第10話中編下 『外側6:王女の療法』
7 聖母の療法
本宮西翼の最奥に位置する旧書庫は、数世代にわたって実質的な利用が途絶えており、カビと劣化した羊皮紙の匂いが重く沈殿していた。
秋はすでに深まり、分厚い石造りの壁を抜ける冷気が、容赦なく体温を奪っていく。隙間だらけの窓枠は夜風に軋み、遠くの秋虫の音だけが、この冷え切った空間にも外の夜が続いていることを告げていた。
その静寂を破り、重厚な樫材の扉が微かな蝶番の悲鳴と共に押し開けられた。
暗闇へ足を踏み入れたのは、濃紺の地味な外套に身を包み、フードで顔を深く隠したセシリア・ミント・ヴェルメイユだった。手にした小さな燭台の灯りを震わせながら、恐怖に引き攣った浅い呼吸を繰り返している。誰かに会いに来たのではない。手紙に従い、旧書庫の目録棚へ返答を置くためだけに来た。
第一側妃の監視の目を盗み、深夜の本宮を一人で歩き回る。それだけで、行儀見習いの令嬢には規律違反として破滅しかねない危険があった。少しでも物音がするたびに心臓が跳ね上がり、今すぐ私室へ逃げ帰りたいという衝動に何度も駆られたに違いない。
だが、彼女は逃げなかった。父の不義という残酷な真実を突きつけられ、愛するレオンハルトとの未来が完全に断たれるという絶望の淵にあって、それでも彼を救い出せるかもしれないという一縷の細い糸を手放せなかった。
「よく来ましたわね、セシリア様」
書庫の最奥、月明かりだけが差し込む埃まみれの空間から、静かで、ひどく澄んだ声が響いた。
セシリアが肩を跳ねさせ、震える手で燭台を高く掲げる。淡い光の輪の中に浮かび上がったのは、つい数時間前、あの息の詰まる茶会の席で完璧な微笑みを浮かべていた第一王女、リーゼロッテの姿だった。
「だ、第一王女殿下……。どうして、殿下がこのような場所に……」
セシリアは後ずさり、声にならない悲鳴を上げた。それだけで、これが第一側妃による忠誠心の最終テストだと疑うには十分だった。
極限の恐怖でセシリアの膝が折れそうになったその瞬間、彼女の背後で、開いたままだった重厚な扉が音もなく閉められた。扉脇の影の中には、いつの間にか黒い影が立っていた。
セシリアが息を呑んで振り返ると、そこには第一王女の専属護衛ルリカが、夜の闇そのもののような冷徹な佇まいで控えていた。ルリカはセシリアの背後を確認し、誰も尾行者がいないこと、彼女が誰にも付き添わせていないことを視線だけで主へ報告する。
「ご苦労様です。……セシリア様、そんなに怯えなくてもよろしくてよ。誰も貴女を害そうとは思っていません。ルリカ、お下がりなさい」
ルリカは無言で一礼し、扉脇の影へ身を退いた。
リーゼロッテは一切の威圧感を消した声でそう言うと、書庫の中央に置かれた古い閲覧用の机へと歩み寄った。そこには予め、保温のための魔法陣が刻まれた銀筒と、二つの清潔なティーカップが用意されていた。
自らの手で銀筒の蓋を開け、カップへ静かに湯を注ぎ始めた。芳醇なハーブと蜂蜜の香りが、埃っぽい書庫の空気を一瞬にして塗り替えていく。
「さあ、お掛けなさい。秋の夜の石造りは、冷えが骨まで響きますから」
本宮の狂った身分制度に照らせば、第一王女が一介の行儀見習いに自ら茶を淹れるなどあり得ない。だが、そのあり得なさが、第一側妃宮の絶対的なルールに支配されていたセシリアの思考を一時的に麻痺させ、その規則の外へ引きずり出す引力になっていた。
セシリアは促されるままに、ふらつく足取りで椅子へと腰を下ろした。
書庫の深い影に溶け込みながら、ルリカはその光景を静かに見つめていた。
リーゼロッテの所作には、先ほどの茶会で見せていた冷徹な気配は微塵もない。カップの縁を扱う指先の角度、相手の警戒を解くための声の高さと間、そして空間全体を包み込むような拒絶しない静かな気配。
ルリカの目に映っているのは、間違いなくリーゼロッテだった。だが、その立ち振る舞いは、かつて深く傷ついた者たちを救済した亡き母ルナリアの姿と完全に重なる。
極限の恐怖で自己崩壊の縁に立たされた者を救うための、まず震えを鎮め、次に言葉を取り戻させる手順。リーゼロッテは、ルナリアが用いたその手法を自己のものとし、この密室で再現していた。
「温かいカモミールティーよ。すっかり芯まで冷えてしまったでしょう」
リーゼロッテが差し出したカップを、セシリアは震える両手で受け取った。
陶器越しに伝わるその確かな温もりが、冷え切っていたセシリアの掌から全身へと広がっていく。そしてその熱は、限界まで張り詰めていた彼女の精神の糸を、あっけなく緩めた。
「あ……っ」
