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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第10話中編上 『外側6:王女の茶会』

4 試問の茶会


 本宮の南翼に位置する空中庭園は、秋の柔らかな陽光が白い大理石の柱を照らし、微風が色とりどりの薔薇の香りを運んでいた。精緻な細工が施された白磁のティーカップの中では、南ヴィレノール領から献上された最高級の茶が、黄金色の水面に芳醇な湯気を立てていた。


 庭園の中央には王女の席が置かれ、その周囲を囲むように高位貴族の令嬢たちの席が整えられている。その正面には、まだ空いたままの席が一つある。誰も座っていないにもかかわらず、その席だけが最初から視線を集めるように整えられていた。


「今年の秋茶は、ずいぶん華やかですわね」

「王女殿下のお席ですもの。当然ですわ」

「それに、今日は珍しい方もお見えになるのでしょう?」


 扇の陰で交わされる声は、まだ柔らかい。だが、その柔らかさの内側には、誰が王女に近く、誰が第一側妃宮に近く、誰が次の噂の中心に立つのかを測る、宮廷の鋭さが潜んでいた。


 その庭園の中心に設けられた主催者の席で、第一王女リーゼロッテは完璧な微笑みを浮かべていた。


 プラチナブロンドの髪を秋の淡い日差しに輝かせ、淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は、どこからどう見ても「無害で愛らしい、本宮の第一王女」そのものである。


 第一側妃の背後に付き従い、国内貴族との縁組からは遠ざかり、王家が進める帝国との婚姻交渉に名を置く王女。だが本宮の貴族たちには、そこにリーゼロッテ自身の意思があるとは見えていない。彼女はただ、大人しく従順な飾られた花でしかなかった。


 それが、本宮の貴族たちがリーゼロッテに抱いている共通認識だった。


「王女殿下、本日のお茶は南方領のものと伺いました」


「ええ。秋の薔薇に合う香りだと聞きましたの。皆様のお口に合えばよろしいのだけれど」

 リーゼロッテは、ただ客人をもてなす王女のように微笑む。その笑みの奥で、今日の席次と話題の順序はすでに決まっていた。


 この庭園に集められた令嬢たちも、リーゼロッテにとっては客人ではない。流行に敏感で、噂話を何よりも好む彼女たちは、社交のつもりで笑い、語る。


 その声がセシリアの退路を塞ぐことなど、彼女たちは知らない。彼女たち自身もまた、流行に乗り遅れれば笑われ、王女の話題に応じ損ねれば、社交の輪から一歩遅れる側の者たちだった。

「王都で流行っているものを知らないと、父に叱られてしまいますわ」

「社交界では、知らぬことも恥になりますもの」

「王女殿下のお茶会で話題に遅れるわけには参りませんわね」


 リーゼロッテの斜め後ろ、大理石の柱が落とす影の端に、一人の給仕の侍女が控えている。


 ルリカである。リーゼロッテの影として同席している彼女は、給仕の制服に身を包み、一見すれば訓練の行き届いた従順な使用人でしかない。銀の盆には茶器が並んでいる。だが、彼女が立つ位置は、リーゼロッテの正面と庭園の入口、そのどちらにも目を配れる場所だった。


 彼女の視線は、茶菓子の減り具合など追ってはいなかった。ルリカの武人としての眼は、庭園に足を踏み入れる令嬢たちの歩幅、肩の強張り、視線の落ち着きを拾い続けていた。彼女にとってこの茶会は、リーゼロッテに近づく者の重心と呼吸を読み、危うい兆しを見逃さないための持ち場だった


   ◇


 やがて、庭園の入り口を飾る薔薇のアーチの向こうに、一人の令嬢の姿が現れた。

 宰相家の令嬢、セシリア・ミント・ヴェルメイユ。第一側妃宮の行儀見習いとして入っている彼女が姿を見せた瞬間、庭園のさざめきが不自然に途絶えた。


 茶会に集まった者たちの視線が、一斉にセシリアへ集まった。驚きを声に出す者はいない。宰相家の令嬢を前に、そのような無作法をする者はいなかった。ただ、扇の陰で伏せられた目と、わずかに遅れた微笑みだけが、彼女たちの動揺を示していた。


