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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第10話前編 『外側4:王女の始動』

1 黄金の誕生と、絡み付く蜘蛛の糸


 王都を包む夜気は、秋の空気から冬の気配をはっきりと感じられるような冷たさをもっていた。


 本宮内奥、極限まで燈火の数を絞られた小会議室には、呼吸すらためらわれるほどの重苦しい静寂が淀んでいる。石造りの壁が夜の冷気を吸い込み、部屋全体の温度を底なしに奪っていく中、分厚い黒檀の机上に置かれた羊皮紙だけが、鈍い蝋燭の光を弾いていた。


 医師の署名が記された出生の記録と、すでに作成を終えた祝賀布告の草案。

 記録の最上段を重い指先で弾きながら、国王ゼノンは低く吐き捨てた。


「黄金の男児、か。……これで盤面が極端に傾いたな。第三側妃派の一強だ」


 深い皺の刻まれたゼノンの横顔に、蝋燭の炎が揺れて濃い影を落とす。その声音に、新たな孫の誕生を祝ぐ祖父の情は微塵もない。玉座という巨大な天秤の揺れを即座に測り直す、統治者としてのひび割れた響きだけが部屋の冷気を震わせた。


 対座する後宮統治の最高責任者、王妃マルガレーテは、微動だにせずその言葉を受けた。石像のように整った氷の横顔には、疲労の色すら張り付く隙がない。


「ええ。極めて不均衡です」


 マルガレーテの静かな声が、冷たい石壁に吸い込まれる。彼女は組んだ指先を口元に当て、机上の羊皮紙へ冷徹な視線を落とした。


「ソフィアはかつて、グラクトの情交奉仕者を務めあげた事実があります。人の内心がどこにあるかなど誰にも見えませんが、その後宮での『事実』がある以上、宮廷の目には、第一王子が実母以上に第三側妃へ精神的に依存しているようにしか映りません」


 窓枠を微かに揺らす夜風の音が、遠くのざわめきのように聞こえる。真実の情など、この石室においては何の価値もない。「そうとしか見えない」という外観こそが、この王宮においては絶対的な権力の源泉となる。空気と噂で呼吸する貴族社会において、第一王子が第三側妃の閨に依存しているという強烈な印象は、すでに覆しがたい前提として宮廷を支配していた。


「そのうえで今、彼女は正統の証たる金髪金眼の男児を得た。このままでは継承の近傍が完全に第三側妃派へ支配されます。問題は、どうやって彼女たちの力と増長を削るかです」


ゼノンが腕を組み、革張りの椅子がきしむ重い音を立てた。

「対抗馬として、第一側妃派を使うか。ゼノビア侯爵家の家職停止を解き、武の柱を戻せば……」


 炎の揺らぎすら切り裂くようなマルガレーテの即答だった。彼女は冷ややかな目を細め、ゼノンの提案を間髪入れずに棄却する。

「今さら武の柱を戻したところで、王子の情という『外観』と、新たな黄金の両方を握る第三側妃派には到底対抗できません。何より、ヒルデガードには過去に暴走した前科があります」


 かつて本宮の統制を無視して動いた第一側妃の狂気が、室内の温度をさらに一段下げたように錯覚させた。

「対抗させるために実力を与えれば、必ずや増長し、後宮の主導権を握ろうとして後宮の均衡を乱すでしょう。かといって、完全に潰して退路を断ってしまえば、今度こそ失うもののない焦燥から、なりふり構わず暴走する危険があります。」


 ルナリアの死、暴走の結果起こってしまった事実を再確認する。第一側妃派を対抗馬とすることはできないと同時に安易に派閥を潰すこともできないという事実を確認し、マルガレーテは言葉を続ける。

「ゆえに、宰相令嬢の教育という実害のない『権威』をあちらへ与えることを許したのです。第一側妃宮を単なる教育機関として箔付けし、面目だけを保たせて大人しくさせる。それが現状の最善です」


