第八話:【第一幕:棋士の初手】(挿絵あり)
第八話:花の残り香と揺れる盤面
朝の霧が、森の縁からゆっくりと立ちのぼっていた。
薄い白の帳が林地を包み、差し込む陽光は地面に斑の光を落としている。世界全体が、淡い紗を一枚かけられたようだった。
青風学院二年一組の集合地点では、試合開始前の迷霧がようやく晴れたばかりだった。
リナ・ヴァンデルは、その中央に立っていた。
湖面のように静かな青い瞳が、周囲の隊員たちをゆっくりと見渡す。
半エルフの血が与えた優雅さは、朝の光の中でいっそう際立っていた。淡い金の長髪が微風に揺れ、一本一本の髪が晨光を受けて細かな光を跳ね返している。
「留守を任せる皆さん」
彼女の声は穏やかで、よく通った。命令というより、信頼を預ける言葉だった。
「ここから先をお願いします。私たちの目的は、勇ましく正面からぶつかることではありません。賢く勝つことです。拠点を守ることは、私たちの勝つための道筋を守ることでもあります」
リナはわずかに身を屈めた。
それは、指揮官の号令というより、信頼できる仲間へ向けた感謝の礼だった。
残留組の表情に、静かな緊張が走る。彼らは、自分たちがただの留守番ではなく、勝利の一部を任されたのだと理解した。
リナは身を翻し、主力部隊の隊長のもとへ歩いた。
マルコ・ドラクロワ。
鍛えられた体躯に、広い肩。金の双頭鷲の紋章が刺繍された深い藍色の外套をまとっている。
ドラクロワ家。
王都に根を張る大貴族の一門であり、三つの城邦領と私兵団を持つ家だ。
栗色の髪は乱れ一つなく整えられ、琥珀色の瞳は、本人の自覚よりもずっと頻繁にリナを追っていた。
「リナ」
マルコの声には、わずかな甘さが混じっていた。彼女の前でだけ見せる、あの温和で、どこか媚びるような態度だ。
「俺は思うんだが、ここは――」
「マルコ様」
リナは命令ではなく、相談するような声で彼の言葉を遮った。表情には、柔らかな微笑みを浮かべている。
「こうしてはいかがでしょう。主力部隊は、あなたが率いて最も大切な要地を押さえる。今回の狙いは明らかです。迷わず前へ出られる方に、正面を任せたいのです」
問いかけの形をしている。だが、その青い瞳には反論の余地を与えない光があった。
マルコはすぐに胸を張った。任された、という誇りが顔に浮かぶ。
「もちろんだ! 任せてくれ、リナ。君のために――いや、俺たちのために、必ず要所を取ってみせる!」
リナの口元に、ほとんど見えないほど小さな弧が浮かんだ。
彼女は、マルコが自分に向けている感情を知っている。
あの大貴族は、私的な場で何度も匂わせてきた。リナに、ドラクロワ家の第二夫人になる道もあるのだと。
滑稽な提案だった。
家名と財産を差し出せば、彼女が彼の飾り棚に並ぶ精巧な置物になるとでも思っているのだろう。
けれど、リナは決して真正面から拒まない。
拒絶は男を目覚めさせる。
曖昧な期待と、届きそうで届かない距離は、男に働く理由を与え続ける。
ときどき優しく笑い、意味を一つに絞らない言葉を置くだけでいい。それだけで、この自尊心の強い大貴族は、糸を引かれた人形のように彼女の意図した方向へ動く。




