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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第9話後編 『外側3:絶望の転換』

7 側妃という盤面構築


 白薔薇の間での謁見を終え、第一側妃ヒルデガードは自らの宮の最奥、厚い扉に閉ざされた私室へと帰還した。


 人払いを済ませた部屋で、精緻な刺繍が施された長椅子に深く身を沈め、侍女に注がせた赤ワインのグラスを指先で弄ぶ。


「……つつがなく、事が運びましたわ。わたくしたちの謝罪とセシリアの振る舞いが、予定通りに王家からの『承認』を引き出しました」


 王妃マルガレーテが下した『これまで通りの許可でよい』という裁定。それはヒルデガードがゼノビア家失脚の件で重ねた恭順な謝罪と、セシリアの非の打ち所のない対応によって徹底的に隙を消し、誘導したごく当たり前の結果であった。


 王妃はセシリアの綴った物語を架空の創作物として割り切り、純粋に王家の品位を高める有益な演目であると認めた。現実のセシリアの婚約事情と架空の舞台を切り離して考えるのは、統治者として極めて真っ当で合理的な判断である。


 だが、王宮の人間は現実と物語を切り分けているが、熱狂する大衆はそうではない。王妃が下したその公式な承認こそが、ヒルデガードの最大の武器となる。


 新宰相を罠に掛け、絶対に逆らえない令嬢として奪い取ったセシリア。王都の民は、舞台の原案者である彼女を「第一王子を陰から支える清らかな令嬢」として現実と混同して熱狂的に支持し、さらに王妃の裁定がその熱狂にお墨付きを与えてしまった。


 この巨大な実績を纏った今、セシリアの使い道は第一側妃宮の権威の底上げといった枠には収まらない。


 現在の第一王子グラクトという神輿の主導権は、第三側妃ソフィアに奪われている。


 セシリアをグラクトの側妃として盤面に据える。それは、宰相府という国家の最高実務機関の絶対的な従属と、民意が熱狂的に支持する象徴を、グラクトの目の前に物理的な力として突きつけるということだ。これほどの支持基盤を得れば、主導権は間違いなくヒルデガードの手に引き戻される。


 セシリアを側妃に押し上げるための直接的な障害は、盤面上にただ一つ。彼女の現実の婚約者である軍元帥・アイゼンガルト侯爵家である。


 この強固な盟約を破棄させなければ、セシリアをグラクトの横に据えることはできない。ヒルデガードは、大衆が熱狂する舞台の続編(第二幕)を利用し、彼らに自ら婚約を辞退させる「品位という名の圧力」を掛けることを決めた。


 だが、続編を作る上で、処理しなければならない致命的な問題がある。大衆が熱狂している『架空の物語』と『現実』の間に生じる齟齬だ。


 一作目の舞台は「高貴な青年と令嬢の隠された純愛」だけを描いたものだ。だが現実のグラクトには、すでに正式な婚約者として王妃教育を受けている四大公爵家令嬢、ヴィオラリア・オルネ・クロムハルトが存在する。


 このまま物語の中で青年王子に「正妃」が存在しない純愛悲恋として話が進めば、大衆はいずれ「現実の第一王子には公爵令嬢がいるのに、なぜ物語には出てこないのか」という違和感を抱き、物語の熱狂と現実のリンクが切れてしまう。


 民の熱狂をグラクトの権威へ完全に結びつけるためには、ヴィオラの存在を物語の方に組み込み、現実の構造に合わせてしまえばいい。


 続編の脚本に、現実との齟齬を埋めるための配役として、ヒロインの「別の婚約者」と、青年王子の「正妃」を登場させる。その上で、ヒロインの婚約者アイゼンガルトには同調圧力を掛けて身を引かせ、正妃ヴィオラには物語の結末を支える完璧な役割を与えるのだ。


 ヒルデガードは、グラスに残った真紅のワインを一息に飲み干した。大衆の願望という濁流を利用し、現実の盤面を完全に支配する戦略の構築が、完了しようとしていた。


 ◇


 深夜。第一側妃宮の奥深く、重厚な絨毯が足音を吸い込む執務室。


 壁一面を覆う本棚の影に、舌の裏に絶対服従の魔紋を刻まれた代筆役の侍女が音もなく控えている。魔法契約によって秘密の漏洩が物理的に封じられているからこそ、ヒルデガードはこの部屋で自身の謀略を本音のままに指示することができる。