 セシリアの華奢な身体を包んでいるのは、上質な真紅の絹地に、第一側妃派を象徴する意匠を金糸で縫い込んだドレスだった。幾重にも重ねられたパニエが歩くたびに重い衣擦れを立て、胸元では大粒のルビーを連ねた首飾りが鈍く光っている。


 茶会の装いとは、本来、主人への敬意と自家の品位を示すものだ。だが、セシリアのドレスは違った。それは、彼女が宰相家の娘としてではなく、第一側妃宮の者としてこの場に立っているのだと、衆目に刻みつけるための印だった


 リーゼロッテは、ティーカップの縁に口を当てながら、冷ややかな瞳でその姿を見極めた。

(間違いない。あれはセシリア自身が好んで選んだ装いではない。第一側妃が自らの権威を周囲に見せつけ、セシリアを第一王子の側妃となるべき者として、衆目の前に据えるためにまとわせた衣装だ)


 もしセシリアに野心があり、自ら第一王子の側妃の座を望んでいるのなら、この衣装は屈辱ではなく、第一側妃派の後ろ盾を示す証になるはずだった。


 だが、ルリカの武の眼が捉えたセシリアの反応は、野心家のそれとはまるで違っていた。遠目に拾えるのは、足取りと呼吸と指先の震えだけで十分だった。触れずとも、彼女が望んでこの席へ来たのではないことはほとんど分かる。だが、確かめる機会はすぐに来た。


 それは、名誉ある王女の茶会に招かれた令嬢の反応ではなかった。逃げ場のない場へ押し出された者の反応だった。


「……よく来てくれましたわね、セシリア様」


 リーゼロッテはカップを静かにソーサーへ戻し、柔らかく、けれど逃げ道を与えない笑みでセシリアを迎え入れた。


 その声に弾かれたように、彼女は引き攣った顔で淑女の礼を取ろうとしたが、慣れない重いドレスと恐怖で足元がふらつき、危うく倒れかけた。すかさず、背後に控えていたルリカが音もなく進み出て、給仕が客を支えるだけの自然さでセシリアの肘を取った。


「お足元にご注意くださいませ、セシリア様」


 肘を支えた指先に、布越しでも分かる冷えと小刻みな震えが伝わった。遠目に拾ったものは、ここで確信に変わる。ルリカは肘を離す直前、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。それだけで、リーゼロッテには伝わった。


 セシリアは青ざめた顔でルリカに小さく礼を言い、促されるままに、出席者全員の視線が自然に集まる王女の正面の席へと腰を下ろした。


「第一側妃宮での行儀見習い、大変ご苦労様ですわ。その美しいドレス、第一側妃様からの賜り物でしょう?第一側妃様が貴女をどれほど大事に扱っておいでか、この場にいる皆様にもよく分かりますわね」


 リーゼロッテの言葉に、周囲の令嬢たちが一斉に同調の声を上げる。


「本当に、見惚れてしまうほどお美しいですわ」

「第一側妃様からの御引き立て、羨ましい限りですこと」


 令嬢たちの賞賛には、無邪気な憧れと、隠し切れない嫉妬が混じっていた。セシリアは弁明の言葉を探すように乾いた唇を震わせた。違います、と言えば、第一側妃からの賜り物を侮ることになる。ありがとうございます、と言えば、その衣装を受け入れたことになる。