「……手札にはならない、ということか」

 ゼノンは忌々しげに息を吐き、額に手を当てた。権威という名の檻に閉じ込めるのが精一杯であり、盤面を動かす駒としては使えない。


 マルガレーテは姿勢を崩さぬまま、静かに第二の案を提示した。

「第三側妃が独占している『情』の外観を崩すには、第一王子を新たな派閥へ組み込むしかありません。内務卿たるメルカトーラ侯爵家の令嬢ユスティナを、第一王子の側妃に据えるというのはいかがでしょう」


 蝋燭の炎がふっと細くなる。新たな側妃候補を横に置くことで、物理的・派閥的な外観を強制的に書き換える。同時に、官僚機構を丸ごと第一王子の継承基盤として組み込むという、極めて合理的な提案だった。


 だが、ゼノンは重い首を縦には振らなかった。彼の脳裏をよぎったのは、黒髪の第二王子の姿だった。

「内務卿が執心しているのは、リュートの方だろう。それに……リュート自身がどう動くかだ」


 その名が出た瞬間、室内の空気が明らかな緊張を孕んだ。マルガレーテの氷のような表情にも、微かな、だが確かな警戒の皺が寄る。

「ええ、そこが最大の懸念です」


 彼女の吐息が、夜の冷気に白く混じるかのようだった。

「あの者は、盤面の理を容易く引っくり返す得体の知れぬ変数です。現在、学園でグラクトの補佐に回っているようですが、その真の目的は不透明。安易に内務卿の娘に手を出してリュートを敵に回せば、王宮の制御を超えた致命的な火種になりかねません」


「結論として、今は大掛かりな手は打てず、現状維持にせざるを得ないということだな」

 ゼノンは机上の出生届へ視線を落とし、静かに羽ペンを握った。羊皮紙の上を走るカリカリという乾いた音が、手札を封じられた王の焦燥を代弁するように響く。


「妥協案として、第三側妃派の増長だけは抑え込む。出生は正式に認め、ソルディ・シンバ・ローゼンタリアと名も与える。だが、継承順位については一切言及しない。祝賀の体裁だけを整え、王位への含みを完全に封じる」


「承知いたしました。学園の動向を静観しつつ、それ以上の権力は渡さないよう私から釘を刺しておきましょう」

 王宮に歓喜をもたらすはずの黄金の誕生は、ただ精緻な均衡を破壊しただけだった。有力な手札をすべて封じられている王と王妃が、深い夜の底で下した結論は、消去法による「冷徹なる現状維持」でしかなかった。


 


2 王女の始動


その夜。本宮から物理的にも政治的にも切り離された離宮の一角――リュートから与えられたリーゼロッテの私室には、本宮の重苦しさとは質の違う、冷たく研ぎ澄まされた静寂が満ちていた。


 窓の隙間から入り込む秋の夜風が、分厚い羊皮紙の束をかすかに揺らす。机上に置かれた魔導ランプの淡い光が、かつてルナリアから譲り受けた調度品を鈍く照らしていた。


「王妃殿下は、あの人が自分の価値を疑わない人間であるということを少し甘く見積もりすぎているようですわね」


 プラチナブロンドの髪が月光を受けながら、リーゼロッテは王都の劇場で配布されているという二冊の小冊子を指先で弾いて言った。


 彼女は、己を産んだ実の母を「あの人」と呼んだ。ルナリアを暗殺した第一側妃ヒルデガードを母と呼ぶ気も、それを見て見ぬふりをした実兄グラクトを兄と呼ぶ気も、今のリーゼロッテには微塵もない。彼らは血の繋がっただけの他人であり、政治的敵対者に過ぎなかった。


 部屋の暗がりには、離宮の実力執行を担う長女、ルリカが音もなく控えている。呼吸音すら一切させないその佇まいは、夜の闇と同化する一振りの刃のようだった。


「報告書を見る限り、黄金の男児誕生により第三側妃派が極端に後宮への影響力を強めました。対して、実家のゼノビア侯爵家を家職停止で失い、第一王子という実子まで第三側妃の影響下にあると見られている第一側妃にとっては、これほどの権力喪失の恐怖はないはずです」


