第7話前編 『箱庭の同郷者』
1 崩壊した夢と、唯一の同郷者
自室へ戻った瞬間、レティシアは扉に背を預けたまま、その場にずるずると崩れ落ちた。
鍵をかける音すら、ひどく遠く聞こえる。
胸が苦しい。喉の奥が焼けるように熱いのに、手足の先だけが妙に冷たかった。
法廷で聞いた言葉が、少しも頭の中から出ていかない。
王家の寝室。奉仕役の令嬢。血統の管理。対価。処置。制度。
どの単語も、一つ一つなら意味は分かる。けれど、それらが全部ひとつの現実として繫がった瞬間、自分がこれまで見ていた世界の色が、まるごと剝がれ落ちた気がした。
「……ちがう」
かすれた声が、誰もいない部屋に落ちる。
こんなの、ちがう。そう言い足そうとしても、うまく息が続かない。
ベッドの端に縋るように手を伸ばし、それでも立ち上がれなかった。
頭の中では、これまでの出来事が勝手に巻き戻されていく。
入学式。再会。塩対応。裁判。夜の温室。
あの時までは全部、「そういう展開」なのだと思っていた。
自分は没落寸前の子爵令嬢で、でも本当は攻略対象に見初められる特別な位置にいて、最初はうまくいかなくても、イベントを重ねればちゃんと距離が縮まっていくのだと。
だって、そういうものだったからだ。少なくとも、レティシアの知っている“物語”の中では。
王子は高貴で、孤独で、少し傷ついていて、だからヒロインだけがその心を救える。
そういう構図を、何度も見てきた。好きだったし、憧れてもいた。
だから、この世界でも、そうなのだと思い込んでいた。
けれど、違った。
グラクトは、ただ孤独な王子様ではない。
王家の血統を守るための制度の中心にいて、本人の気持ちがどうであれ、その仕組みの中で生きている存在だった。
そこには恋愛イベントなんて甘い言葉で隠せるものは何もない。
気づけば、胃の奥がひっくり返るような吐き気が込み上げていた。慌てて口元を押さえる。涙までにじんでくる。
何が一番嫌なのか、自分でもうまく言えない。
他の女の子がいるから、というだけではない。
もっと深いところで、王子だから仕方ないとか、王家だから必要だとか、そういう理屈で“人の身体”が最初から制度の中へ置かれていることそのものが、どうしても気持ち悪かった。
しかも、そのことをグラクト自身が、罪悪感もなく当然の仕組みとして受け入れているらしいことが、たまらなく怖かった。
温室で見せた、あの弱った顔。
自分の言葉に少しだけ救われたように見えた、あの表情。
あれが噓だったとは思わない。思いたくない。
でも、その人は同時に、自分にはどうしても受け入れられない世界の中にいる。
その現実を知ってしまった以上、昨日までみたいに「好き」「推し」「イベント成功」なんて思えない。
思えないはずなのに、それでも胸の奥では、あの人の顔を思い出してしまう。
「もう、やだ……」
ぽろ、と涙が落ちた。
世界が違う。
そう言ってしまえば簡単なのかもしれない。
けれど、自分だってこの世界で生きてきた時間がある。子爵令嬢としての記憶も、家の没落も、食堂で打たれた頰の痛みも、全部“現実”だった。
なのに自分だけが、それをずっとゲームの画面みたいに処理していた。
都合の悪いものはシナリオの障害だと思い、意味の分からない悪意さえイベントに変換して、平気な顔で突っ込んでいた。
今になってようやく、その無知がどれだけ危うかったのかが分かり始めている。
でも、分かり始めたからこそ余計に怖かった。
この世界の人たちは、こんなことを「常識」として生きている。
じゃあ、自分が今感じているこの嫌悪や恐怖は、誰に説明すればいいのだろう。
ティナには説明された。
でも、あれは“理解”ではなかった。
この国の制度として、事務的に整理されただけだ。
自分が泣きそうになるくらい嫌だったこと。
気持ち悪いと思ってしまったこと。
グラクトに触れられそうになった瞬間、身体が勝手に拒絶したこと。
そういう、理屈ではない感覚を、この世界の誰に話せるのか。
その時、不意に脳裏にあの声が蘇った。
『――――ちょっと拾うの、手伝ってくれる?』
日本語。
完璧な日本語で、何でもないみたいに話しかけてきた、あの時のヴィオラ。
レティシアははっと顔を上げた。
ヴィオラ・オルネ・クロムハルト。グラクトの婚約者で、冷たくて、綺麗で、何を考えているのか分からない令嬢。ずっと「悪役令嬢ポジション」みたいに思っていた相手。