 称賛の輪に閉じ込められ、弁明の言葉すら奪われたセシリアを見据えながら、リーゼロッテは静かに目を細めた。


 逃げ道は閉じた。セシリアはもう、自分から場を離れることはできない。あとは、令嬢たちの好奇心を、ほんの少し望む方向へ向けるだけでよかった。


 リーゼロッテは、まるで今思いついたかのように小さく両手を合わせ、高く澄んだ声で告げた。


「そういえば皆様。最近、王都の民の心を掴んで離さない、素晴らしい純愛劇が劇場で上演されているそうですわね。わたくしも、是非一度拝見したいと思っておりましたの」


 その言葉が落ちた瞬間、セシリアの指先が膝の上で強く握り込まれた。王女はただ、流行の話題を口にしただけに見える。令嬢たちもまだ笑みを崩してはいない。だが、セシリアだけは知っていた。その一言が、自分を囲む檻の扉を、内側から閉ざす音であることを。




5 劇空間の真意


 第一王女リーゼロッテが持ち出した『王都で流行している純愛劇』という極めて自然な、だが計算し尽くされた話題は、優雅な茶会の空気を一瞬にして熱狂の渦へと変えた。


 その熱の中心で、セシリアだけが取り残されていた。周囲が明るく華やぐほど、彼女の座る席だけが冷えていく。


 王宮という閉鎖空間において、最新の芸術や流行の演目を語ることは、自らの教養と情報網の広さを誇示するための最も安全で華やかな手段である。ましてや、それが第一王子殿下という次代の王位に最も近い存在の秘められた恋を暗示する内容となれば、好奇心旺盛な令嬢たちが関心を寄せないはずがなかった。


「ええ、存じておりますわ。第一王子殿下を思わせる高貴な御方と、その傍で健気に仕える行儀見習いの令嬢の純愛を描いた、あの素晴らしい舞台ですわね」


「わたくしも先日、劇場で拝見いたしました。身分違いの恋に胸を焦がしながらも、少しでも殿下の御為にとひたむきに努力するヒロインの姿に、劇場の誰もが涙しておりましたのよ」


「あのように美しく、純粋な献身こそ、我々貴族の娘が見習うべき鑑ですわ」


誰かが、扇の陰で小さく笑った。


「あの劇のことでしたら――まるで、現実のどなたかを思わせるようで……胸が熱くなりましたわ」


 その声が落ちた瞬間、セシリアの指先が膝の上で強く握り込まれた。笑っているのは、誰なのか。セシリアには分からなかった。扇の陰に隠れた口元が、みな同じ形に見える。誰も責めてはいない。誰も刃を向けてはいない。だからこそ、どこへ向かって否定すればよいのか分からなかった。


 色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちが、扇で口元を隠しながら熱を帯びた溜息を漏らす。彼女たちの瞳は純粋な感動と憧憬に輝いており、そこに悪意は微塵も存在しない。ただ美しい物語を受け取り、無邪気に称賛しているだけだ。


 だが、その無邪気さこそが、セシリアの逃げ場を奪う称賛の輪となることを、場の流れを操るリーゼロッテは熟知していた。


 善意と称賛の薄絹に包まれた輪には、反論のしようがない。令嬢たちの熱狂は、この劇がすでに王都の民衆と貴族社会の間で『誰もが愛し、称賛すべき美しい物語』として固まりつつある事実を証明していた。


 セシリアの耳には、その称賛が少し遅れて届いていた。声は聞こえる。意味も分かる。けれど、返すべき微笑みだけが作れない。唇の端を持ち上げようとするたび、頬の筋肉が他人のもののように強張った。


「まあ、皆様もすでにご覧になっていらしたのね。わたくしも台本だけは読ませていただきましたけれど、本当に胸を打たれましたわ」 


 リーゼロッテは、白磁のティーカップを優雅に傾けながら、秋の陽だまりのような微笑みを浮かべたまま次の言葉を選んだ。彼女の視線が、主賓席で身を強張らせているセシリアへと静かに向けられる。


「あの劇は、第一側妃様がお抱えになっている劇団の公演だと伺っております。そして何よりも素晴らしいのは、あの物語の源となり、ヒロインの姿に重ねられているのは、他ならぬセシリア様ご自身だということですわ」


