表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
81/81

第9話後編 『外側2:離宮の女王』

4 毒蜘蛛の焦燥


 黄金の男児――――ソルディ・シンバ・ローゼンタリアの誕生から数日。


 第一側妃ヒルデガードの宮は、外から見ればいささかも揺れてはいなかった。


 第三側妃ソフィアへの祝意は、誰よりも端正に整えられている。贈り物も、使者の言葉も、祝賀の席で見せる微笑みも、すべてが王家の品位にふさわしい完璧な形へ磨き上げられていた。


 だが、その完璧な外面の下で、ヒルデガードの焦燥は静かに、そして確実に牙を研いでいたのである。


 ゼノビア侯爵家はなお謹慎中。近衛騎士団長の復帰は、いずれ必ず考えねばならない。しかし、仮に家職が戻ったところで、それだけではもはや盤面を支えきれないことを、彼女自身がいちばんよく理解していた。


 ソフィアは、もはや単なる第三側妃ではない。


 かつて情交奉仕者としてグラクトの心身へ食い込み、依存先を自らの宮へ奪った女である。今は王妃とヴィオラが奉仕者の管理を握り、妊娠と出産を経たソフィア自身も以前ほど自由にグラクトへ触れられはしない。だが、だからこそ逆に極めて危険だった。


 今のグラクトには、奉仕者はいても、心の置き場がない。


 義務として与えられた女たちはいる。だがそれは慰めでも依存でもなく、彼にとってはなお「王家の仕組み」の延長にすぎない。つまり、彼の内側が決定的に空いているのだ。


 そこへ先に手を差し込めた者が、次の依存先を握る。


 そして、依存先を握る女を押さえた者が、第一王子の内側を奪い返す。


 ヒルデガードにとって、それは母としての情などではなく、権勢そのものの奪還を意味していた。


 けれど、その意図を表へ出すことは絶対にできない。今この局面で、セシリアをグラクトの側へ差し出すつもりがあると少しでも見えれば、第三側妃派は確実に横槍を入れてくるだろう。下手をすれば、婚約者を横取りされたと見たアイゼンガルト侯爵家までが第三側妃派へ流れる致命的な火種になりかねない。


 だからこそ、表向きの看板だけは決して崩してはならなかった。


 セシリア・ミント・ヴァルメイユは、あくまで「元帥家へ立派に嫁がせるために、王宮で淑女教育を受けている宰相家の令嬢」でなければならない。


 その建前を堅持したまま、どこへ出しても通用する女へ作り替える。


 必要なら侯爵夫人として。


 必要なら王宮の女として。


 そして機が熟した時にだけ、最も適切な場所へ置く。


 それが、ヒルデガードの冷徹な答えだった。


 彼女が今持つ札は多くない。


 リーゼロッテは使えない。血の上では申し分なくとも、帝国との婚約交渉が動いている以上、あれは国内派閥の駒として乱暴に切れる札ではない。


 メルカトーラ家も悪い。内務卿がリュートへ接近している以上、その娘ユスティナは第一王子派の再建に使うには色が濁りすぎている。


 残るのは、宰相家と元帥家を繋ぐこの深窓の令嬢だけだった。


 まだ未完成。


 まだ柔らかく、まだ怯え、まだ「立派な侯爵夫人にならなくては」という幼い善意で動いている。だが、だからこそ遅くはない。今のうちに折り目をつけ、従順さと忍耐と、男の弱り目へ静かに入り込む陰湿な術を仕込めばよいのだ。