でも、違った。
少なくとも一つだけ、絶対に違わないことがある。
あの人は、自分と同じ日本語を知っている。
それがどういう形なのかは分からない。転生者なのか、記憶持ちなのか、自分と同じなのか、それとも違うのか。
でも少なくとも、この世界でたった一人、自分が今感じている“気持ち悪さ”や“怖さ”を、言葉の前提から共有できる相手かもしれない。
「……ヴィオラ様」
口にしてみると、その名前だけが妙に現実味を持った。
怖い。正直、すごく怖い。
もし拒絶されたらどうしよう。もし「そんなことも知らなかったの」と冷たく笑われたら。もし自分の方が、ただのおかしな異物だと突きつけられたら。
それでも、他に思い浮かばなかった。
今の自分の、このどうしようもない生理的嫌悪と恐怖を説明できる相手。
この世界で、自分が「気持ち悪い」「怖い」「無理だ」と思ったその感覚を、頭ごなしに常識で押し流さずに受け止められるかもしれない相手。
それは、たぶんヴィオラしかいない。
レティシアは震える膝に力を込めて立ち上がった。
鏡を見ると、顔色はひどい。目元も赤い。とても人に会いに行く顔ではなかった。
それでも、今さら整える気にはなれなかった。
取り繕ったって仕方がない。
むしろ、こんなふうに崩れたまま会いに行かなければ、もう一歩も動けない気がした。
上着を羽織り、扉へ手をかける。
一度だけ深呼吸をしたが、胸の震えは止まらなかった。
それでも、レティシアは部屋を出た。
王立学園の夜の廊下は静かで、石床を踏む自分の足音ばかりが妙に大きく響く。
誰かに見つかったらどうしようとか、こんな時間に婚約者の部屋を訪ねるのはまずいのではないかとか、そういう常識も頭の片隅では分かっていた。
けれど今は、それよりも「行かなければ、たぶん自分はこのまま一人で壊れる」という感覚の方が強かった。
ヴィオラの私室の前に立った時には、指先がひどく冷えていた。
数秒、ためらう。引き返そうかとも思う。
でも、ここで逃げたら、もう誰にも言えなくなる。
レティシアは唇を嚙み、意を決して扉を叩いた。
その音は、夜の静寂の中で、驚くほど小さく、けれど決定的に響いた。
崩れた夢の残骸を抱えたまま、彼女は今、唯一の“同郷者”の前に立とうとしていた。
2 自由と責任の鏡
扉が開いた時、ヴィオラはまだ机に向かっていた。
卓上には、魔導回路の図面と細かな計算式がびっしりと走る羊皮紙が広がっている。インク壺、金属針、焼けた魔導線の切れ端。公爵令嬢の私室というより、ほとんど小さな工房だった。
だが、入ってきたレティシアの顔を見るなり、ヴィオラはすぐにペンを置いた。
「……ひどい顔ね」
嘲りではなく、ただの事実確認だった。
レティシアは扉を閉めたまま、その場から動けない。何から話せばいいのか分からない。頭の中にあるものが多すぎて、言葉にしようとすると全部が喉の奥で詰まってしまう。
ヴィオラは数秒だけ黙って彼女を見ていたが、やがて椅子を引き、向かいの席を示した。
「立ったまま壊れるつもりなら帰りなさい。話すつもりなら座って」
その言葉に押されるように、レティシアは椅子へ腰を下ろした。
指先はまだ細かく震えている。
ヴィオラは自分で茶を注ぎ、一杯を無言でレティシアの前へ置いた。それから自分も向かいへ座る。
先に口を開いたのは、レティシアだった。
「わたし……前の世界では、十五歳で死んだの」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。
「こちらでは十四になった春、王都のパレードで頭を打って、急に思い出したの。自分が何者だったかも、この世界を知っている気がした理由も、その時に全部繫がって……」
そこで一度、レティシアは唇を嚙んだ。
そして、ここは乙女ゲームみたいな世界なのだと思ったことを、ようやく口にした。
「没落寸前の子爵令嬢が、学園で王子様に見初められて、恋をして、救われる話なんだって。……勝手に、そう思い込んでた」
声は震えていた。
だが、一度こぼれ始めると、もう止まらなかった。
入学式。再会。温室。裁判。
全部をそういうイベントだと思っていたこと。
グラクトの孤独も、本物の苦しみも見えていたのに、その奥にある王家の制度を何一つ見ていなかったこと。