セシリアの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
第一側妃宮では、絶望の表情を見せれば王家の純愛劇に泥を塗る反逆だと脅されてきた。声を上げて泣くことすら許されなかった彼女にとって、目の前の少女が放つ、拒まず、急かさず、黙って受け止める空気は、あまりにも優しすぎた。
堰を切ったように、セシリアの口から嗚咽と共に言葉が溢れ出した。
「私は、劇の意味を分かっておりませんでした。ただ、父の立場を守れるなら、それでよいのだと……。けれど、あれは第一王子殿下への恋心として語られ、王都中が、私の側妃入りを望んでいることにされてしまいました」
そこで、セシリアは一度だけ言葉を詰まらせた。次に口にすることが、父を二度と引き返せない場所へ押し出すと分かっていた。
だが、目の前にいるのは、第一側妃の実の娘だった。これが罠なら、沈黙してもすでに終わっている。罠でないのなら、ここで話さなければ、父も、家も、レオンハルトとの未来も失われる。敵であっても、味方であっても、もはや隠す意味は残っていなかった。
「父は、王宮で許されぬ関係を持ったのだと告げられました。私が従わなければ、ヴェルメイユ家は破滅すると……私は、父を縛るために、家を縛るために、レオンハルト様との婚約を壊すために差し出されたのです。私が頷けば家は残る。私が拒めば家は潰される。そう言われて……私は……」
リーゼロッテは言葉を遮らず、ただ静かに聞いていた。けれど、セシリアが次の名を口にした瞬間、カップを持つ手が止まった。
「……待って。お父上が許されぬ関係を持った相手というのは……まさか」
「……はい。第一側妃様ご自身が、そう仰いました。父はあの御方と許されぬ関係を持った。私は、その代償として差し出されるのだと」
その瞬間、旧書庫の空気が微かに凍りついた。
暗闇に控えていたルリカが、音を立てずに鋭く息を呑む気配がした。リーゼロッテもまた、僅かに瞳を見開き、完璧な仮面の奥で深い驚愕を走らせていた。
宰相が何らかの致命的な弱みを握られている可能性は考えていた。だが、第一側妃自身がその弱みを作ったとなれば、話が違う。
王妃の目を盗み、本宮の内側で宰相を縛る。不義が露見すれば、ヴェルメイユ家とアイゼンガルト家だけでは済まない。宰相の罪、第一側妃の罪、第一王子の品位、王妃の統制、王宮そのものの秩序まで巻き込む。
リーゼロッテは、胸の奥で冷たく断じた。ルナリアが帝国公爵家の娘であることを承知しながら、帝国との戦を招きかねない狂犬をけしかけたあの日と同じだ。
何も変わっていない。自分の満足と焦燥のためなら、国がどこまで燃えるかを数えない。追い詰められたから危険なのではない。追い詰められるたび、自分の足元の火を王宮全体へ広げる。その影響力の強さを自覚できないのが第一側妃ヒルデガードという女なのだ。
しばらく、旧書庫にはセシリアの嗚咽だけが残った。リーゼロッテは急かさない。問いも、慰めも差し挟まない。ただ、セシリアが自分の呼吸を取り戻すのを待つ。父の罪を口にした少女は、もうそれだけで半ば崩れている。
ここで答えを求めれば、彼女は再び第一側妃宮で叩き込まれた恐怖の形へ戻ってしまう。必要なのは次の情報ではない。自分の口で語っても、すぐには罰されないのだと、セシリアの身体が理解するまで待つことだった。やがて、セシリアの嗚咽が少しずつ収まり、荒かった呼吸が落ち着き始める。
涙を拭ったセシリアは、ふと我に返り、縋るような、それでいて怯えるような視線をリーゼロッテに向けた。
「……第一王女殿下。どうして、殿下は私のお話を黙って聞いてくださるのですか。殿下は、第一側妃様の実の娘ではありませんか……。なぜ、私などにこれほどの情けを……」
それは、極限状態の者が抱く当然の疑念だった。自分を追い詰めた元凶の娘が、なぜこんな真似をするのか。
リーゼロッテは、同情の言葉を選ばなかった。王宮の秩序を揺るがす真実だと分かっていても、いま彼女を第一側妃の恐怖から引き離すには、それだけの重さが必要だった
「セシリア様。……貴女は、第二側妃ルナリア様が亡くなられた『本当の理由』をご存知かしら」
不意に落とされたその名に、セシリアは戸惑って瞬きをした。
ルナリアといえば、先の第一王子の側近狂乱事件の後、ほどなくして病死したと公式に発表されている。
「ご病気で、亡くなられたと伺っておりますが……」
「表向きはね。でも、真実は違うわ」
リーゼロッテのプラチナブロンドの瞳に、深い喪失と、冷たく澄んだ怒りの炎が宿った。
「彼女は、私を生んだあの御方……第一側妃様が唆した狂犬によって、命を奪われるほど傷つけられた」