 リーゼロッテの澄んだ声が庭園に響き渡った瞬間、令嬢たちの間に感嘆のどよめきが広がった。羨望と熱を帯びたいくつもの視線が、一斉にセシリアへ集まった。


 セシリアは一瞬、リーゼロッテの言葉の意味を理解できなかった。源。重ねられている。自分。聞き慣れたはずの言葉が、どれも遠い国の言葉のように遅れて胸へ沈んでいく。


「まあ。では、あの舞台は単なる創作ではなく、真実の愛の記録だったのですね」


 真実。その言葉だけが、はっきりと聞こえた。違う。あれは劇ではない。誰かに見せるための物語でもない。レオンハルトへ向けて、誰にも聞かせずにしまっておいた言葉だった。


「セシリア様だからこそ、あのように第一王子殿下の御心に寄り添う真実の純愛を描くことができたのですね。なんと胸を打たれることでしょう」


 セシリアは、返事をしようとして失敗した。舌が動かない。口を開けば、レオンハルトの名がこぼれそうだった。その名だけは、この場に落としてはならない。落とした瞬間、それは王家への反論になる。


 令嬢たちの無邪気な賛美の声の中で、セシリアの顔からは血の気が完全に引き、まるで精巧な蝋人形のように真っ白になっていた。 セシリアの脳内で、恐ろしい真実の断片が組み合わさっていく。


 第一王子殿下は学園に在籍しており、王宮にいるセシリアと親しく言葉を交わす機会など存在しない。


 劇の元となったのは、セシリアが誰にも見せるつもりなく綴っていた日記だった。そこに記されていたのは、レオンハルトへの想いと、彼と共に生きる未来への願いである。


 その言葉から、レオンハルトの名だけが抜き取られ、相手役は第一王子へ置き換えられていた。誰にも見せるつもりのなかった願いは、王家の秘恋として整えられていた。


 そのおぞましい真実に気づいた瞬間、セシリアの全身から一気に温度が奪われた。


(否定しなければ。これはレオンハルト様との話であって、第一王子殿下への恋情などではないと。違う、と言えばいい。ただそれだけでいい。けれど、その一言の向こうに、父の顔が浮かんだ。ヴェルメイユの家名。第一側妃宮の侍女たち。ヒルデガードの微笑み。そして、アイゼンガルトの若き騎士の未来。)


 しかし、セシリアの乾いた唇から否定の言葉が発せられることはなかった。


 もしここで真相を口にすれば、劇を公認し、彼女にこの豪奢なドレスを与えて送り出した第一側妃様に対する明確な反逆となる。王家の純愛劇に泥を塗り、第一王子殿下の品位を損なう大不敬。否定すれば、ヴェルメイユ侯爵家が潰れる。


 その血の凍るような王家と後宮の鎖がセシリアの喉を塞ぎ、彼女は一言の弁明も発することができなくなった。


 リーゼロッテは、無言で震えるセシリアを観察しながら、内心で冷徹な消去法による見極めを進めていた。


 第一の見立て、セシリア自身が権力への欲求からレオンハルト卿を裏切ったという可能性は、ここで消えた。もし自発的な権力欲があるなら、この称賛を傲慢に受け入れているはずだ。彼女は自ら状況を動かそうとせず、事態の深刻さに今ようやく気付いて恐怖している。


 残る見立てを確定させるため、リーゼロッテは最後の一押しとなる第二の罠を動かす。


「そういえば、皆様。あの劇には、さらに素晴らしい2作目が上演されたと伺いましたわ」


 リーゼロッテの声が、秋の庭園に冷たく響く。


「行儀見習いの令嬢に想いを寄せていた騎士が、第一王子殿下と彼女の真実の愛を知り、王家の品位のために自ら身を引くという、涙なしには語れない物語だとか」


(身を引く。誰が。レオンハルトが。何のために。王家の品位のために。セシリアの中で、言葉が一つずつ、冷たい釘のように打ち込まれていく。)