法廷で暴かれた奉仕者制度を聞いて初めて、自分がどれほど危ない場所へ踏み込んでいたのか知ったこと。
それでも彼を嫌いきれず、なのに身体は拒絶してしまったこと。
レティシアは最後にはほとんど泣きながら吐き出した。
「好きだって、思ってたのに……怖いとも、気持ち悪いとも、思っちゃったの……っ! 全部終わりにしたいわけじゃないのに、自分が何をどうしたいのか、もう、全然分からない……」
ヴィオラは最後まで遮らなかった。
やがて沈黙が落ちる。
「……そう」
短い一言だった。
「じゃあまず、一つだけ教えてあげる。貴女が壊れたわけじゃないわ。ようやく現実にぶつかっただけ」
レティシアが、赤くなった目で顔を上げる。
ヴィオラは椅子の背に寄りかかり、静かに続けた。
「そしてもう一つ。私は貴女を、可哀想な同郷だからって甘やかすつもりはないわ」
その声は冷たい。
だが、追い払う冷たさではなかった。
「自分が何を見誤っていたか、ちゃんと理解しなさい。でないと、また同じことをする。今の貴女は、現実に傷ついたから混乱しているだけで、まだ自分の足で立ち直ったわけじゃない。ここで慰めだけ与えられても、どうせまた“物語”の中へ逃げるでしょう」
そしてヴィオラは、ふいに自分のことを語り始めた。
「私はね、十二歳の時から王家に売られているのよ。婚約という綺麗な名前が付いているだけで、本質は奉仕役と大差ないわ。公爵令嬢だからこそ、個人の意思など最初から後回しにされ、婚約の価値も、王妃候補としての利用価値も、すべて他人の都合で計算されてきた。自由になりたいと思っても、『公爵令嬢なのだから』で全部潰される。工房で回路を引いていたかったのに、誰かの飾りや、血を繫ぐための装置になるために生まれたわけじゃない。……だから、ずっと足搔いてきたわ。十二歳から、ずっとね」
レティシアは黙ってそれを聞いていた。
ヴィオラは冷静で、きつくて、完成された人に見えていた。
けれど実際には違う。前の世界の知識だけで全部を見通していたのではなく、この世界で傷つき、足搔き、その中で今の場所まで来たのだ。
「ただ……私がその足搔き方を、本当の意味で教わったのは、この王国に来てからよ」
ヴィオラの視線が、少しだけ遠くなる。
「前の世界の自分は、貴女より少し先を生きていた。夢だけで現実は越えられないことも、才能だけでは組織に勝てないことも、一応は知っていたつもりだった。でも、それを“女として、どう生きるか”の形にまで落として見せてくれたのは、ルナリア様だった」
理不尽な盤面の中でも、感情だけに溺れず、けれど感情を捨てもしない。
自由には責任が伴うこと、その責任を果たすには実力が要ること。
「私にとって“先に立つ女”は、ルナリア様なの。だから私は、公爵令嬢のまま王宮に飲み込まれるつもりはないわ」
婚約は外す。
研究者として生きる。
王妃だの伴侶だの、そういう役割に閉じ込められるつもりはない。
その宣言は、レティシアにとって衝撃だった。
ヴィオラは最初から強かったのではない。
自由になりたいと願うだけでなく、そのために何を失い、何を引き受けるかまで考えているのだ。
そして、ヴィオラは真正面から問いを返してきた。
「で、貴女はどうしたいの?」
逃げ場のない問いだった。
これまでは簡単だった。
好きな相手を選んで、イベントを踏んで、ルートに入る。
望みなんて、最初から用意された選択肢の中にあった。
でも今、ヴィオラが突きつけているのは、そういうものではない。
「現代の感覚を守りたいなら、逃げることはできるわ。王家の盤面から降りて、身の丈に合った場所へ戻る。それも立派な自己決定よ。けれど、まだここに関わるつもりなら、無知なままでは駄目。貴女はもう一度盤面を踏み抜いている。自覚なく王子へ近づき、自覚なく周囲を刺激し、自覚なく『自分だけは特別』で動いた。運が悪ければ、貴女一人の破滅では済まなかったのよ」
ヴィオラの言葉は容赦がなかった。
「この現実に関わるなら、自分が何を壊し得るかを知りなさい。知った上で、それでも進むのか、降りるのか、選ぶのよ」
沈黙が落ちた。
レティシアは膝の上で手を握りしめた。
自由、という言葉が、これまでとはまるで違う重さで胸へ落ちてくる。
好きな人を選べることが自由なのではない。