「え……っ!?」
セシリアの喉が引き攣った。
セシリアが知っている公式発表では、護衛騎士のセリオスは突如狂乱し、後宮の侍女を殺害したことになっている。だが、いま第一王女が告げた内容は違う。帝国公爵家の娘である第二側妃が、第一側妃の唆した者によって命を奪われた。
「ルナリア様は、私にとって本当の家族だった。血など繋がっていなくても、私に知性を教え、無条件の愛を与えてくれた方。……私は、その一番大切な人を、第一側妃様に奪われたの」
淡々と語るリーゼロッテの声には、血を滲ませるような悲哀と、静かな殺意があった。セシリアは、目の前の第一王女が抱える傷の深さと、彼女が置かれている凄絶な立ち位置を理解し始めた。
「私は、あの御方に抗うために、自分の意志でここに立っている。……だから、第一側妃様の理不尽な暴力で、貴女が大切な人との未来を奪われようとしているのを、どうしても見過ごせなかったのよ」
第一王女は、自分を哀れんで助けようとしているのではない。自分と同じく、第一側妃という化物によって大切なものを奪われ、それでもなお抗おうとしている痛みを知る者だった。
その痛みを伴った嘘偽りのない真実を突きつけられ、セシリアの中にあった「敵の娘」という警戒心が、少しずつ揺らぎ始めた。
「……殿下……」
セシリアは、初めて、彼女の身分ではなく同じように絶望の淵に立たされた一人の少女としてリーゼロッテを見た。
「貴女は、一人ではないわ、セシリア様」
リーゼロッテがそっと手を伸ばし、セシリアの震える手を包み込む。
王宮という巨大な檻の中で、頼る者も逃げ場もなく孤立していたセシリアの心に、初めて、確かな温もりが届いた。
「……ありがとうございます、第一王女殿下。私、本当に……一人で、恐ろしくて……」
セシリアは両手でリーゼロッテの手を握り返し、もう一度だけ静かに涙を流した。だがそれは、先ほどまでの恐慌による絶望ではなく、暗闇の中に手を差し伸べてくれる者を見つけた安堵だった。
秋の冷気が満ちる旧書庫の中で、二人の少女の間に、静かな信頼の糸が、かすかに結ばれた。
セシリアの呼吸が完全に落ち着き、涙が止まるのを待って、リーゼロッテは優しく、しかし確かな意志を持った声で問いかけた。
「……セシリア様。貴女を縛る鎖のこと、お父上のこと……解くべき糸は、必ず見つけられるわ。だから、まずは貴女の本当の心を聞かせてちょうだい。……貴女自身は、これからどうしたいの?」
8 窮地の論理と、偽装の従順
薄暗い旧書庫で、リーゼロッテの静かな問いかけに、セシリアは手元のティーカップを見つめたまま微かに唇を震わせた。
第一側妃宮という狂気の檻の中で、彼女はずっと『どうすべきか』だけを強要されてきた。第一王子殿下の側妃という座に据えられること。純愛劇のヒロインを演じきること。実家の不義を隠蔽するための蓋となること。自らの意志など、どこにも介在する余地はなかった。
だからこそ、『本当はどうしたいのか』と問われたのは、この地獄に足を踏み入れてから初めてのことだった。
「私……私は……」
セシリアは顔を上げ、リーゼロッテの金色の瞳を真っ直ぐに見返した。
「レオンハルト様と、結ばれたいです。第一側妃様が作った筋書きから逃れ、彼との未来を生きたい。……でも、私を代償にされる原因を作ったとはいえ、たった一人の父を見捨てることも、ヴェルメイユ家を滅ぼすことも、私にはできません。レオンハルト様との未来も、家族も……どちらも失いたくないのです」
それが、セシリアの本音だった。自分を犠牲にする原因を作った父であっても見捨てきれない親への情。家門の令嬢として背負わされた責任。そして愛する者との未来。すべてを失いたくないという、あまりにも危うい答え。
本宮の冷徹な政治闘争において、その甘さは通常なら命取りになる。だが、リーゼロッテはそれを嘲笑うことはなく、静かに、優しく包み込むような視線を向けた。
「ええ。両方守りたいのね。それが貴女の本当の望みなら……お手伝いはできるわ。私たちが使える力を貸すこともできる」
「お手伝い……」
「そう。でも、あくまで動く主体は貴女自身よ。だって、これは貴女の望みでしょう? 誰かが運命を変えてくれるのを待つ被害者のままでは、現状は何も変わらないわ」
リーゼロッテの声は穏やかだったが、その奥には、為政者としての厳しい真理があった。
「残酷なことを聞くわね、セシリア様。……もし、お父様を切り捨て、ヴェルメイユ侯爵家の破滅を受け入れることでしか、レオンハルト様と共に生きる道が手に入らないとしたら、貴女はどうする?」