 その言葉が落ちた瞬間、セシリアの肩が小さく跳ねた。背後に控えるルリカは、セシリアの瞳が大きく揺れ、焦点を失っていくのを見逃さなかった。


「ええ、その2作目こそ、王都で最も話題になっているのですわ」「令嬢を愛しながらも、第一王子殿下という国を背負う御方のために自ら身を引く騎士様。その気高く哀しい忠義の姿に誰もが心を打たれました」


「王家の品位と秩序を守るため、自ら身を引くことこそが最も美しい愛の形。これこそが、我々臣下の持つべき真の忠誠心ですわね」 


 令嬢たちの言葉は、セシリアの心を押し潰す重しとなっていた。1作目がセシリアの現状の書き換えであるならば、2作目は第一側妃様が強要する未来そのものだ。


 この劇が美談として王都に定着した今、レオンハルトの取り得る行動は狭められた。もし彼がセシリアとの婚約破棄を拒めば、第一王子殿下の恋路を邪魔し王室の品位を傷つける不忠な騎士として名誉を失う。身を引けば、王家の品位のために自己犠牲を払った忠義の騎士として称賛される。


 第一側妃様は、アイゼンガルト侯爵家を第一王子派から離反させないために、レオンハルトの忠義心と家門の面目を人質に取り、彼からセシリアを切り離すことを美しい自己犠牲として押しつけたのだ。


 セシリアがここで側妃になることを拒めば、レオンハルトが不忠のそしりを受ける。受け入れれば、二人の未来は永遠に失われる。どちらに転んでも、第一側妃様の思惑通りに事態が進む。


「第一王子殿下への献身と、自ら身を引く騎士の忠義。王室の品位をこれほど美しく示す物語は、そう多くはありませんわ。セシリア様の描かれたその美しい物語は、間違いなく王国の歴史に残るでしょう。皆様も、そうお思いでしょう」


 令嬢たちの称賛の声がセシリアの周囲で巻き起こる。誰もが自分を称賛し、誰もが自分を第一王子殿下の側妃として認めている。この温かく華やかな茶会の空間こそが、逃げ場の存在しない最も残酷な檻だった。


 リーゼロッテは、冷徹な瞳でセシリアを見据えたまま、最後の問いを置いた。


「セシリア様。貴女も、この素晴らしい結末を心から望んでおいでなのでしょう?」


 王女からの直接の問いかけ。それは第一王子殿下の側妃となることを受け入れよという、第一側妃が望む結末を、セシリア自身の口で認めさせるための問いに他ならなかった。


 セシリアは震える手を膝の上で固く組み合わせ、血が出るほど唇を噛み締めた。否定の言葉は喉の奥で絶望の塊となってつかえ、決して外へは出てこない。口を開けば、レオンハルトが、ヴェルメイユ家が破滅する。


 彼女はただ一筋の涙を頬に伝わせながら、まるで糸を引かれる人形のように、ゆっくりと力なく首を縦に振った。それは同意ではなかった。降伏ですらない。ただ、声を奪われた者が、壊れないために選ばされた動きだった。


「は……はい、第一王女殿下」


 消え入るようなその肯定の言葉は令嬢たちの称賛の声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。ただ一人、至近距離で彼女を観察し続けていたルリカを除いては。


 ルリカの冷たい視線はセシリアの涙に一片の同情も寄せることはない。彼女が読み取ったのは、ただ一つの絶対的な事実だけである。セシリアに権力への欲はない。自ら第一王子へ寄った気配もない。あるのは、レオンハルトへの執着と、今の状況に耐えきれぬほどの絶望だけだった。


 ルリカは銀の盆を胸元に引き寄せ、背後のリーゼロッテへ向けて微かに踵を鳴らし、見極めが終わったという合図を送った。それを受けリーゼロッテは令嬢たちに向けて完璧な微笑みを崩さぬまま、静かにティーカップを傾けた。