「王都の民は、あの純愛の行く末を熱に浮かされたように待ち焦がれております。……さあ、急ぎ続編の脚本を書き上げなさいな」


 豪奢なマホガニーの机に肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せたヒルデガードが、静かな、しかし有無を言わせぬ優雅な声音で命じる。


「続編では、令嬢の『現実』の障害と齟齬を、物語に組み込みます。令嬢には家の決定で結ばれた別の婚約者がおり、青年にもまた、すでに正妃となるべき高位の婚約者がいるという事実をね」


 侍女は無言で深く頭を下げ、分厚い羊皮紙へ向かって素早く羽ペンを執った。

「お伺いしたい点がございます、第一側妃様。その婚約者たちは、二人の恋路を邪魔する欲深い悪役として描けばよろしいでしょうか」


「いいえ。登場人物に、悪役など一人も必要ありませんわ」

 ヒルデガードは即座に、そして優やかに否定した。


「考えてもみなさい。もし青年の婚約者を悪役として描けば、大衆の間に『王子の婚約者は、側妃をいじめる欲深く性格の悪い女だ』という偏見が定着してしまいますわ。継母が連れ子をいじめるという、くだらない童話の価値観のようにね」


 大衆の熱狂は、容易く社会の共通認識へと変わる。


「そのような価値観を世に広めれば、現実の婚約者である公爵令嬢にあてこすりをしているも同然です。わたくしたちからクロムハルト家に、不必要で無益な喧嘩を売ることになってしまいますわ」


「……左様でございますね。では、正妃役はどのように」


「青年の婚約者は、二人に排除される悪役であってはなりません。二人の純愛に賛同し、共に国を支える気高き『同志』となるのです」

 硬い羽ペンが羊皮紙を引っ掻く乾いた音だけが、深夜の執務室に響き続けた。


「令嬢の婚約者役の男は、二人の純愛がどれほど王家の品位を高めているかを悟り、自ら身を引き婚約の解消を申し出る。そして、正妃役たる女性は、嫉妬など微塵も見せずに進み出て、微笑みながらこう告げるのです。『王家の品位を支える純愛をこの私が承認し、貴女を側妃として歓迎いたしましょう』と」


 誰も悪役にならず、不当に傷つけられない。登場するすべての人間が『王家の品位』という絶対の美徳に従って行動する。それこそが、この国の民衆が最も愛する物語の定型である。


 大衆がその結末を最も美しい美談だと信じた時、現実のアイゼンガルトが婚約維持に固執すれば、彼らは「王家の品位のために身を引くことすらできない見苦しい家門」という烙印を押される。大衆の熱狂は、現実のアイゼンガルト家に向けられた決して逃れられない『同調圧力』となるのだ。


 一方で、公爵令嬢であるヴィオラは王妃教育を受けた理知的な令嬢であり、有益な側妃を拒む理由など最初から持っていない。正妃役に『究極の慈愛と品位の体現者』という絶大な賛美を与えておけば、公爵家は社会からの称賛を受け取るため、喜んでセシリアを側妃として歓迎する立場を取る。


 アイゼンガルト家には「同調圧力」という名の刃を突きつけて排除し、公爵令嬢には「究極の名誉と同志の座」という対価を与えて盤面に協力させる。


 大衆が望む最も美しい物語の役を配役に強引に被せ、自らの品位を守るためにはその役通りに動くしかない盤面を作り上げる。それが第一側妃の洗練された政治闘争の作法であった。


 硬い羽ペンが羊皮紙を引っ掻く乾いた音だけが、止まることなく響き続けていた。




8 盤外の茶会


 第二幕の幕が上がってからわずか数日で、王都の空気は第一側妃ヒルデガードが計算した通りの、いや、それ以上の熱を帯びた狂乱へと変貌していた。


 白薔薇の宮の執務室。ヒルデガードは、密偵から上がってきた王都の市井や社交界の反応を記した報告書を、優雅な手付きで一枚ずつめくっていた。その唇には、冷徹な計算が完全に的中したことへの、隠しきれない満足の笑みが浮かんでいる。