『時間がない』


 夜更け、誰もいない私室でそう低く呟いたヒルデガードは、翌日からセシリアへの教育の質を一段、決定的に変質させた。


 礼の角度、歩幅、視線の落とし方、茶器の扱い。そうした基本作法は、もはや当然の前提として厳しく維持される。


 その上へ新たに重ねられたのは、「大きな家の妻」が持つべきとされる、もっと微細で、もっと生臭い権力獲得の技法だった。


 茶会における座順の真の意味。


 贈答品に込める威圧と距離感。


 家臣や侍女へ命じる際、命令でなく依頼の形を取りながら、実質的にはすべての選択肢を潰して従わせるやり方。


 高位の男が沈黙した時、どこまで待てば「気が利く」のであり、どこからが「でしゃばり」になるのか。


 疲弊した殿方の前では、何を語らず、何を整え、何を見なかったことにして差し出すべきか。


 それは侯爵夫人教育として説明すれば、たしかに嘘ではなかった。元帥家の妻であれ、宰相家の娘であれ、家を支える女には、男の外面と内面を同時に扱う器量が要るからだ。


 だが、その教えはどこか、軍門の妻としてよりも、王宮の奥底で男の依存を受け止める女としての陰惨な色を帯びていた。


 セシリアは、その違和感をうまく言葉にできなかった。


 元帥家へ嫁ぐのなら、もっと学ぶべきことがあるのではないか。武門の家臣団への接し方、戦地へ出る夫を後方から支えるための実務、兵の家族への心配り。それらよりも、ここで繰り返し教えられるのは、どうにも「高位の男の機嫌と呼吸を乱さず、静かに掌へ収める」ための作法に過剰に寄っている。


 だがヒルデガードは、常に正しく美しい言葉でそれを包み込んだ。


「大きな家へ嫁ぐ女は、ただ美しく微笑んでいるだけでは足りません。男たちは皆、自分が盤面を動かしていると思いたがる。ならば女は、その自尊心を傷つけずに、盤面がこちらに有利に動くよう整えなくてはならない。正面から勝とうとしては駄目。相手に『自分の思う通りにしている』と思わせたまま、必要な方へ歩かせるのです」


 そう優雅に言われると、それはたしかに「良き妻の知恵」のように聞こえる。


 だからこそセシリアは、自分が何へ向けて育てられているのか、はっきりと掴めないまま無力に従ってしまう。


 そして、ある晩。


 ヒルデガードは、彼女を一人で私室へ呼んだ。


 卓の上には、一通の封書が置かれている。装飾のない、実務の冷たい匂いがする封だった。


 座るよう促され、浅く腰掛けたセシリアの指先は、自分でも分かるほど芯から冷えていた。


「今夜は、知らなければならない現実を一つだけ教えます――――」


 そう言ってヒルデガードが封を切り、中の書付を机上へ広げた瞬間、セシリアの呼吸は完全に止まった。


 父の字だった。


 日付。時刻。私室への出入りの記録。


 そして、言い逃れのできぬ私的な文言が数行。


「――――不義密通」


 その一言をヒルデガードは使わなかったが、内容は十分すぎるほど明白だった。


「もしこれが表へ出れば、お父君の地位は終わります。ヴァルメイユ侯爵家も、レオンハルトとの婚約も、すべて一緒に落ちるでしょうね」


 そう静かに宣告されても、セシリアは首を振ることすらできなかった。違うと叫びたくても、筆跡があまりに鮮明だったからだ。


 そして、その時ようやく彼女は理解した。


 これは父を潰すための脅しではない。父を生かしたまま、永く逆らえなくするための絶対的な「首輪」なのだと。


「安心なさい。宰相にはこれからも働いてもらうつもりよ。政務は滞ってはならず、国を支える者が崩れれば誰も得をしないわ」


 つまり必要なのは破滅ではなく、完全な従属だった。


「では……わたくしは、どうすればよいのでしょうか」


 震える声でそう問うたセシリアに、ヒルデガードは即答した。


「家を守りなさい。お父君を守り、婚約を守り、ヴァルメイユ家の名を守るために、ここで学んでいることを一つ残らず身につけなさい」


 さらに彼女は、最も痛い場所であるレオンハルトの名を持ち出した。


「レオンハルト殿は真っ直ぐで、誇り高い。ああした殿方の隣に立つ女には、ただ愛らしいだけでは足りないのです。疲れた時に騒がず、誇りを傷つけず、必要なものだけを差し出せる静かな強さが要るのですよ」


 そう言われれば、それはたしかに「アイゼンガルト侯爵家へ立派に嫁がせるための教え」に聞こえる。


 そこに嘘はない。少なくとも表向きは。


 だがその実、ヒルデガードが見ているのはもっと先だった。どこへ出しても恥ずかしくない女。高位の男の孤独へ静かに入り込み、依存を受け止め、表の女主人と正面から争わずに実を取れる女。


