第7話後編 『王の無知』
4 不敬を免除された密室
学園裁判が下され、夜の温室での密会が終わった、さらにその後の深夜。
西の次期当主にして第一王子の正式な婚約者であるヴィオラの私室を訪ねてきたのは、グラクトだった。
取り次ぎを告げる侍女の声を聞いた瞬間、ヴィオラは一度だけ目を閉じた。まさか、来るとは思っていなかった。
ただ、温室でのレティシアとの逢瀬において、自分の中にある得体の知れない「空白」と、相手との決定的な「認識のズレ」を感じ取り、その理由を誰にも説明されぬまま放置できるほど、今の第一王子は鈍くない。
「……お通しして」
短くそう告げると、ほどなくして扉が開き、金髪金眼の王子が姿を現した。
昼間の法廷で見せた威厳は残っている。だがその輪郭の内側には、明らかな疲労と戸惑いが沈んでいた。王子として訪ねてきたのではない。少なくとも今夜だけは、一人の答えの出せない少年としてここへ来たのだと、ヴィオラにはすぐに分かった。
グラクトは入室すると、短く詫びた。
「夜分にすまない」
その声には王族らしい抑制があったが、同時に隠しきれない切迫もあった。
ヴィオラは椅子に腰掛けたまま、淡々と受けた。
「謝罪は結構ですわ、グラクト殿下。ご用件は分かっておりますので。ですが、その前に一つだけ条件がございます」
グラクトの眉がわずかに動く。
ヴィオラは視線を逸らさずに続けた。
「今からわたくしが申し上げる無礼な言葉について、後から『不敬』に問わないと、この場でお約束くださいませ」
室内の空気が少しだけ緊張した。
王族へ向けて、先にそこまで釘を刺す令嬢など普通はいない。だがヴィオラは表情ひとつ変えず、王子をまっすぐ見返していた。
グラクトはしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。
「……分かった。今夜ここで聞くことについて、私は君を不敬に問わない」
「口約束では弱いですわね」
ヴィオラは即座に返した。
「感情を害しても、それを理由に処分も不利益も与えないと、そこまでおっしゃっていただけますか」
グラクトは一瞬、目を細めた。
王子としての矜持からすれば、明らかに踏み込まれた要求だった。だが彼は怒らなかった。むしろ、そこまで言わせなければならないほど、自分が今から聞こうとしていることは重いのだと理解したのだろう。
「……誓おう。感情を害しても、それを理由に君へ処分も不利益も与えない。これでいいか」
「十分ですわ」
そこで初めて、ヴィオラは背もたれへ軽く身を預けた。
そして核心を、何の迂回もなく突いた。
「レティシア嬢の振る舞いと、殿下ご自身の『制度』の間に生じた決定的な断絶……その理由が分からないのでしょう?」
グラクトは否定しなかった。
むしろその問いがあまりに正確だったせいか、取り繕う余地を失ったように短く頷いた。
「……彼女は、私を恐れてはいなかった。だが、私が王族として背負っている血統管理の制度について、まったく無理解だった。そして私自身も、自分が彼女に触れようとした時……なぜ自分がひどく恐ろしく、忌まわしい存在のように感じられたのか、本当に分からないのだ」
その言葉は言い逃れではなかった。本心からの困惑だった。
温室でのレティシアは、恋愛劇の甘い展開を妄想して浮かれていただけだ。だが、王族としての重圧を取り戻しかけていたグラクトの視点からは、その「あまりにも現実が見えていない無防備さ」が、かえって『王家の制度に対する本能的な怯えと逃避』のように映ってしまったのだ。
ヴィオラはそれを聞き終え、静かに言った。
「……そうでしょうね。殿下には、その発想自体が最初からないのでしょうから」
5 制度に対する生理的嫌悪
ヴィオラは遠回しな表現を捨てた。
「市井の感覚から見れば、愛もなく他の令嬢たちと管理された関係を持つ王子など、どれほど政治的に正しくとも、恐怖と嫌悪の対象でしかないのですわ」
グラクトはそこで初めて、はっきりと息を止めた。
「……伯爵子息の暴力と、王家の血統管理制度を、同一のものだと言っているのか?」
「いいえ」
反発が混じったグラクトの問いを、ヴィオラは即座に否定した。
「わたくしが申し上げているのは、制度の法的整理の話ではなく、感じ方の話ですわ。前者は私的な欲望による強要であり、後者は王家の正統性維持のための公的制度です。その区別くらい、この国の高位貴族なら理解しております。……ですが、問題は『その制度に自分が巻き込まれると想像した時の感覚』ですわ」
「感覚……?」
「婚約も契約もなく、ただ個人的に惹かれた相手がいるとする。その相手が、王子である以上すでに複数の令嬢と管理された肉体関係にあり、それを当然としていると知った時、その娘が最初に抱くのは理性的理解ではありません。もっと直接的な、『生理的拒絶』です」