「……見事なものですわ。大衆というものは、自らが信じたいと願う美しい虚構には、こうも容易く現実の理を明け渡すのですね」


 報告書に記されているのは、舞台の続編に対する熱狂的な賛辞の数々であった。


 特に大衆の心を打ち、最も多くの涙を誘ったのは、ヒロインの婚約者役の男が下した「決断」の場面である。王子の純愛と、それがもたらす王家の品位の高まりを前に、己の個人的な愛情や家門の実利を捨てて身を引く男の姿。それは、大衆の目に「王家に仕える貴族として、これ以上ない究極の忠義と品位の体現」として映った。


 問題は、大衆がその「架空の忠義」を絶賛すればするほど、彼らの中で一つの明確な評価基準が完成してしまうことである。


 すなわち、「真に品位ある忠臣ならば、あの舞台の男のように、王家の純愛のために身を引くのが当然である」という、絶対的な同調圧力の形成である。


 ヒルデガードは、この比較構造こそを最大限に利用する腹積もりであった。


 大衆が舞台の婚約者役を「理想の忠臣」として褒め称えれば称えるほど、現実のアイゼンガルト家に対する要求のハードルは跳ね上がる。もしこの状況下で、現実のアイゼンガルト家がセシリアとの婚約維持を強硬に主張すればどうなるか。


 大衆は必ず、舞台の高潔な男と、現実のアイゼンガルト家を比較する。そして、「舞台の男は立派に身を引いたというのに、現実のアイゼンガルトは己の家の利益にしがみつき、王家の品位を高める純愛を妨げている欲深い家だ」という烙印を押すのだ。


 武門の頂点に立つ名門にとって、「王家の品位を妨げる強欲な家」という社会的な汚名は致命傷となる。ヒルデガードの狙いは、物理的な脅迫ではなく、この「比較による品位の失墜」という恐怖をアイゼンガルト家に意識させ、自ら盟約を手放すよう追い詰めることにあった。


 さらに、この熱狂はセシリア自身の評価をも劇的に押し上げていた。


 第一側妃宮で「行儀見習い」として過ごすセシリアの振る舞いは、完璧であった。王宮内ですれ違う貴族や使用人たちに対し、常に目を伏せ、控えめで、誰に対しても慇懃な態度を崩さない。その従順で美しい姿は、あっという間に王宮の内外に知れ渡り、「舞台の清らかなヒロインそのままの令嬢だ」という噂にさらなる信憑性を与え、理想の主人公としての彼女の評価は爆発的に高まっていた。


「外堀は完全に埋まりました。あとは、アイゼンガルトという巨城が、大衆の熱狂という見えざる水圧にいつまで耐えられるか……見物ですわね」


 ヒルデガードは報告書を机に置き、冷えた赤ワインで喉を潤した。盤面の支配は、極めて順調に完了しつつあった。


 ◇


 一方その頃。王宮の思惑など及ばぬ、王都の一等地に構えられたある侯爵家の豪奢なサロンでは、高位貴族の夫人たちが集う優雅な茶会が開かれていた。


 軍元帥たるアイゼンガルト侯爵は、地方軍の視察と編成のために王都を離れ飛び回っている。そのため、王都における家門の社会的な影響力を維持し、社交界の空気を探る役割は、当主の妻であり次期当主レオンハルトの母であるアイゼンガルト侯爵夫人に委ねられていた。