突きつけられた極端な問いに、セシリアの顔から血の気が引いた。
「両方を無傷で手に入れるなどという甘い夢は、初めからこの王宮には存在しないかもしれない。それでも、何も選ばなければ、現状のまま全てを第一側妃様に奪い尽くされるだけよ。……貴女は、当事者として何かを選び取る意志はあるかしら?」
セシリアは、震える膝の上に置かれた自分の両手を見つめた。
どちらかを切り捨てる。そんな恐ろしい選択を、自分ができるのか。旧書庫に沈黙が降り、彼女の浅い呼吸だけが繰り返された。
「……怖いです。けれど、このまま何も選べずに、すべてを奪われるのだけは嫌です。もしどうしても選ばねばならない時が来たら……私は、父を切り捨ててでも、レオンハルト様との人生を選びます」
それは、父も家も失う可能性を引き受ける、血を吐くような覚悟の証明だった。
その瞳に確かな光が宿ったのを見届け、リーゼロッテは小さく微笑んだ。
「極端な例えよ。……でも、そのように『最悪の事態』を想定し、考え続けることが必要なの。決めつけて思考を止めない限り、状況の変化にも対応できるわ」
「考え続ける……」
「ええ。貴女はアイゼンガルト家のように、剣を持って戦うことはできない。行動には限界があるわ。でも、勝つために考えること、最悪の状況に陥らないように相手の選択肢を狭めることはできるでしょう? 剣で戦う以外に状況を改善する方法を、考え続けるのよ」
思考を止めない限り、状況は動かせる。剣を持てないなら、剣を持つ者が軽々しく動けない理由を作ればいい。
リーゼロッテのその教えは、セシリアを「被害者」から「自分の意志で状況に関わる者」へと引き上げるための、確かな導きとなった。
「……はい。考えます。両方を守るために、自分の意志で」
静かな決意の言葉を聞き届けると、リーゼロッテはゆっくりと立ち上がった。
彼女はセシリアの前に置かれた、すっかり冷めきってしまったティーカップを引き寄せ、ポットから新しい紅茶を静かに注ぎ直した。芳醇な茶葉の香りがほどけ、温かな湯気が二人の間へ薄く広がっていく。リーゼロッテはすぐに次の問いを重ねず、セシリアがその温かさを受け取るまで待つのだった。
「少し喉を潤して。たくさん話して、頭も疲れたでしょう」
「……お心遣い、感謝いたします」
セシリアは促されるままにカップを両手で包み込んだ。陶器越しに伝わる熱が、強張っていた指先をゆっくりと解していった。一口含むと、温かい液体が喉を通り、張り詰めていた息が自然とこぼれた。
自らの本当の望みを定め、最悪を想定し、冷静に考え続ける姿勢を受け入れたことで、彼女の心には、これまでにない静けさが戻っていた。
セシリアが落ち着きを取り戻し、確かな眼差しで顔を上げたのを確認してから、リーゼロッテは再び向かいの席に腰を下ろした。
ここから先は、精神論ではない。生き残るための具体的な対処を考える時間だった。
「頭の切り替えはできたかしら?」
「はい。……お気遣い、ありがとうございます」
「なら、一緒に考えましょう。どうやって貴女を縛るあの『二つの鎖』を緩めるか。まずは外の鎖から考えましょう。王都の世論を操作し、貴女の退路を断つ『純愛劇』。これをどう無力化する?」
セシリアは必死にセシリアは必死に考えた。先ほどまで『どう従うか』しか知らなかった思考が、『どう抗うか』という筋道を探し始めた。
「あの劇は、あくまで『名もなき王子と令嬢の物語』という作り話の建前をとっています。ならば……噂を流し、あの劇の王子はグラクト殿下ではなく、第二王子であるリュート殿下のことだと大衆の認識をすり替えてしまうのはどうでしょうか。リュート殿下は表立った噂が少なく、大衆の想像を上書きするのには都合が良い対象になるかと存じますが……」
劇が持つ『作り話』という逃げ道を突き、情報の少ない人物を利用しようとするセシリアの案を聞いた瞬間、リーゼロッテはかすかに肩を揺らした。
(お兄様が、甘い悲恋の王子……)
甘い悲恋の王子という像は、あまりにも現実のリュートから遠かった。リーゼロッテは一瞬だけ口元を緩めかけたが、すぐに王女としての表情を整え直した。
「……とても斬新な着眼点ね。でも、セシリア様。仮に、その噂を上手く流し、リュート殿下が悲恋の主人公だという錯覚を大衆に信じ込ませることに成功したとするわね。……では、現在すでに王都で公演されている『第2作目』はどうなるかしら?」
リーゼロッテの問いに促され、セシリアは自らの案の『その先』へと筋道を辿った。
1作目を『王家の秘恋の真実だ』と大衆に認めさせてしまった後の世界。そこで今まさに上演されている、令嬢が愛のために婚約を破棄する物語。