「ええ。だからこそ、第一側妃様は動いたのよ。この純愛劇の流行は、単なる民の慰撫などではないわ」


 リーゼロッテは、王子と行儀見習いの献身的な恋を描いた劇の内容の書かれた小冊子を手にとった。


「1作目の狙いは、行儀見習いが第一王子殿下に恋愛感情を持っているという暗示ですわ。現実のグラクト殿下とセシリア様の関係を匂わせ、現状の両思いにみえる状態を民衆に錯覚させる。王家に対する著作の責任を持つ宰相は、これをただの創作による王子の人気取りだと侮ったのでしょう。影響力を評価せず、王家も重要視しなかったので、この2作目の公開を許してしまったのよ」


 次に彼女が手を伸ばしたのは、新たに公開された2作目の小冊子だった。


「2作目の内容は、行儀見習いの婚約者が身を引き、王子の婚約者が側室を認めるというもの。これは宰相令嬢セシリア様の婚約解消と、第一王子殿下への側妃入りを暗示しているのでしょう。1作目は創作で通せても、2作目は現在のヴェルメイユ侯爵家やアイゼンガルト侯爵家の状況と酷似しすぎているわ。王都の民衆も、セシリア様自身が婚約解消を望んでいると1作目と同じ様に熱狂するでしょう」


「第一側妃お抱えの劇団が、これほど内情に肉薄した劇を公開している。第一側妃が制作に深く関与しているのは確実ですね」


 報告書をに視線を落としながら指摘するルリカに対して、冷たい笑みを浮かべた。


「ええ。第一側妃様の目的は、自らの息の掛かったセシリア様を第一王子殿下の側妃に据えること。それによって、結局は第一王子派の最大の後ろ盾は実母である第一側妃派であると内外に見せつけ、第三側妃派から影響力を落とすことよ」


 それは王家の威信や息子の人生すら、自身の権威を誇示のための道具としてしか考えていない者の権力闘争の方法であった。


「問題は、当事者であるセシリア・ミント・ヴェルメイユが、この劇の意図にどこまで関与しているかです」


 ルリカが闇の中から静かに本質を突いた。


「劇の内容は、宰相家の内情と一致する場面が多すぎます。第一側妃の主導であっても、セシリア様自身から情報が提供されている可能性が高いので、少なくとも劇の制作には彼女自身が関与しているはずです」


「そうね。だから、彼女の現在の意志は三つの可能性に分けられるわ」


 リーゼロッテは冷たい机上に、三本の指を立てた。


「考えるべきは三つ。一つ目は、野心。完全に第一側妃様に同意し、自ら側妃の座を狙っている場合。二つ目は、劇の制作自体には同意したが、第一側妃様の真の目的までは分かっていない場合。そして三つ目は、第一側妃様に弱みを握られ、無理やり協力させられている場合」


「いずれにせよ、セシリア様の認識はどうであろうと、民衆の熱狂という支持が形成されつつある以上、セシリア様の婚約解消は民衆の間では既成事実化されることは時間の問題です。婚約破棄しても誰の品位も傷つけないという外堀は完全に埋められましたね」


 冷徹な分析が一段落すると、ルリカはわずかに首を傾け、リーゼに実利を問うた。


「第一王子殿下が第一側妃派に取り込まれようと、我々離宮には無関係です。この件に介入する利益はありますか?」


 ルリカにとって、この世の価値基準は弟妹の安全のみである。第一王子の側妃問題など、本宮の権力闘争の延長に過ぎない。しかし、リーゼロッテは夜空に浮かぶ月を見据えたまま、静かに首を振った。


「第一王子殿下に側妃ができようが、誰の派閥に属そうが知ったことではないわ。所詮、あの人の考えられる範囲は後宮内のことだけ、自分の感情を満足させること、この場合、第三側妃の後宮への影響力が気に入らないだけなのよ」