 そういう女に仕上がった時、初めてセシリアは本当に「使える手札」になる。


 セシリアは、その二重の意味までは読み切れなかった。


 ただ、自分がもう「深窓の令嬢」のままではいられないことだけを、絶望とともに理解した。


「よろしいこと。貴女は賢くて、素直で、家を思う心もある。そういう子は、きちんと磨けば必ず役に立つ女になるわ――――」


 その言葉は褒め言葉の形を取っていたが、響きはまるで家畜の品定めであった。


 その夜以降、セシリアの教育はさらに苛烈なものとなった。


 昼は礼法と宮廷作法。


 夕刻は茶会と贈答の理屈。


 夜は、父の首輪を思い出させる一言と共に、疲弊した殿方の前で女がどう在るべきかの反復。


 誰にも見せてはならぬ恐怖を胸に抱えたまま、セシリアは少しずつ、自分の感情よりも先に相手の呼吸を読む癖を身につけさせられていった。


 毒蜘蛛の焦燥は、ついに隠しきれぬ段階へ入っていた。


 そしてその焦りは、最も弱く、最も逃げ場のない少女の心を、静かに、確実に締め上げ始めていたのである。




5 離宮の女王(二代目)のお茶会


 深夜。


 第一側妃の宮に与えられた豪奢な私室で、セシリアはとうとう膝を折っていた。


 昼は礼法。


 夕刻は茶会と贈答の作法。


 夜は、父の首に嵌められた大逆の輪を思い出させるような言葉とともに、殿方の機嫌を損ねぬ女の在り方を繰り返し教え込まれる。


 それは表向き、「元帥家へ立派に嫁ぐため」の教育である。


 だが、教えられる内容はあまりにも王宮めいていた。家臣団の掌握や武門の妻としての実務よりも先に、沈黙の置き方、男の誇りを傷つけぬ慰め方、表の女主人と正面から争わずに実を取る方法ばかりが叩き込まれる。


『わたくしは、何にされようとしているの……?』


 その答えを、セシリアはまだ言語化できなかった。できないまま、ただ怖かった。


 父はもう自由ではない。


 自分もまた、自由ではない。 


 それでも泣いてはならない。怯えてはならない。立派で、静かで、従順な令嬢でいなければならない。


 そう思えば思うほど、喉の奥へ押し込めた嗚咽は行き場を失い、胸の内側ばかりを無惨に痛めつけた。声を殺しても、肩の震えだけは止まらない。


 寝台の脇へしゃがみ込み、両手で顔を覆ったまま、セシリアは小さく息を呑んだ。


 その時だった。


 窓辺の方で、ごくかすかな物音がした。


 びくりと身体を強張らせ、反射的に顔を上げる。


 月明かりの差す窓際に、二つの影が立っていた。


 一人は小柄な少女。色素の薄い髪を静かに垂らし、金の瞳でこちらを見つめている。幼いはずなのに、その立ち姿には奇妙なほど完成された気品があった。


 もう一人は、その半歩後ろに控える女。灰髪と黒い瞳を持つ、無駄のない鋭い気配の侍女だった。


「リーゼロッテ王女殿下――――」


 息を呑んだセシリアへ、リーゼは人差し指を唇へ当てた。


「お静かに」


 責めに来たのではない、と。


 その声音は低く澄んでいて、少しも揺れない。押しつけがましさはなく、ただ逃げ場のない現実をそのまま差し出すような、底知れぬ静けさだけがあった。


 ルリカは音もなく室内へ入り、扉と窓の気配を確かめる。それから小さな包みを卓上へ置き、手際よくティーセットを並べ始めた。湯気の立つ保温瓶まで用意されているのを見て、セシリアは言葉を失う。


「秘密のお茶会よ。こういう夜には、まず温かいものを飲んだ方がいいわ」


 その言い方が、あまりに自然だった。


 ルリカは、その様子を一瞬だけ黙って見つめていた。リーゼの指先はまだ拙い。だが、相手の前にまず温度を置く、その所作だけは不思議なほど迷いがなかった。


 あの人もこうしていた。理不尽の中で固まった誰かの前に、言葉より先に茶を置いた。叱責より先に温度を差し出し、泣くことを許されぬ者へ、まず「泣いてもいい場所」を作った。