「……っ。大衆は、2作目も無条件に『真実』だと思い込んで熱狂してしまいます」
自らが提案した策の致命的な欠陥に気づき、セシリアの顔から血の気が引いた。
「私たちが劇のモデルをリュート殿下にすり替え、『第1作目は真実だ』という権威を与えてしまえば、連作である第2作目の『婚約解消』も抗えない正義として大衆に肯定されてしまう。……それは結果として、私に婚約破棄を迫る世論の圧力を最大化することになります」
「ええ。狙いを逸らしたつもりで、第一側妃様の握る『劇』という武器そのものを疑いにくい事実として扱わせてしまう。……残念だけど、自滅を招く危険な手ね」
正面から否定すれば、セシリアの立場が危うくなる。劇場側に第一側妃の資本が入っている以上、強権による停止も難しい。さらに王女が劇を止めれば、かえって王家の内情を隠していると疑われる。別人にすり替えることも、敵の武器を強化するだけだった。
すべての退路を塞がれたセシリアは、ティーカップの縁を指でなぞりながら、それでも世論の圧力から逃れる活路を探す。真実という権威を与えてはならないのなら、どうすればいいのか。
長い沈黙の後、セシリアの脳裏に、王宮で幾度も見てきた流行が消費され、飽きられていく仕組みが浮かんだ。
「……価値を、落とすしかありません。王都の人々があの連作劇に熱狂しているのは、愛し合う者は結ばれるべきだ、努力した者は報われるべきだ、という願いを、あの劇が美しく満たしているからです。ならば……同じように身分差の恋が報われ、婚約を退けて愛が選ばれる物語をいくつも流せば、あの劇だけが特別な希望ではなくなります。王都の人々は、特定の令嬢の真実ではなく、ありふれた夢物語の一つとして受け取るようになるはずです。ただし、あからさまに増やせば、誰かが意図して流していると気づかれます」
「劇が持つ特別さを薄めるわけね。……ええ、とても筋の通った考えだと思うわ」
リーゼロッテは優しく微笑んで同意を示しながらも、そのまま静かに、しかし妥協のない問いを重ねた。
「でも、セシリア様。その『似たような物語を少しずつ流通させる』という手を打った場合、第一側妃様はどう動く? 実行した後の推移と、それに伴う不利益は計算できているかしら」
「推移と、不利益……」
ひとつの答えに辿り着いた安堵は、その穏やかな問いかけによってすぐに消えた。策は、実行した後の敵の動きまで計算して初めて機能する。
セシリアは、自らの案を実行した後の『第一側妃の目的と手順』をさらに深く検討した。
「……第一側妃様の最終目的は、私をグラクト殿下の側妃に据えることです。そのためには、私とアイゼンガルト家との婚約を白紙化しなければなりません」
「ええ。なら、なぜ第一側妃様は、最初からお父上の不義密通の証拠を使って、お父上自身の権限で無理やり婚約を破棄させないのかしら?」
リーゼロッテの誘導に、セシリアは息を呑んだ。
相手を縛れる不義の証拠があるのに、なぜわざわざ劇などという迂遠な手段をとっているのか。第一側妃の立場で、政治的な損益を計算する。
父が命じれば婚約は動かせる。けれど、それではアイゼンガルト家に侮辱だけが残る。武門の筆頭を正面から敵に回す危険を、第一側妃が見落とすはずはない。
「……アイゼンガルト家の、反発を防ぐためです。もし父が一方的に婚約を破棄すれば、武門の筆頭であるアイゼンガルト家は泥を塗られ、今後の政争で明確な敵に回る危険があります。ですが……劇を通じて『令嬢が王子を深く愛しており、世論もそれを支持している』という状況を作れば、アイゼンガルト家の方から身を引くか、あるいは父が『世論に押された』という大義名分を持って角を立てずに婚約を解消できるかもしれません。第一側妃様は、アイゼンガルト家の恨みを買うことなく、最も理想的な形で婚約解消へ進めようとしている……」
言い終えたセシリアは、そこで初めて自分の答えの重さに気づいた。劇は飾りではない。アイゼンガルト家を傷つけずに退かせるための、最も実現可能で、外からは穏当に見える方法なのだ。
「その見方も正しいと思うわ。では、私たちが類似の物語を目立たぬ形で流通させ、あの御方の『世論工作』の価値を失わせたらどうなる?」
「……第一側妃様は、理想的な形での婚約解消は不可能になったと判断するはずです。そして、アイゼンガルト家の恨みを買うリスクを背負ってでも、目的を達成するために、より確実な手段へ切り替える可能性が高い。……つまり、父の不義の証拠を盾にした『直接的な脅迫』に踏み切る恐れがあります。そうなれば、父の命と家の猶予が、即座に消え去りかねません」
