隊列を見た。


 学生たちの目にあるのは、熱と欲だった。口々に、栄誉、最初に落とす、という言葉を叫んでいる。


「首席が倒された……」


 リナの目に、冷たい光が走った。


「安い餌ね」


 クリシーが瞬きをする。


「リナ、それって――」


「彼らは愚かなのではないわ」


 リナは静かに遮った。


「誘われたのよ。赤紅学院の首席を討つ栄誉は、人の理を鈍らせるには十分すぎる」


 ちょうどその時、一つの隊が彼女たちの下を駆け抜けていった。リナは樹冠の隙間から、その背中を見下ろした。


 青い瞳に、かすかな軽蔑が浮かぶ。


「けれど、彼らは見誤っている」


 彼女は低く言った。


「あの獲物は、襲いかかる者をなお屠り続けられるほど強い。そして彼らは――」


 リナは、突撃していく隊列を見つめた。


「自分たちこそが獲物だと、まだ知らない」


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