 建国当時からの盟友であるヴァルメイユ侯爵夫人と並んで長椅子に腰を下ろす彼女の耳にも、最近社交界を席巻している「劇団の舞台」の噂は、嫌というほど届いていた。


「……それにしても、最近の王都の者たちは、あの劇団の話題で持ちきりですわね」


 精巧な細工が施されたティーカップを置きながら、アイゼンガルト侯爵夫人は微笑み、隣に座る長年の盟友へと視線を向けた。


「ええ。うちのレオンハルトの未来の妻が、王家の威信を高めるために素晴らしい働きをしてくれていると、専らの評判ですわ。ねえ、ヴァルメイユ侯爵夫人」


「本当に。あの子が原案を執筆した物語が、これほどまでに王都で評価されるとは。代々宰相を務める我が家門にとっても、親としても、鼻が高いですわ」


 セシリアの実母であるヴァルメイユ侯爵夫人は、扇の奥で誇らしげに目を細めた。


 二人の表情に、危機感や焦りは微塵も存在しなかった。アイゼンガルト家とヴァルメイユ家は、長きにわたり血と鉄で王家を支えてきた強固な同盟関係にあり、その立ち位置はあくまで「中立たる王妃派」である。大衆がどれほど熱狂しようと、彼女たちにとってあの舞台は「第一側妃が主導する、王家のための有益な広報」に過ぎないのだ。


 その確信を裏付ける明確な事実があった。セシリア本人からアイゼンガルト侯爵夫人宛てに定期的に送られてくる、手紙の存在である。


 そこには『第一側妃様には、未来の侯爵夫人として恥じぬよう、厳しくも優しくご指導いただいております』『先日も、わたくしの綴った物語が国威発揚に寄与したと、国王陛下や王妃様より直接お褒めの言葉を頂戴いたしました』と、極めて真っ当な近況が記されていた。


 高位貴族である彼女たちからすれば、この状況は極めて論理的に説明がつく。


 当主である宰相の判断により、セシリアが第一側妃の宮に入れられたのは、彼女の文才を利用して王家の権威を高めるためである。王家からの承認を得ている以上、それは統治機構の正式な活動であり、セシリアはその職務を立派に果たしている。そして手紙の通り、彼女は第一側妃の下で、軍務と内政の要である両家の架け橋となるための教育を順調に受けている。


 現実の婚約と、広報活動としての架空の物語。この二つを混同するなど、政治の裏側を知る高位貴族からすればあり得ないことであった。


「あら、アイゼンガルト侯爵夫人、ヴァルメイユ侯爵夫人。ご機嫌麗しゅう」


 和やかな空気を縫うように、第三側妃派の重鎮たるセラフィナ侯爵夫人が近づいてきた。現在、第一王子を囲い込み権勢を振るう派閥に属する彼女の目には、対立や敵意ではなく、静かな「探り」の光が宿っていた。


「わたくしも先ほど、話題の舞台の続編を観劇してまいりましたの。……ヒロインの婚約者である騎士が、王家の品位のために自ら身を引き、婚約を解消する場面には、誰もが涙しておりましたわ」


 セラフィナ侯爵夫人は、周囲の夫人たちにも聞こえるよう、穏やかだが確かな意図を持って言葉を紡ぐ。


「街の者たちは、口々に言っております。現実のセシリア様の婚約者であるレオンハルト卿も、舞台と同じように立派な『ご決断』をなされるのだろうと。……ねえ、アイゼンガルト侯爵夫人。あの美しい物語の結末は、いずれ現実のものとなるのかしら?」


 茶会の空気が微かに張り詰める。


 それは単なる世間話ではない。セラフィナ侯爵夫人にとっての最大の懸念――「軍部と内政のトップである中立の両家が、自らの婚約破棄という実害を受け入れてまで、第一側妃派に付くつもりなのか」という、極めて高度な政治的立ち位置の確認であった。


 周囲の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、アイゼンガルト侯爵夫人は表情一つ変えず、優雅な所作でティーカップを持ち上げた。


「……おかしなことをおっしゃいますのね、セラフィナ侯爵夫人」


 凛とした、しかし冷ややかな威圧感を伴う声がサロンに響く。


「貴女ともあろうお方が、市井の民のように現実と虚構の区別もつかなくなってしまわれたのですか?」


 一切の隙のない反論に、セラフィナ侯爵夫人は微かに扇を傾ける。アイゼンガルト侯爵夫人は、静かに、だが明確な政治的論理で言葉を畳み掛けた。


「あの舞台は、我が息子の婚約者であるセシリアが王家の威信を高めるために執筆し、国王陛下ならびに王妃様が公式に承認された『芸術』ですわ。統治を支えるための気高き国威発揚の演目に、個人の私情や現実の盟約を重ね合わせるなど、承認を下された両陛下に対する不敬に他なりません」