逃げるのか、残るのか、その結果を引き受けて自分で決めることが自由なのだ。
「……わたし、まだ分からない」
やっと、それだけ言えた。
グラクトをどう思えばいいのかも分からない。怖かったし、嫌だった。でも、それで全部嫌いになれたわけでもない。
その告白に、ヴィオラは静かに返した。
「当然でしょうね。感情は、知識を入れた瞬間に綺麗に切り替わる部品じゃないもの」
その言い方がヴィオラらしくて、レティシアは涙の滲んだまま、ほんの少しだけ息をつけた気がした。
「今日は答えを出さなくていいわ。でも次に動く時は、“イベントだから”じゃなく、自分の意志で動きなさい」
逃げるなら逃げるでいい。
戻るなら戻るでいい。
ただし次は、誰かが用意した物語に乗るんじゃなくて、貴女自身が選ぶこと。
その言葉は、慰めではなかった。
けれどレティシアにとっては、初めて与えられた現実的な足場だった。
泣いて終わるのではなく、ここから先を自分で決めろ。
そう言われたのだ。
レティシアは赤くなった目のまま、ゆっくりとうなずいた。
まだ答えはない。自分が逃げるのか、関わるのかも分からない。
けれど少なくとも、もう「ゲームだから」「イベントだから」では動けない。
そのことだけは、はっきり分かった。
夜の静かな私室で、二人の転生者はようやく同じ地平に立った。
同郷だから救われるのではない。
同郷だからこそ、誤魔化せない現実を突きつけ合う。
それが、この箱庭で生き延びるための、最初の対話だった。
3 前世の密談と、為政者の葛藤
レティシアの足音が廊下の奥へ消え、私室に沈黙が戻った。
ヴィオラはしばらく扉を見つめたまま、机上の冷めかけた紅茶へ視線を落とした。レティシアが触れたままのカップには、まだわずかに温もりが残っている。
「……もういいわ」
その一言に応じて、奥の内扉が静かに開いた。
リュートは無駄な前置きもなく部屋へ入り、レティシアが先ほどまで座っていた椅子を一瞥した。その赤い瞳には、同情でも警戒でもなく、盤面の駒を見極める冷静さが宿っていた。
「あの子は、どうだった?」
ヴィオラは背もたれに身を預けた。
「若いわね。あまりにも」
答えは短かったが、そこに含まれる意味は重い。
悪意はない。むしろ、驚くほど真っ直ぐだ。
でも、真っ直ぐなことと現実を知っていることは別だ。
「あの子は前の世界でも、こちらの世界でも、大人として責任を引き受ける前に全部を中断されたまま来てしまった。だから“王子様への憧れ”と“王家の制度の醜さ”を、同じ現実として処理できなかったのよ」
思春期なんて、誰だって一度は夢を見る。自分だけが特別で、誰かの救いになれて、運命みたいなものが用意されていると。自分たちだって、そういう年頃を通ってきた。ただ、自分たちはその夢を壊される現実を、もう知っている。あの子は今、ようやくそこにぶつかったばかりなのだ。
「だから、あそこまで拒絶した、と」
リュートの確認に、ヴィオラは頷く。
「あれは演技じゃないわ。身体が先に理解したのよ。気持ち悪い、怖い、無理だって。でも同時に、まだグラクト殿下を嫌いきれない。だから余計に苦しい」
そしてヴィオラは、冷徹に付け加えた。
「その反応そのものは、むしろまだまともよ。本当に壊れていたら、あそこでもまだイベントの言葉に逃げるでしょう。でも彼女は、ちゃんと吐き気を覚えた。自分が何を踏み抜いていたか、ようやく分かったのよ」
「……それで即座に使えるわけでもない」
リュートが静かに言うと、ヴィオラも当然だと答える。
「ええ。少なくとも今は、彼女に役なんて与えられないわ」
グラクトの婚約候補の代替品みたいな位置へ押し込んだ瞬間、レティシアはまた物語の中へ逃げ込む。自分で選ぶ前に役を与えられたら、何も変わらない。
だから現時点では、彼女を政治的スキームにはまだ使えない。
ただし、利用価値がないとは言わない。
「あの無自覚な全肯定は、殿下にとって他で代替できない。だけど、本人がまだ“残るのか、降りるのか”を決めていない。その段階で、こちらの都合を被せるのは下策よ。未熟だからこそ、今ここで役を与えたら壊れるわ」
「同感だ。今の彼女は、まだ自分の感情に名前をつけている途中だ。ここで誰かの駒として意味づけすれば、また別の形で盤面を乱す」
そこまで話して、ようやく話題は別の場所へ移った。