自らの甘い想定が招く最悪の結果を思い描き、セシリアの背に冷たい汗が伝った。
「ええ。その可能性を高めてしまうわ。けれど、第一側妃様にとっても、お父上の不義は軽々しく表へ出せる材料ではない。使えば宰相家だけでなく、御自身の罪と王宮の統制まで傷つく。だからこそ、あの御方はいま劇を使っているのよ。世論工作という比較的穏やかな手段を不用意に壊せば、より危険な手段へ移る必要性を高めてしまう。つまり、その方策を実行するには『第一側妃様に世論工作を妨害されたと悟られないこと』が、私たちが猶予を保つための最低条件になるわ。だから表では、貴女は何も気づいていないように振る舞わなければならないわ」
リーゼロッテの言葉に、セシリアは深く頷いた。相手の狙いを正確に読み解いたからこそ、今自分が立っている危うさを理解した。抗うためには、抗っているように見えてはならないのだ。従うふりをしながら、退路だけを少しずつ開く。それが、いま許される抵抗だった。
「……では、どうやって実行する? 大衆の熱が自然に冷めたと錯覚させるように、第一側妃様の監視を避けて似た物語を流す手段はあるの?」
問いは、目的の確認から、実行方法の検討へ移った。リーゼロッテの導きに従い、セシリアは王都の構造と、第一側妃の持つ権力の監視網を思い浮かべた。
「……大きな劇場は使えません。家職停止中とはいえ、第一側妃様の御実家であるゼノビア侯爵家の目は、王都の大きな劇場にはまだ届くでしょう。少しでも貴族の資本や後援が入っている場所を動かせば、第一側妃様の耳に入る可能性が高い。……使うとすれば、貴族が芝居として数えない場所です。街角で語られる短い恋物語や、酒場や商人宿で口伝えに広がる噂話……そういうものなら、大きな劇場を動かさずに済みます。ただ、それを誰が、どこから流し始めるのかまでは、私には分かりません」
「ええ、悪くないわね。相手の力が届きにくい場所を使うのは、有効な方法よ」
自力で危険を読み、実行の方向まで辿り着いたセシリアに、リーゼロッテはわずかに満足げな笑みを浮かべた。
「現状、私たちが取り得る手段としては、その『下層の流通経路』を使うのが最も理にかなっていると思うわ。……そして私には、公務で慰問している王都の孤児院へ出入りする商人や職人の伝手がある。そこを直接使うのではなく、その出入りの流れを中継にすれば、商人宿や紙芝居師、辻語りの者たちへ、王女の名を出さずに、あくまで自然な流行の一つとして物語を流せるはずよ」
セシリアが導き出した方針に、リーゼロッテが実行手段を添える。危険を比較し、噂を薄めるための、現状で最も現実的な案が、ひとまず形を取った。
「……では、次は内の鎖よ。宰相閣下の不義密通。これをどうする?」
9 密室の対価と、鳥籠の観測手
リーゼロッテの問いが、旧書庫の空気を一段と冷たく張り詰めさせた。
外の鎖である『劇』への対抗策を見出したセシリアの脳裏に、再び現実が重くのしかかった。国家の政務を統べる父が犯した不義密通。第一側妃自身を巻き込むその証拠を、敵は握っている。
証拠の書簡を奪い返すか。あるいは、関係者の口を封じるか。
だが、深窓の令嬢に過ぎないセシリアに、第一側妃宮の厳重な警護を破る手立てなどあるはずもない。考えれば考えるほど、道は塞がり、彼女の顔から再び血の気が引いた。
「……わかりません。私には、あの証拠を奪う力も、父の罪を消し去る権力もありません」
震える声で限界を認めたセシリアに対し、リーゼロッテは紅茶のカップを置き、淡々と告げた。
「ええ。奪う必要も、今すぐどうにかする必要もないわ。……今は動かない。静観することが、現時点では正解よ」
「……何もしない、ですか?」
「第一側妃様の立場で考えてごらんなさい。第一側妃様が、その不義密通の証拠を公にすればどうなるか」
リーゼロッテが示したのは、証拠そのものではなく、それを使う側の危険だった。
「不義密通の相手は『第一側妃様ご自身』よ。もしそれが公になれば、単なる政治の失脚などでは絶対に済まない。王家の血統を穢した大罪として、宰相閣下は極刑を免れず、ヴェルメイユ家も連座を避けられない。……当然、貴女も巻き込まれるわ」
セシリアの肩がかすかに跳ねた。だが、破滅するのは宰相家だけではない。
「そしてそれは、あの御方にとっても完全な自滅を意味する。第一側妃様ご自身が裁かれるだけでは済まないわ。第一王子や私にまで『本当に王の血を引いているのか』と血統の疑いをかけられ、破滅する。よくて一生幽閉、悪ければ王族としての命脈を断たれる。あの証拠は、表に出した瞬間、宰相家と第一側妃様の双方を裁きの場へ出すものなの」