『ルナリア様――――』


 胸の奥でそう呟き、ルリカは静かに目を伏せた。


 セシリアは、震える手で差し出されたカップを受け取った。


 掌へ伝わる熱に、張りつめていたものが少しだけ緩む。泣いていたのを見られた恥ずかしさより先に、その温度があまりに人間らしくて、また喉が詰まりそうになった。


「どうして……わたくしに」


 やっとのことでそう問うたセシリアに、リーゼは淡々と答えた。


「貴女が壊されかけていると分かったから。そして、その理由が『作法が厳しいから』程度ではないと見えたからよ」


 見抜かれている。


 そう思った瞬間、強がる気力が完全に途切れた。


「わたくし、どうしたらよいのか分からなくて。父も、家も、婚約も、全部なくなってしまうかもしれない。でも、誰にも言えなくて……っ」


 ぽつりぽつりと零れた言葉を、リーゼは遮らなかった。


「怖かったでしょうね」


 静かにそう言った。


 その一言で、セシリアの目からまた涙が落ちた。慰めではない。ただ事実として「怖かった」と肯定してもらえたことが、かえって胸に堪えたのだ。


 しばらく泣き声のない沈黙が続く。


 やがてリーゼは、声の調子を変えずに順番に聞いた。何を見せられたのか。原本か写しか。誰が知っているのか。自分自身は何をさせられているのか。


 そこでセシリアは、父が第一側妃に逆らえない決定的な理由を見せられたのだと、ようやく口にした。


「――――不義密通です」


 その瞬間、リーゼの指先がカップの縁でほんの一瞬だけ止まった。


 セシリアには意味が分からなかったが、ルリカには分かった。宰相が何らかの首輪で繋がれていること自体は、リーゼも当然読んでいた。だが、その中身がここまで露骨で、ここまで下劣だとは、今この瞬間に初めて確定したのだ。


『――――そこまでなさるのね、ヒルデガード様。ついに、ご自分の身体まで鎖に変えたの。宰相家も、その娘も、まとめて縛るために』


 リーゼの胸に嫌悪が鋭い刃のように滑った。


 あの女は本当に、人間の尊厳も家の命運も、すべてを権勢のための部品としてしか見ていない。


 だが次の瞬間には、もうその感情は静かに畳まれていた。今ここで必要なのは、ヒルデガードへの嫌悪を吐き出すことではない。目の前の少女が、どこまで沈み、何を握られ、何をさせられているのかを、正確に把握することだ。


「そう」


 リーゼは短く言っただけで、すぐに別の問いへ移った。原本か写しか。誰が知っているのか。教育係たちはどこまで関与しているのか。


 さらに、何を教え込まれているのかと問われ、セシリアは、礼法と茶会の作法、そして殿方の機嫌を損ねない女の在り方のようなことだと答えた。


「元帥家へ嫁ぐ令嬢にしては、ずいぶん偏っているわね」


 リーゼがそう言い切った瞬間、セシリアは初めて、自分の違和感に明確な形を与えられた気がした。


 建前は「アイゼンガルト侯爵家へ立派に嫁がせるため」で間違いない。


 だが今の本宮で争われているのは、第三王子の後見ではなく、あくまで第一王子グラクトの後見をどちらが握るかという、第一側妃派と第三側妃派の熾烈な綱引きなのだ。


 この段階で露骨にセシリアを第一王子の側へ差し込もうと見えれば、第三側妃派は確実に横槍を入れる。下手をすれば、婚約者を奪われると見たアイゼンガルト侯爵家まで第三側妃派へ傾きかねない。


 だからこそ今はまだ、「どこへ出しても恥ずかしくない女」へ仕上げる段階なのである。


 セシリアは息をするのも苦しかった。


 自分が、ただ嫁ぐための娘ではない。もっと可変的な、使い勝手のよい札として整えられている。その認識は、今まで感じたどんな恐怖よりも足元を崩した。


「わたくしは……素材なのですね」


 その呟きに、リーゼは「今はまだそうだ」と淡々と返した。


 宰相家を縛る首輪。元帥家との婚約。第一側妃派の手札の減少。そして、第三側妃派が第一王子の後見を握りつつある現状。その全部が揃った今、第一側妃にとってセシリアは「まだ形を決めきらない方が得な札」なのだと。