 見極めは終わった。セシリアは第一側妃の策によって切り捨てられる生贄に過ぎない。だが、彼女がレオンハルトを愛し絶望しているという事実は、離宮陣営にとって途方もない価値を持つ。


 もしこの絶望の底に沈む令嬢に、泥をすすってでも第一側妃様に牙を剥き、レオンハルトとの未来を勝ち取る覚悟があるのなら、彼女は第一側妃宮とアイゼンガルト侯爵家のあいだに打ち込む楔になり得る。


 秋の陽光が降り注ぐ美しい空中庭園で、第一王女リーゼロッテは冷たい統治者の笑みを、紅茶の香りの奥に沈めた。





6 弱者の流儀と、絶縁の踏み絵


 本宮から離れた、冷ややかな空気が沈殿する離宮の一室。


 分厚い樫の扉が閉ざされた瞬間、第一王女リーゼロッテの顔から、可憐な微笑みが完全に剥がれ落ちた。仮面を外すように、表情から一切の温度が消え失せから一切の温度が消え失せ、現在の離宮の主としての冷たい貌が露わになる。 彼女は水色の豪奢なドレスの裾をためらいなく払い、革張りの椅子へと深く腰を下ろした。


 背後で扉の施錠を終えたルリカが、音もなく歩み寄る。その手にはすでに、本宮での給仕用ではなく、離宮の執務に用いる黒塗りの盆と、冷たく淹れられたハーブティーが用意されていた。


 ルリカの足運びには、先ほどの茶会で見せていた使用人としての従順な気配は微塵もない。あるのは、主の安全と利益のみを絶対基準とする、刃のように研ぎ澄まされた冷気だけである。「お疲れ様でした。とはいえ、あそこまで念入りに整えて、反応を確かめるまでもありませんでしたね」


 ルリカはリーゼロッテの前にティーカップを静かに置きながら、茶会での観察結果を淡々と総括した。その声には、宰相令嬢であるセシリアに対する一切の期待が含まれていない。


「事前調査の段階から予測してはいましたが、典型的な深窓の令嬢です。第一王子への野心や、自ら情勢を操作しようとする打算など皆無。あの反応を見る限り、第一側妃様が何を求めているかすら茶会の席で突きつけられるまで理解していなかった。政治的な闘争において、自分から相手を傷つける手段を持っていません」


 ルリカの分析は冷酷だが的を射ていた。セシリアという少女は、武門でも政争の家でもなく、官僚家の内側で守られてきた令嬢である。 強大な武力や権力に正面から逆らわず、記録と手続きの内側で損害を抑える。それが官僚家系である彼女たちの生存戦略だ。


 圧倒的な権力者である第一側妃様から逃げ場のない圧力をかけられれば、自力で流れを変える手段を持たないのである。




「ええ。野心がないことだけは、完全に確定したわ」


 リーゼロッテは、冷たいハーブティーで喉を潤しながら静かに同意した。 セシリアが自らの権力欲でレオンハルトを裏切ったのではないことは明白である。彼女は少なくとも、自ら望んで婚約者を裏切った者ではないのであり、第一側妃が自身の権威を誇示するために用意した、第一王子周辺へ楔を打つために差し出された生贄だ。


「ならば、切り捨てましょう」


 ルリカの提案に躊躇いは一切なかった。離宮陣営にとって、自力で岸へ向かう意思を示せない溺れた者に構っている暇はない。何より、情勢の損益計算はすでに完了している。


「私たちの真の目的はセシリア様ではなく、アイゼンガルト侯爵家を第一王子周辺から遠ざけることです。そしてその目的は、彼女を見捨てたとしても達成できる」


 ルリカは無表情のまま、冷徹な冷徹な政治上の利害を口にした。もしこのままセシリアを見捨て、第一側妃が彼女を第一王子の側妃として強引に奪い取ればどうなるか。


 レオンハルトは、第一王子の権力誇示という理不尽な理由で、愛する婚約者を無理やり奪われることになる。アイゼンガルト家の第一王子周辺への信頼は致命的な軋轢を生み、大きく損なわれるだろう。