グラクトのことだ。
ヴィオラはその沈黙を見て、率直に問うた。
「……まだ、割り切れないの?」
リュートは、しばらく迷った末に、低く認めた。
「兄上は、思っていた以上に本物だった」
第一回裁判だけではない。今回もそうだ。
学則を理解し、その上で王家の論理を被せて、制度を支える言葉に変えている。しかもエドワルドまで、それを自分の政治言語の中へ取り込んだ。
リュートが作ったのは、法治の箱庭だった。特権階級を合法的に削り、いずれ王権すら法で縛るための実験場。だが、もしグラクトが本当に“王として法を担える器”を持ち始めているのだとしたら――――。
理屈の上では、あり得る。
最後に目指す立憲秩序、その象徴として兄を据える未来が。
「象徴としての王、ということね」
ヴィオラが言い換えると、リュートは頷く。
「王家の正統性は、今この国で法を通す最大の燃料だ。全部を壊して共和へ行くことも理論上はできる。けれど、摩擦が大きすぎる。血が流れすぎる。もし兄上が、自分の意志で制限される王になれるなら、犠牲は減る」
そこまでは、為政者としての冷徹な論理だった。
だが、その先に落ちた沈黙が、それだけでは済んでいないことを示していた。
「……でも、それをあなたが受け入れられるかは別でしょう」
ヴィオラの静かな言葉に、リュートの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
「――――母上を奪った男だ」
絞り出すような声だった。
直接手を下したのはセオリスでも、あの日、母を守るべき立場にいながら、何も知らず、何も見ず、結果としてあの悲劇の中心にいたのは兄だ。
頭では分かっている。今の兄は、あの頃とは違う。法を理解し、責任から逃げず、自分の罪にも向き合い始めている。
でも、それで母が戻るわけではない。
ヴィオラは、その言葉を受け止めたまま短く息を吐いた。
思春期を通ってきた二人には、レティシアの未熟さがよく分かる。夢のまま現実へ飛び込み、傷ついて初めて自分の足元を見る、その危うさも。
だが同時に、自分たちはもうその位置へ戻れないことも知っていた。
ヴィオラは十二歳で王家に買われ、公爵令嬢という立場の不自由さを叩き込まれた。リュートは五歳で前世を思い出し、母の死によって、感情と合理を切り分けてでも盤面を読む側へ立たされた。
恋や憧れを、ただの夢のまま抱えていられる季節は、とっくに終わっている。
だからこそレティシアは眩しくもあり、危うくもある。
そしてグラクトをどう扱うかという問いは、彼らにとって、もはや子供じみた好悪では決められない場所まで来ていた。
「合理で言えば、殿下を使う方が正しいのかもしれないわね」
ヴィオラがそう言うと、リュートは苦く笑った。
「感情では、そうならない」
その返答に、ヴィオラはあっさりと頷いた。
「でしょうね。でも、今ここで答えを出す必要はないわ。可能性として認識しておけば十分でしょう。今すぐ『許すか壊すか』まで決めようとするから、余計に苦しくなるのよ」
「……簡単に言うな」
「簡単ではないわ」
ヴィオラは即座に切り返す。
「感情と合理が綺麗に一致するなら、誰も苦労しない。少なくとも今のあなたに必要なのは、“そういう未来も理屈の上ではあり得る”と認めることだけ。そこから先は、盤面がもっと進んでから考えればいいのよ」
リュートはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「……本当に、面倒な盤面だ」
「今さらでしょう」
その返答に、二人の間で初めて、ほんのわずかに空気が緩んだ。
暖炉の火がまた小さく爆ぜる。
レティシアは今、泣きながら自分の選択へ向き合おうとしている。
リュートは、王として立ち始めた兄を使うのか壊すのか、そのどちらもまだ決められない。
そしてヴィオラは、その両方を見据えながら、自分の自由のために計算を続けている。
箱庭の中で、それぞれが違う形で選ぶ責任へ追い立てられていた。
その夜の密談は、誰の結論も出さなかった。
だが、結論が出ないまま盤面を見据えること自体が、もう子供の思考ではない。
合理と憎悪。
自由と責任。
夢と現実。
そのすべてを抱えたまま、それでも前へ進むしかないところまで、彼らはすでに来ていた。