 やがてリーゼは、卓上へ静かに手を置いた。


「あの方は鎖を作ることに躊躇がない。だからこそ、貴女は『優しく守られている令嬢』のままでいてはいけない。今の貴女は、自分がどういう盤面に置かれているのかすら分からないまま、ただ一方的に削られている。なら、まずはそこをはっきりさせましょう――――」


 深夜の私室に、もう一度沈黙が落ちた。


 だがそれは先ほどまでの息の詰まるような沈黙とは違う。今のそれは、逃げ場のない恐怖ではなく、盤面が見え始めた者だけが直面する、次の問いへ続く静けさだった。




6 離宮の居場所と、猛毒への羽化


 深夜の私室には、まだ茶の熱がわずかに残っていた。


 泣き崩れていた時とは違う。今のセシリアは、膝の上で指を固く組みながらも、少なくとも自分がどういう盤面へ置かれているのかだけは見え始めていた。


 父の首には大逆の輪が嵌められている。


 自分はその娘として、婚約と家門と父の地位をまとめて縛るための札にされかけている。


 建前は、あくまで「元帥家へ立派に嫁がせるため」の教育。だがその内実は、いつでも別の場所へ差し替えられるよう整えるための仕込みでもある。


 リーゼは、その認識がセシリアの中で形を結ぶのを待ってから、静かに言った。


「ここから先は、貴女が考える番よ」


「…………」


「盤面は、もう見えたはず。なら、貴女ならどうするのかしら」


 問いは淡々としていた。だが、それが逃げられない問いであることだけは、はっきり分かった。


 セシリアはすぐには答えられなかった。


 胸の奥へ沈んだ恐怖と、やっと見えてきた現実と、そのどちらにも言葉が追いつかない。やがて、かすれた声で絞り出すのがやっとだった。


「……従うしかないのではないでしょうか」


 それは答えというより、願望に近かった。


 それ以外の道など、考えたこともなかったのだ。


 リーゼは、その答えをすぐには否定しなかった。


 それはたしかに一番穏当に見える道だ、と整理した上で、その利点と限界をはっきり示した。


 利点はある。表向き、家も婚約も守れる。第一側妃の機嫌を損ねずに済むし、お父様への圧も当面は強まらない。少なくとも、今すぐ何かが壊れることはない。


 だが、それだけだ。


 その道を選ぶなら、セシリアは最後まで他人の札のまま。どこへ置かれるかも、いつ差し替えられるかも、自分では決められない。元帥家へ嫁げる保証もないし、嫁げたとしても、第一側妃が「十分に使える」と判断した後での話になる。