 第一側妃に侮蔑の情を隠すことなく、リーゼはそれが王家、ひいては王国全体にどのような影響を及ぼすかを推測する。


「それでも、無視できないのは、第一側妃が動いた結果による影響を全く考慮しない視野の狭さにあるの。あの人の行動はセシリア様という個人ではなく彼女の背後にいる武門のアイゼンガルト侯爵家も巻き込むことになる」


 リーゼは窓の外の月明かりを眺めながら、離宮の現状から抗えない絶対的な暴力が最も不足している事実を再認識する。


「軍部元帥アイゼンガルド侯爵家がセシリア様との婚約破棄に不満を持てば政局の予想がつかなくなる。いまだ北の守護者アイギス公爵家、家職停止中とはいえ近衛騎士団長家ゼノビア侯爵家が離宮勢力側とはいえない以上、アイゼンガルド侯爵家の行動次第では軍部全体が動揺を招く可能性もある。現状、対抗できる武力のない私たちでは対処が後手に回ってしまう。この情勢の不透明さを回避するためにもアイゼンガルド侯爵家には動いてほしくないの」


 その言葉に、ルリカの気配が僅かに鋭さを増した。


「セシリア様がアイゼンガルド家との婚約を望み、私たちがそれを叶えて離宮勢力に引き込むことができれば、必要なときにアイゼンガルド侯爵家をこちらに引き込む下地となる、と」


「ええ。逆に、彼女が第一王子殿下への野心を持っているのなら、アイゼンガルド侯爵家の不満を利用して静かに離宮勢力へ引き込むことになるわね。離宮としては、彼女がどちらに転んでも構わないわ」


 リーゼは他者の人生を重さとして量ることを、自分に課している。それを醜いと知りながらも、それが離宮を守る者として目を逸らせないものであるから。


「だからこそ、セシリア様の現在の意志を見極める必要があるわ」


「直接接触して、問いただしますか」


「いいえ、まだ早い。もし彼女が野心から動いている場合、私たちが直接接触すれば、離宮が本宮の動向を監視し、介入の機を窺っているという情報をあの人に与えるだけになるわ」


 リーゼロッテは窓辺から離れ、冷たい笑みを深めた。


「だから、まずは多数の令嬢を招いたお茶会を開くの。王都の流行に敏感な令嬢たちを集め、彼女たちの口からこの2作目の劇の噂を語らせる。このときのセシリア様を私たちは主催者として、その反応を観察すればいいわ」


 離宮の思惑を何一つ晒すことなく、後宮内の悪意を利用して対象の思惑を測る。帝国第二皇子と互角の論理を交わし、離宮の顔として王都の裏を管理する王女にとって、茶会とは優雅な社交の場ではなく、冷酷な試問の場に等しかった。


「その観察結果によって、私たちが直接接触する価値があるかどうかを判断する。もし彼女が、ただ状況に絶望して何の意志ももたず流されるようなら、お姉さまの言う通り切り捨てて、アイゼンガルド侯爵家の動静を注視します。ですが……もし彼女が、血を流してでもレオンハルト卿との婚約を守ろうと抗う意志とそれに伴う責任を見せるなら、彼女を拾うことも考えましょう」


「承知いたしました。参加者の選定と招待状の準備を進めます。座席と話題の誘導は」


「わたくしが考えますわ」


 ルリカが闇の中で静かに頭を下げる気配を感じながら、リーゼロッテは再び手元の資料へ視線を落とした。


「セシリア様が自力でこの罠を食い破る意志があるか、それともただ状況に流されるか。彼女が自分の意志を持っているかを見定めさせてもらうわ」




3 生贄のドレス


 第一側妃宮でセシリアに与えられた私室は、宰相令嬢である彼女の身分に相応しく、選び抜かれた調度品で整えられていた。だが、今の彼女にとって、この美しい部屋は息の詰まる牢獄でしかなかった。