 中立・王妃派としての、完璧な防壁であった。「王家の承認」という絶対の盾を持ち出した上で、自らの家が第一側妃派に与するような裏の意図は一切ないと、明確に切り捨てたのだ。


「セシリアは、武門の妻となるための教育を日々懸命に受けております。彼女の才能が王家の役に立っていることは、両家にとっての誇り。……わたくしたちは王妃様のご承認の下で務めを果たしているだけであり、それ以上でも、それ以下でもありませんわ」


 その言葉の真意を悟り、セラフィナ侯爵夫人は内心で深く安堵した。


 両家は第一側妃の軍門に下ったわけではない。あくまで王妃の承認を通した「王家全体の利益」として協力しているだけだ。


 何より、王妃が公式に「有益な創作物」として承認した以上、王家側から「あの物語通りに婚約を破棄して側妃になれ」と強要することは絶対にできない。そのような真似をすれば、王家が自らの前言を翻したことになり、王家の品位を致命的に汚すからだ。第一側妃が品位を武器にする以上、自滅となるその手は打てない。


 ならば、第三側妃派の優位になんら陰りはなく、第一側妃を警戒する必要はない。


「……左様でございますね。わたくしとしたことが、美しい物語に少し熱に浮かされていたようですわ」


 セラフィナ侯爵夫人は、心からの余裕を取り戻した笑みを浮かべ、優雅に身を引いた。その背中を見送りながら、ヴァルメイユ侯爵夫人が扇で口元を隠し、小さく息を吐く。


「痛快な切り返しでしたわ。それにしても、あのように舞台の筋書きを現実に持ち込んで、我々が第一側妃派に付くのかと探りを入れてくるなど、浅ましいにも程があります」


「ええ、全くですわ。大衆の熱狂が侮れない力を持つことは承知しておりますが、我々がそれに踊らされて盟約を手放すなどあり得ません。ましてや、王家が自らの品位を汚してまで前言を翻し、あの子に側妃入りを無理強いすることなど不可能なのですから」


 アイゼンガルト侯爵夫人は、少しだけ呆れたように微笑んだ。


「その通りですわ。この盤面が覆るとすれば、あの子自身が自ら『側妃になりたい』と望んだ場合のみ。……ですが、手紙からも我が家門と武門の妻としての自覚と誇りが痛いほど伝わってまいります。あの子とレオンハルト様の絆は本物ですもの」


 二人の侯爵夫人の論理は、貴族社会の常識に照らし合わせれば完璧に正しかった。


 王家の公式な承認は、大衆の熱狂に対する絶対の「防壁」であり、王家の強権発動を封じる「品位の楔」である。どれほど外野が熱狂しようと、当事者であるセシリア本人が自発的に首を縦に振らない限り、婚約破棄など絶対に成立しない。


 彼女たちは民衆を侮っているわけではない。各家の品位と王家の論理、そしてセシリアという娘の誠実さを誰よりも信じているからこそ、盤石の安心を抱いていたのである。


 だが、その「絶対の信頼と完璧な論理」こそが、彼女たちの致命的な死角であった。


 彼女たちは知らない。セシリアの父である新宰相が、ヒルデガードの仕掛けた不義密通の罠に落ち、すでに第一側妃の完全な手駒と化していることを。


 家門の破滅を人質に取られているセシリアには、最初から「拒否する」という選択肢など存在しない。「王家からの無理強い」ができないからこそ、大衆の熱狂が最高潮に達した時、ヒルデガードは父親の不祥事を盾に、セシリア本人から「王家の品位のために、どうか自ら側妃とならせてほしい」という承諾を強引に引き出すのだ。


 当事者が大衆の願望通りに「自発的に」動いた瞬間、アイゼンガルト家を護るはずの論理の盾は脆くも崩れ去り、決して逃れられない同調圧力の刃が両家の首元を裂く。


 優雅な茶会でそれぞれの論理的勝利を確信し、冷めた紅茶を啜る名門の夫人たちは、自分たちの足元にすでに極悪非道な盤面が、音もなく、しかし致死量の毒を孕んで敷き詰められていることに、誰一人として気付いていなかった。