 つまり、家を守る代わりに、自分の意思を全部差し出す道である。


 その説明を聞いた時、セシリアはやっと理解した。


 穏当に見えるその道は、実のところ何も守れていない。ただ、自分が壊れる順番を後ろへずらしているだけなのだと。


「……逃げるのでしょうか――――」


 次に漏れたその問いには、自分でも信じていない響きがあった。


 離宮へ、あるいはどこか遠くへ。今夜のように、誰にも気づかれぬまま――――。


 リーゼは、それも「できる」と即答した。今夜にでも、この宮からセシリアを消すことはできる。離宮には匿う場所もある。王都の外へ抜ける道も、必要なら用意できる、と。


 だが、こちらもまた代償は単純だった。


 セシリア自身は第一側妃の手から離れられる。少なくとも、これ以上あの宮で削られることはない。自分の頭で考える時間も取り戻せるだろう。


 けれど、お父様はもっと深く沈む。娘を逃がした責を問われるだろうし、婚約も良くて凍結、悪ければ破談。第一側妃は「恩を仇で返した深窓の令嬢」という物語を作る。


 自分一人は助かるかもしれない。でも、それは父と家と婚約をまとめて守る道ではない。


 結局、どちらも怖い。


 従えば自分が死ぬ。


 逃げれば、自分以外が傷つく。


 セシリアの目にまた涙が滲んだが、先ほどまでのように崩れ落ちはしなかった。代わりに、どうしようもない行き詰まりの中で、必死に考え続けている顔だった。


 リーゼは、その変化を静かに見ていた。


 そして、ようやく最後の札を切った。


「もう一つだけ、道はあるわ。鳥籠の中へ残ること。ただし、小鳥としてではなく――――毒として、ね」


 その一語に、セシリアの喉が小さく鳴った。


 従順な人形を演じたまま、内側から盤面を読む。


 ヒルデガードが誰と会い、何を教え、何を焦り、何を欲しているのか。自分が見たこと、聞いたこと、渡されたもの、教え込まれたこと――――それを、リーゼへ流す。


 リーゼは誤魔化さなかった。


 ただ哀れんで拾うつもりはない。ヒルデガードの宮の内情は、こちらにも必要なのだ。


 だから、残るなら情報を渡してほしい。その代わりにこちらは守る。通信路を与え、危険な線を読んで助言し、必要なら証拠の隠し場所も逃げ道も用意する。


 それが、冷徹な交換条件だった。


 セシリアは答えられなかった。


 それは取引だった。だが侮辱ではなかった。初めて自分が、ただ守られるだけの荷物ではなく、盤面に影響を返せる存在として扱われた気がしたのだ。


「わたくしに、そんなことができますでしょうか……」


 その問いに、リーゼはすぐには答えなかった。代わりに、何を守りたいのかと問い返した。


 お父様だけか。婚約だけか。それとも、自分自身がただ壊されずにいたいのか。答えを急ぐ必要はない。だが、そこが定まらなければ、どの道を選んでも途中で折れる。


 その言葉に、セシリアはしばらく沈黙した後、ようやく絞り出すように本音を口にした。


「レオンハルト様を、守りたいです」


「……」


「父も、家も、守りたいです。でも、あの方との未来まで、誰かに勝手に使われたくありません――――!」


 その瞬間、部屋の空気がほんの少し変わった。


 初めて、セシリア自身の意志が、誰かの期待ではなく彼女自身の言葉として外へ出たからだ。


「なら、もう答えは半分出ているわ」


 リーゼはそう言ったが、あえてそこで続きを押しつけなかった。


 従う道もある。逃げる道もある。そして、残って毒になる道もある。


「選択肢は出そろった。どれを選ぶか、決めるのは貴女よ」


 それは命令ではなかった。けれど、優しい猶予でもない。次の一歩の責任を、そのままセシリアへ返す言葉だった。


 リーゼは卓上へ、小さな紙片を置いた。


「これを文の端へ忍ばせれば、内容が季節の挨拶でも体調の報告でも、それだけでこちらには伝わる」


 さらに、細い紐で結ばれた小袋をもう一つ置く。


「こちらは王都の外へ抜ける時のためのもの。今すぐ使う必要はないけれど、持っておきなさい。逃げ道があると知っているだけで、人は少し賢くなれるわ」


 セシリアは、それをじっと見つめた。


 小さな紙と袋にすぎない。だがそこには、自分がまだ何かを選べるという証明が入っている気がした。


「今夜すぐに決めなくていい。けれど、考えることからは逃げないで。何もしないこともまた、一つの選択なのだと分かった上で、自分で選びなさい」


 そう言い残して、リーゼはルリカを伴い、音もなく私室を後にした。


   ◇


 冷たい回廊へ出ると、本宮の夜気が肌へまとわりつく。


 誰もいない闇の中をしばらく歩いた後、離れへ続く渡り廊下の手前で、リーゼがぽつりと呟いた。


「お姉様。わたくし、まだまだお母様には及びませんわね――――」


 その声は、自嘲とも悔恨ともつかない、ひどく静かなものだった。もっと柔らかく、もっと深く、あの子の心をほぐせたのではないか。自分はどうしても、刃を混ぜてしまう。そんな思いが滲んでいた。


 ルリカは足を止めると、リーゼの方へ向き直って、はっきりと言い切った。


「そんなことはありません」


 そして、そっとその頭を撫でる。幼い頃から何度もそうしてきたように、灰色の手袋越しの指先は迷いなく白金の髪を梳いた。


「ルナリア様は、殿下の中で生きておられます。今夜も、よく分かりました。殿下は、あの方とは違うやり方で、同じものを守っておいでです――――」


 その言葉に、リーゼは何も言わなかった。けれど、その睫毛が一度だけ震えた。


 冷たい本宮の回廊に、ほんの一瞬だけ、離宮の温度が戻った。


 それは、もうこの世にいないはずのルナリアが、たしかに次の世代へ何かを遺していった確固たる証でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