 豪奢な天蓋ベッドの端に腰掛けたセシリアの指先は、小刻みに、そしてどうしようもなく震え続けていた。手の中には、王家の紋章を押した封蝋つきの招待状が握られている。上質な羊皮紙の滑らかな感触すら、今の彼女には逃げ道を塞ぐ冷たい命令書のように思えた。


『第一王女リーゼロッテより、秋の茶会への招待状』


 その文字を目にした瞬間から、セシリアの心臓は早鐘のように鳴り続け、冷や汗が背筋を伝い落ちている。招待状には、王都で評判の劇について令嬢たちと言葉を交わしたい、と丁寧な文字で記されていた。


 第一王女リーゼロッテ。セシリアは行儀見習いとしてこの宮に上がってから、彼女と個人的な言葉を交わしたことなど一度もない。それなのに、なぜ突然、劇の感想を語る茶会の中心に据えられるような形で招かれたのか。


 考えを進めるほど、思考は同じ結論へ沈んでいく。その奥から、数日前に見た第一側妃ヒルデガードの微笑みが浮かび上がった。


『王家の品位を高め、民の心を慰撫した貴女の献身に、心から感謝しますわ。もちろん、賢い貴女なら……これが何を意味しているか、お分かりでしょう?』


 セシリアには、ようやく見えた。王都を熱狂させている劇は、単なる第一王子の人気取りなどではない。あれは、セシリアとアイゼンガルト家との婚約を、しかも、その形を取れば、誰も第一側妃が命じたとは言わない。セシリア自身が望まれ、祝福され、頷いたのだと語られる。



 気づいた時には、レオンハルトと交わした未来の約束は、民の祝福という名の声に押し流されようとしていた。レオンハルトとのささやかで確かな未来を夢見ていたセシリアの希望は、第一側妃の後宮を支配する権威と、王都に広がる熱狂の前に、無惨にも踏み躙られたのだ。


 絶望と焦燥で、呼吸が浅くなる。この招待状こそ、逃げ道を閉ざす最後の封蝋だったのだ。


 リーゼロッテ王女は、ヒルデガードの娘である。ならば、この茶会も第一側妃の意思が介入しているに決まっている。王都の流行に敏感な令嬢たちが多数集まるその席で、セシリアは衆目の前で、側妃となることを望んでいると受け取られる言葉を引き出されるのではないか。そして、黙っていれば、恥じらっているのだと笑われる。否定すれば、王家の品位を傷つけたと咎められる。


 恐ろしい。行きたくない。だが、王女からの招待を断ることなど、侯爵家の娘であっても、今は第一側妃宮に仕える行儀見習いに過ぎないセシリアには許されない。かといって、青ざめた顔のまま茶会へ出れば、それもまた、王女の茶会に相応しくない振る舞いとして咎められる。


 進むことも退くことも許されない。セシリアは、見えない糸で四方を縫い留められたように、ただ震えるしかなかった。


   ◇


 茶会当日、ノックの音すらなく、私室の重厚な扉が開かれた。


「まあ、随分と顔色が優れませんこと。これから華やかなお茶会へ向かうというのに」


 部屋に入ってきたのは、数人の侍女を従えた第一側妃ヒルデガードだった。彼女が足を踏み入れた瞬間、濃厚な薔薇の香水の甘さの奥に、逆らうことを許さない後宮の力が滲んでいた。


 セシリアは弾かれたように立ち上がり、震える膝を必死に押さえつけて深く頭を下げた。


「だ、第一側妃様……」


「リーゼロッテからの招待状はもう届いておりますね。もちろん、私の方で先に文面は改めさせてもらいました。」


 ヒルデガードは、セシリアの手にある招待状を一瞥し、優雅な笑みを深めた。彼女にとって、娘のリーゼロッテなど、自らの顔色を窺うだけの従順な娘でしかなかった。この茶会の開催すら、母である自分の意思を汲み取って開いた、気の利いた社交に過ぎないと見なしている。