9 猶予の喪失


 第三側妃ソフィアが、金髪金眼の男児――ソルディを出産した。


 密偵から届けられたその凶報の羊皮紙を、第一側妃ヒルデガードは冷たい瞳で見下ろしていた。


(……女児であれば、セシリアを王立学園に入学させるまで、飼い慣らす時間があったものを)


 白薔薇の宮の自室。優雅に紅茶の香りを楽しみながらも、ヒルデガードの内心では極めて冷徹な計算が猛烈な速度で弾き出されていた。


 第一王子グラクトの最大の政治的価値は「唯一の正当な血統」である。だが、第三側妃派が完璧な血統の予備を手に入れた今、その独占的地位は崩壊した。このまま時間を掛ければ、大衆の支持も貴族たちの視線も、いずれ新たな王子へと流れていく。


 盤面における「猶予」というカードは、たった今、完全に消滅した。


(急ぐしかありませんわね。グラクトの権威を、大衆の熱狂ごと物理的に縛り付ける。……そのための極上の贄は、すでにこの手の中にあるのですから)


 ヒルデガードは傍らに控える、魔法契約で縛られた腹心の侍女へ視線を向けた。


「本日から、セシリアへの教育内容を切り替えなさい。侯爵夫人としての実務は不要。教え込むのは、第一王子の『側妃』としてひたすらに影に徹し、沈黙する隷属の作法のみです」


「畏まりました。ですが、不審に思われるのでは?」


「構いません。どうせ間もなく、己の立場を骨の髄まで理解することになります」


 ヒルデガードの唇に、嗜虐的で優美な弧が描かれる。


「それと、あの子が実家やアイゼンガルトの小僧へ宛てる手紙ですが……貴女の特技を使う時が来ましたわね」


「はい。いかようにも」


「精巧に筆跡を真似て、文面を改変しなさい。あの子が本心から綴った言葉の温もりは残したまま、不都合な悲鳴だけを巧妙に削り落とし、『王家のために充実した日々を送っている』という文脈にすり替えるのです。……決して、外の者たちに違和感を抱かせてはなりませんよ」


 軍部と内政の頂点である両家が、令嬢の異常を察知して『建国以来の盟約』を盾に強引に介入してくる盤外のリスク。それを物理的な情報の遮断によって完全にゼロにする。


 セシリア本人の「真実」を利用して、完璧な虚構を完成させる。それは、セシリアの退路と視界を完全に奪い取るための、冷酷で完璧な鳥籠の完成であった。


  ◇


 数日後。外界から完全に隔離された執務室で、ヒルデガードは目の前に立つ少女を見据えていた。


 セシリアの顔色は青白く、数日の理不尽な教育による疲労が色濃く滲んでいる。だが、その瞳には高位貴族の令嬢としての理知的な反抗の光が、まだ僅かに残っていた。


「……第一側妃様。現在の教育は、軍元帥家へ嫁ぐという当初の盟約に著しく反しております。これ以上の逸脱が続くのであれば、わたくしは父である宰相に報告し、当主としての裁定を仰がねばなりません」


 毅然と響くその声に、ヒルデガードは内心で小さく嘲笑した。


 己が両家の権威に守られていると信じて疑わない、無知ゆえの強さ。だが、ヒルデガードにとってもここは正念場であった。第三側妃の男児誕生により崩れかけた権力基盤を立て直すには、今この密室で、確実にこの少女の自我を粉砕し、第一王子の鎖として隷属させねばならない。