 離宮陣営は、ただ黙って事態を見守り、婚約者を奪われて激怒し、絶望に沈むレオンハルトに手を差し伸べればいい。第一王子周辺への不信と、第一側妃への怒りという明確な動機を与えてやれば、アイゼンガルト侯爵家という強大な武門は、離宮が働きかける余地は生まれる。


「どちらに転んでも、アイゼンガルト侯爵家が第一王子周辺へ疑念を抱く契機は作れます。ならば、わざわざ密告されるリスクを冒してまで、あの深窓の令嬢にこちらから接触を図る必要はありません。危険を冒すより、切り捨てるのが最善です」


 ルリカの言う通りだった。弱者というものは、自分に救いの手を差し伸べる者になびくとは限らない。


 政治的闘争における弱者は、最も近く、最も強く、最も罰を与えられる存在に従うことで自己保身を図る。得体の知れない救いの手に乗るよりも、密告が善悪ではなく、生き残るための最短の服従になるからだ。


 セシリアを見捨てれば、密告の危険がなく軍部へ接触する口実が生まれる。しかし、リーゼロッテはカップの縁を細い指先でなぞりながら、沈黙へと深く沈み込んでいた。


「お姉さまの言う通りよ。安全を期すなら見捨てて、レオンハルト様の怒りを利用するべきだわ。けれど……茶会の最後、完全に逃げ場を失い、第一王子への側妃入りを強要された瞬間に彼女が流した、あの一筋の涙。あれが何に起因するものか、ただ恐怖に従う涙なら、こちらが手を伸ばす価値はない。けれど、奪われた未来への怒りなら、話は変わる」


 リーゼロッテの脳裏に、真っ白になった顔で頬に涙を伝わせたセシリアの姿が蘇る。


 諦めと絶望からくる涙か。それとも、愛するレオンハルトとの未来を理不尽に奪われ、抵抗すら許されない自身の無力さに対する極限の屈辱と怒りの涙か。側妃という言葉に怯えたのか。それとも、自分ではなく婚約者の未来を案じて涙をこぼしたのか。 涙の理由がどちらであるかによって、セシリアの救済対象としての価値は変わる。


 レオンハルトの怒りを利用してアイゼンガルト家へ接触する口実は得られるが、彼はあくまで外の軍事力だ。もしセシリア自身に、泥をすすってでも第一側妃に牙を剥く覚悟があるのなら、彼女を助けることでアイゼンガルト家との交渉材料を得られるだけでなく、第一側妃宮の内部に第一側妃宮の内側から自発的に情報を寄せる者という強力な楔を打ち込むことができる。 得られるものは、彼女を生かして取り込んだ方が遥かに大きい。


「彼女に第一側妃に従わず、自分の未来を選ぶ意志があるかどうか判断がつかない以上、こちらの関与を晒す直接接触は下策。密告された場合の被害が大きすぎるわ」


 リーゼロッテのプラチナブロンドの瞳に、冷酷な光が宿った。 相手が怯えきった弱者であり、密告のリスクがあるのなら、密告されたとしても離宮に一切の被害が及ばない形で、意志だけを確かめる方法を考えればいい。


「お姉さま。セシリア様に、一通の短い手紙を届けて頂戴」 リーゼロッテは机上の羊皮紙を引き寄せ、インクの染み込ませた羽ペンを握った。


「差出人の名前は書かない。筆跡も完全に偽装する。内容は『レオンハルト卿との婚約破棄を回避する術がある。本日の深夜、旧書庫の目録棚に返答を置かれよ。なお、誰にも告げぬこと』というものよ。」 ルリカの目が微かに細められる。それが何を意味する仕掛けか、即座に理解したからだ。