「あの子も、やがては帝国へ嫁ぐ身。王宮を離れる前に、いずれグラクトの側妃としてこの宮を支えることになる貴女と、友好的な関係を築いておきたいのでしょう。姉妹となる者同士、良い機会ではありませんか」


 その言葉に、セシリアの顔からさらに血の気が引く。ヒルデガードの口ぶりは、セシリアがグラクトの側妃になることを、もはや覆るはずのない定めとして扱っていた。


「第一側妃宮を代表して王女の茶会へ赴くのです。そのような行儀見習いの地味な装いでは、第一側妃宮の品位に関わります。着替えなさい」


 ヒルデガードが指を鳴らすと、控えていた侍女たちが一斉にセシリアを取り囲んだ。


 拒絶する間もなく、侍女たちの手がセシリアの簡素なドレスを解いていく。代わりに彼女の身体に押し当てられたのは、行儀見習いが着るような代物ではなかった。上質な絹に金糸と深紅の刺繍を重ねた、第一側妃宮の威をそのまま身にまとわせるようなドレスだった。それは明らかに、それは明らかに、彼女を第一王子の側妃候補として周囲に示すための、呪いのような衣装だった。


 コルセットが限界まで締め上げられ、セシリアは小さく呻き声を漏らす。だが侍女たちの手は止まらない。首元には宝石のネックレスが掛けられ、結い上げられた髪には、重い髪飾りがいくつも挿し込まれた。その重さが、第一側妃宮という権力そのものとなって、セシリアの肩と首にのしかかった。


「……とても、美しくてよ。宰相令嬢」


 着飾られ、身動きすら満足に取れなくなったセシリアの背後に、ヒルデガードが音もなく歩み寄った。鏡越しに目が合う。ヒルデガードは冷たい美貌に笑みを浮かべたまま、セシリアの耳元へ顔を寄せた。


「貴女は今日、誰よりも幸福な女性として、あの茶会で微笑むのです。王家の威信を高める純愛劇の主人公として、令嬢たちの羨望を一身に浴びてきなさい」


 耳元に落ちる甘やかな声音は、猛毒を含んだ絶対の命令だった。


「もし……貴女が茶会の席で、その美しい顔に少しでも暗い影を落とすようなことがあれば。それは王家の品位に泥を塗る、許しがたい反逆です」


 ヒルデガードの冷たい指先が、セシリアの首元に飾られた宝石をゆっくりとなぞった。ぞくり、とセシリアの全身に鳥肌が立った。


「貴女の振る舞い一つで、お父上である宰相閣下の立場も、そして……貴女が大切に思っているアイゼンガルトの若き騎士の将来も、どうとでも変わってしまうということを、賢い貴女なら理解していますわね?」


 それは、レオンハルトの名と未来を握っているのだと告げる、明確な脅しだった。本来なら、第一側妃が軍部元帥家の嫡男の未来を直接握れるはずなどない。だが、今のセシリアには、その当然の距離を測る余裕がなかった。王家の品位、宰相家の立場、第一側妃宮の圧力。そのすべてが一つに重なり、レオンハルトの名を押し潰すものに思えた。


 セシリアの目から、恐怖と絶望の涙が溢れそうになる。だが、それすらも許されない。泣けば化粧が崩れ、ヒルデガードの不興を買う。彼女は必死に唇を噛み締め、引き攣った顔で、ただ人形のように頷くことしかできなかった。


「……は、はい。第一側妃様……」


「よろしい。では、行ってらっしゃい」


 ヒルデガードの満足げな声に見送られ、セシリアは重い足取りで部屋を後にした。


 華美なドレスは鎧ではなく、彼女を逃がさないための檻だった。首を飾る宝石は、祝福ではなく、生贄に掛けられた首輪に思えた。彼女はこれから、祝福される令嬢の姿をした生贄として、第一王女の茶会へ向かう。


その先で待っている王女が、ヒルデガードの道具ではなく、別の冷たさで彼女の意志を試す者であることなど、セシリアにも、ヒルデガードにも、知る由はなかった。



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