相手を完全に支配するために、第一側妃は、自らの罪と子供たちの血統、家門の存続までを宰相家支配の材料にした。
証拠は強い。だが、強すぎるがゆえに、使い方は限られる。
「だからこそ、あの御方が、あれほど言い逃れの利かない証拠を、自分から表に出すはずがないのよ。私たちが今すべきことは、不義密通そのものを無かったことにする根本解決じゃない。あの御方に『セシリアは恐怖で追い詰められ、完全に支配下に入りつつある』という一定の満足を与え、暴走させず、こちらが時間を得ることよ」
リーゼロッテはそこで一度、紅茶の水面へ視線を落とした。その短い沈黙は、恐怖を煽るためではなかった。セシリアが『証拠を奪う』発想から、『証拠を使わせない』発想へ移るための間だった。
セシリアが小さく息を呑んだ。その間に、リーゼロッテは第一側妃が次に選べる手段を、さらに整理していった。
「では、あの御方は次にどう動くか。……四年前のルナリア様の一件以降、あの御方は王妃様から警戒され、第一王子に深く食い込んでいる第三側妃派からも動向を探られている。表で、宰相閣下に露骨な圧力をかけたり、アイゼンガルトとの婚約破棄を強引に進めたりすれば、即座に足元を掬われるわ」
だからこそ、あの御方は外部の監視が届きにくい『第一側妃宮』という密室にセシリアを囲い込んだ。表で動けば疑われる。だから、疑われにくい内側でセシリアを折ろうとする。
「あの御方の目的は、貴女を第一王子の側妃として取り込み、宰相家の権力を後ろ盾にして後宮での発言力を取り戻すこと。……もちろん、人を支配する方法は一つじゃないわ。贅沢や特権を与え、そこに依存させる甘い罠を使ってくる可能性もある」
「甘い、罠……」
「ええ。でも、もしその手で来るなら、貴女は流されたふりをして、受け取れるものだけ受け取り、内心を渡さなければいい。特別な対処はいらない。……私たちが想定し、防御を固めなければならないのは、対処を一つでも間違えれば心と命が危うくなる『最悪の手』の方よ」
甘い罠なら、受け流せばよい。問題は、受け流す余地すら奪われる場合だった。
「貴女に父の不義を突きつけた時、ひどく怯え、逃げ場を失った顔を見せたはずよ。その気の弱さと孤立を見て、あの御方はこう計算した可能性が高い。『わざわざ大きな危険を冒して身体を傷つけずとも、密室で精神的に追い詰めるだけで、この娘は自ら第一王子の側妃になると泣きついてくる』とね」
側妃として利用する予定の娘を暴力で損なうことは、第一側妃にとっても本意ではない。もし命を危険に晒せば、宰相家を取り込むという計画そのものが完全に破綻するからだ。
「あの御方は、以前の事件で、死が制御できない危険だと知っているはずよ。危険な兆候さえ監視しておけば管理の届く『精神支配』は、選びやすい手よ。……だから、まずはこれに対する防御を固めなさい」
セシリアは両手を固く握りしめた。これから自分が戻らなければならない場所で何が行われるのか、その輪郭が見えてしまった。
「ならば、どうすれば……私は、あの場所で正気を保てるのでしょうか」
「戦おうとしないことよ」
悲痛な問いに対し、リーゼロッテは離宮で身につけてきた、密室で生き延びるための防御を口にした。
それは、ただの作法ではなかった。離宮で身につけた、相手の前提を読み、相手が望む答えだけを見せるための知恵だった。本来なら、家族の内側に留めておくべきものだ。けれど今は、その一部をセシリアへ渡さなければならない。セシリアが欺き続けられなければ、第一側妃は証拠を使う必要に追い込まれ、王宮の混乱は、制御できない形で始まる。
「言葉の裏にある『前提』を読むの。相手が今、何を欲しているか。……あの御方が欲しいのは、貴女が完全に絶望し、自らの意志を手放して支配下に落ちたという『成果』よ。なら、それを見せればいい」
リーゼロッテは、セシリアの奥底を見据えた。
「心の中では冷静に相手を観察しなさい。そして表向きは、相手が望む通りの『心が折れた哀れな令嬢』の仮面を完璧に被るの。内心を守り、精神支配の段階であの御方を騙し切り、満足させること。それが、密室における今考え得る生存の道よ」
屈服するのではない。屈服したように装うのだ。
その考え方の転換に、セシリアの強張っていた肩の力がふっと抜けた。耐えるだけの被害者ではなく、相手を欺くために、自分で選ぶ仮面。それならば、どれほど言葉で傷つけられても、心の奥にある望みだけは守り抜くことができる。
「……はい。私、やります。あの御方が望む通りに、心が折れたふりをして、必ず騙し通して見せます」