「当主の裁定?……無意味な手続きですわ」


 ヒルデガードはゆっくりと長椅子から立ち上がり、ドレスの裾を揺らしてセシリアの目の前まで歩み寄る。


「貴女の父である宰相は、すでにわたくしの手駒として、この盤面に組み込まれているのですから」


「……どういう意味でしょうか。父は国家の最高実務責任者です。いかに第一側妃様であろうと、父を己の駒として扱うなど不可能です」


 鋭く睨み返してくるセシリアの反論は、王宮の常識に照らし合わせれば極めて正しい。


 だからこそ、ヒルデガードは自らの下腹部――子宮のあたりに優雅に手を当て、最も悍ましい「盤外の真実」を突きつけた。


「ええ、平時であれば不可能でしょう。ですが……もし宰相が、『国王陛下の第一側妃』であるこのわたくしと肉体関係を結ぶという、決して許されざる大逆罪を犯していたとすれば、どうかしら?」


 その瞬間、セシリアの全身が硬直した。


 理知的な瞳が大きく見開かれ、血の気が一瞬にして引いていく。


「……あり、得ません。父が、自らの命と家門の破滅というリスクを負ってまで、そのような凶行に及ぶはずが……!」


「立派な建前で着飾ったところで、男など所詮は獣ですわ」


 ヒルデガードの極めて優美な声音が、セシリアの耳元で残酷な現実を囁く。


「貴女の厳格なお父様も……正妻である夫人ではなく、このわたくしの柔肌と匂いに狂い、王妃の目を盗んでわたくしのしとねで幾度も欲望を満たしたのですよ。あの理知的な宰相が、獣のように喘いでわたくしに縋り付いた。……それが男という生き物の、醜くも抗いがたい現実です」


「嘘……お父様が、そんな……っ」


「男という生き物は皆、同じですわ。……貴女が信じて疑わない、あの誠実なレオンハルト様とて例外ではない。今頃、王立学園で美しく熟れた他の令嬢たちにすり寄られ、男としての本性をたっぷりと暴かれているのではありませんこと?」


 セシリアの唇が微かに震える。尊敬する父の裏の顔。生々しく醜い肉欲の現実。そして、絶対に揺るがないと信じていたレオンハルトへの純粋な信頼にまで、致命的な疑念の毒が注ぎ込まれる。


「わたくしは、その男の哀れな肉欲を利用して、この『相互破滅(一蓮托生)』の鎖を首に巻き付けてさしあげたのです」


 ヒルデガードは、少女の絶望の色を極上のワインのように味わいながら、最後の一撃を振り下ろした。


 王家の血統を汚す大逆罪。それが公になれば、ヴァルメイユ家は即座に御家断絶となり、一族は皆殺しとなる。


「貴女の父は、天秤に掛けました。一族郎党すべてが処刑台に送られる『絶対の破滅』と、わたくしの足元に跪き、血筋だけは存続させる『屈辱』を。……結果、彼は己の罪を隠蔽し、家門を存続させる対価として、実の娘である貴女をわたくしに売り渡したのです」


「……あ……」


「貴女はもう、両家の盟約に守られた尊い令嬢ではありません。父の醜い欲望の尻拭いとして差し出された、『人身御供』なのですよ」


 セシリアの膝から力が抜け、床に力なく崩れ落ちた。


 家門の誇りも、レオンハルトとの誓いも、すべては父親の醜い欲望と取引によって売り払われていた。自分はただの贄であり、帰る場所など最初からどこにもなかったのだという真実が、彼女の自我を完全に粉砕する。


「これより、貴女には大衆の望む通り、第一王子の側妃となっていただきます。もしこれを拒み、実家やアイゼンガルトに泣きつけば、わたくしは即座にこの大逆の事実を公表します。お父様が貴女を売ってまで守りたかった家門は滅び、大逆罪人の娘となった貴女とレオンハルト様との婚約も、前提から完全に消え去る」


 瞳から完全に光を失い、床に這いつくばるようにして震えるだけのセシリアを一瞥し、ヒルデガードは冷酷に言い放つ。


「自ら婚約破棄を申し出て、愛する男と家門を存続させるか。それとも、ここで反逆し、貴女の愛する者すべてを処刑台へ送るか。……話は終わりです。明日の朝、また講義室へ来なさい」


 絶望に染まりきった少女の返事など、最初から待つ必要すらない。全神経を尖らせて放ったヒルデガードの論理が、家族への信頼すらも根こそぎ奪い去った密室の中で、完璧な支配を完了させた。



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