「踏み絵、ですね」「ええ。極めて単純で、残酷な踏み絵よ」


 リーゼロッテは羽ペンを走らせながら、氷のように冷たい声で手紙の効能を解説した。 この匿名の手紙を受け取った時、セシリアに離宮が確認すべき選択は二つに絞られる。


 一つは、この怪文書を第一側妃、あるいは周囲の侍女に報告すること。恐怖に屈し、与えられた運命に従属することを選んだ場合、彼女は間違いなくこの手紙を提出する。もしそうなれば、手紙の主が現れることはなく、離宮の関与を示す証拠は何一つ残らない。 その時点でセシリアは救済対象から外れ、ルリカの進言通り彼女との接触を打ち切り、レオンハルトの怒りを利用する策へと完全に移行する。


 もう一つの選択肢は、手紙の指示通り、深夜に誰にも知られず指定場所へ一人で赴くこと。 第一側妃様の監視の目を盗み、王宮の規則を破り、何が待ち受けているかもわからない暗闇へと自らの足で踏み入るという、深窓の令嬢にとっては命を危険にさらすに等しい恐怖。


【確認:ここはセシリアの覚悟を測る場面として強い。ただし、深夜に一人で赴く行為を“完全な証明”にすると、慎重さや貴族令嬢としての危機管理が悪に見える。後段で「証明」ではなく「接触に値する最低条件」とした方が論理が硬い。→後宮という管理された場所における怪文書で公表されない事実が記載されているのであるから、危機管理というのは当てはまらないでしょう。女性しかいないので】


 それでも一人で来るなら、彼女は少なくとも、誰かに命じられたからではなく、自分の未来を失いたくないから動いたことになる。 もし彼女がその恐怖をねじ伏せ、レオンハルトとの未来を守るという僅かな希望にすがりついて暗闇へ足を踏み入れたなら。


「第一側妃の恐怖よりも、レオンハルト様への愛を優先し、自ら泥をすする覚悟があるという最低限の証明になる。そこまでして足掻く意志があるのなら、密告の危険は許容できるまで下がるわ。私が直接出向き、レオンハルト様とアイゼンガルト家へ事情を届ける経路を対価とした取引を結びましょう」


 書き終えた羊皮紙のインクを砂で乾かし、リーゼロッテはそれをルリカへと差し出した。


 蝋封すらされていない、ただの折り畳まれた紙片。しかしそれは、セシリアの人離宮が彼女へ手を伸ばすか否かを決める、残酷な選別であった。


「手紙はセシリア様が私室を離れている隙に、必ず本人だけが触れる場所へ配置して。そして深夜の旧書庫にはお姉さまが先に潜み、入口、廊下、窓側の退路をそれぞれ確認して。彼女が本当に一人で来たか、あるいは第一側妃宮に報告する者を連れてきたかを監視してちょうだい。もし誰かを連れてきた場合は、そのまま撤収。誰も彼女の前に姿を現さないわ」


「承知いたしました」


 ルリカは手紙を恭しく受け取ると、音もなく懐へと忍ばせた。 離宮の長としての決断は下された。感情による救済ではなく、徹頭徹尾、冷酷な論理と実利に基づいた救済に踏み切る価値の判定。


 王女の茶会という名の試問を生き延びた哀れな令嬢に与えられたのは、慰めではなく、自らの足で歩いて火の粉を被ることを強要する、第一側妃の庇護と監視から離れる踏み絵であった。


「さあ、セシリア様。貴女の流した涙がただの諦めか、それとも第一側妃へ向ける怒りか。その涙の意味を、ご自身で証明して見せなさい」

 冷え切った離宮の一室で、リーゼロッテは月明かりに照らされた窓の外、巨大な権力が渦巻く本宮の方向を見据えながら、静かにそう呟いた。暗闇の中で彼女の思考は、すでに次に確かめるべき事柄へ向けられていた



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