静かな決意を口にしたセシリアの表情に微かな安堵の色が浮かんだ。
だが、次の瞬間、リーゼロッテはその安堵を断ち切るように、冷たい言葉を告げた。
「――でも、もし貴女の被った仮面が見抜かれて、精神支配では屈服しないとあの御方が悟った時は……大きな危険を冒してでも、直接的な暴力に切り替えてくるわ」
旧書庫の温度が、一気に数度下がったかのように思えた。
セシリアの息が止まった。リーゼロッテは目を逸らさず、四年前の事実を告げた。
「ルナリア様が受けた地獄よ。傷つけられ、癒やされ、また傷つけられる。終わりの見えない苦痛を、貴女にも向けてくる可能性がある」
「あ……」
セシリアの唇から、形にならない恐怖が漏れ出た。
深窓の令嬢に過ぎない彼女にとって、それは想像を絶する地獄だった。なぜ、生き延びる方法を示してくれた直後に、そんな絶望を突きつけるのか。
「なぜこんな残酷なことを言うのか、わかるかしら」
震えるセシリアを見据え、リーゼロッテは為政者としての冷たい優しさで告げた。
「いざ直接の苦痛を加えられた時、想定外の事態で恐慌に陥れば、貴女が必死に取り繕った仮面は一瞬で崩壊するからよ。……自分がどれほど死と隣り合わせの場所にいるか、正しく認識しなさい。最悪を想定していなければ、極限の場では生き残れないわ」
痛めつけるためではない。心を折らせないために、最悪を先に見せる警告だった。知らない恐怖は人の心を一瞬で壊すが、知っている恐怖なら、震えながらでも準備ができる。
死の恐怖を前にしてもなお、セシリアは逃げ出さなかった。真っ青な顔で、震える両手を強く組み合わせ、それでも、自らの意志で踏みとどまった。
「……耐え、ます。どんなことがあっても、レオンハルト様との未来のために……っ」
涙を浮かべながらも、セシリアは目を逸らさなかった。
その覚悟の重さをしかと受け止めたリーゼロッテは、最後に、本当の命綱を示した。耐えろと言うだけなら、それは第一側妃と変わらない。リーゼロッテが渡すべきものは、耐えた先に、外へ出られると信じられる仕組みだった。
「泣き叫んでもいい。無様な姿を晒して、屈辱を受けてもいい。身体が動く限りでかまわない。……だから、一日、一回だけ、合図を出すところまで耐えなさい」
「一日、一回だけ……」
「ええ。第一側妃宮にある貴女の部屋の窓に、侍女に見られても不審に思われない窓辺の飾りとして、リボンを結んでおきなさい。青は『無事』。赤は『相談あり』。どちらもない時は、限界を迎えた合図として扱うわ」
リーゼロッテは、王族としての権威と、ひとりの少女としての祈りを込めて、救出の約束を口にした。
「もし相談が必要なら、赤いリボンに替えなさい。限界を迎えて、これ以上は耐えられないと思った時は、何も出さなくていい。……毎日、私の側で貴女の窓を確認します。私自身でなくとも、私の命じた者が必ず見るわ。赤いリボンなら、その日のうちに接触の道を作る。何も出ていなければ、その日のうちに私が必ず、第一側妃宮から貴女を外へ連れ出すわ」
それは、第一側妃宮へ戻るセシリアのための、救済の仕組みだった。だが、リーゼロッテの保証はそれだけでは終わらなかった。
「そして……もし耐えきれずに助けを求め、方策が失敗に終わったとしても、私は王女として記録に残る責任を負って、アイゼンガルト家と交渉し、必要なら、王女である私自身が証人に立ち、第一側妃宮で貴女が強いられた事情を示してでも、貴女の望みである『レオンハルト様との公式な結婚』をかなえてみせる」
セシリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
それは、無条件の救済ではなかった。しかし、耐える覚悟への対価として示された、逃げ道を含む保証だった。リーゼロッテはそこで、セシリアが支払う対価も告げた。
「貴女が一日耐えれば、私たちは一日準備できる。王妃様へ届く道を探し、あの御方が証拠を公にできない形を作る時間が増える。貴女が耐えることは、ただ貴女自身の未来を守るためだけではないわ。私たちがこの王宮の混乱を制御するための時間にもなるの」
「……戻ります、リーゼロッテ様。私は、折れたふりをして、毎日、窓辺に私の答えを残します」
涙を拭って立ち上がったセシリアの顔には、もう怯えるだけの令嬢の面影はなかった。
自らの意志で第一側妃宮へ戻っていく彼女の後ろ姿を、リーゼロッテは静かに熱を帯びた瞳で見送った。青も、赤も、何もない窓も、第一側妃宮の内側にいるセシリアの意思を外へ知らせる答えになる。窓辺に意味が残る限り、彼女は完全には孤立しない。