グラクトは、何も言えなくなった。
彼にとって血統の管理は、善悪の問題ではなかった。王家の制度は、好き嫌いの対象ではなく、物心ついた時からそこにある“仕組み”でしかなかったのだ。面倒だとか、息苦しいとか、そういう感情はあっても、それ自体が誰かに嫌悪されるという発想は最初からなかった。
だから、分からなかった。
レティシアの無理解が何を意味するのかも。自分の背後にあるものが、誰かににとってどれほど生々しい恐怖の対象になり得るのかも。
ヴィオラはその事実を、容赦なく言語化した。
「救われたかった相手が、同時に、自分には到底受け入れられない生々しい制度の内側にいる。しかも本人には、その制度が嫌悪される理由すら見えていない。……それが、普通の娘にとってはどれほど恐ろしく、気持ち悪いことか、お分かりになりませんの?」
それは、あまりにも身も蓋もない現実だった。
グラクトはその場に立ち尽くしたまま動かなかった。王子としての威厳も、裁判長としての断定もそこにはない。
『――――私は、自分が当然だと思っていた前提が、これほどまでに無神経で暴力的なものだと気づいていなかったのか』
夜は深く、窓の外では風が弱く枝を鳴らしている。
奉仕制度は、彼にとって善悪の対象ではなく、ただ存在する仕組みだった。だからこそ、その仕組みの中にいる自分自身が、誰かに恐怖と嫌悪の対象として見られ得るという事実は、彼にとって初めて触れる異物だった。
それは、王として育てられた少年が初めて知る、市井の感覚だった。
6 ルナリアとソフィアの真実
グラクトが言葉を失ったまま立ち尽くしていると、ヴィオラはわずかに視線を伏せ、それからもう一段だけ深いところへ刃を入れた。
「殿下が今苦しんでいるのは、レティシア嬢との断絶だけではありませんわ。もっと前から、ずっと同じことを見落としていたからです」
そして彼女は、過去へ刃を向けた。
「……ルナリア様のことですわ」
その名が出た瞬間、空気が少しだけ張った。
グラクトにとって、ルナリアはずっと理解しがたい女だった。異国の価値観を持ち込み、王宮の空気を読まず、どこか王家へ膝を折り切らない第二側妃。そして何より、自分の情交奉仕者として打診された際、完璧に拒絶した相手。
「殿下は、あの拒絶をどう捉えていらっしゃいましたの?」
「……あれは、王家の名誉を拒んだ、異邦人の高慢だったのだろう。彼女は王家の在り方そのものを受け入れなかった」
グラクトの低い返答に、ヴィオラは静かに首を振った。
「違いますわ。ルナリア様が拒んだのは、殿下という個人ではありません。王家の都合で、自分の身体と尊厳を当然のように制度へ組み込もうとする、その『仕組みそのもの』だったのですわ」
「……ッ」
グラクトは息を吞んだ。
あれは名誉の話ではなかったのか。王家の論理ではそう整理されている。だが当の本人にとってはどうだったのか。
「殿下は、ルナリア様が『拒んだ』という事実は見ていた。ですが、『何を拒まれたのか』は見ていなかったのです。自分が侮辱されたのだと思った。王家が軽んじられたのだと思った。けれど実際には、ひとりの女性が、自分の尊厳を勝手に制度へ流し込まれることを拒んだだけだったのですわ」
静かな断罪だった。
そしてヴィオラは、ソフィアについても同じ構造で切り込んだ。
「では、第三側妃ソフィア様はどうでしょう? 彼女は殿下を支え、慰め、受け入れた。……ですがそれは、本当に殿下個人への純粋な献身だったと思いますか?」
「ソフィアは……私を、肯定してくれた」
「ええ。ですがソフィア様は賢い方です。王宮の力学も、側妃としての位置も、ご自分の実家である魔導派の利害も、すべて分かった上であの役目を引き受けたのです。ルナリア様と同じく、自分の現実を見た上で選んだ結果ですわ」
ルナリアは尊厳の問題として拒み、ソフィアは立場と利益を理解した上で受け入れた。どちらも自分自身の現実の中で判断している。
なのにグラクトは、そのどちらも“自分への反応”としてしか受け取ってこなかった。
「ルナリア様は、殿下を愛していないから拒んだのではありません。ソフィア様は、殿下だけのために引き受けたのでもありません。けれど殿下は、彼女たちが何を守り、何を差し出し、何を計算していたのかを見ようとせず、ただ『自分をどう扱ったか』だけで理解したつもりになっていたのです」
その言葉を受けた時、グラクトの胸の奥で何かが崩れていった。
ルナリアの拒絶。ソフィアの受容。
どちらも、自分を中心に起きたことだと思っていた。だが違う。彼女たちはそれぞれ、自分自身の立場と現実の中で判断し、選んでいただけなのだ。
そこにいる自分は、中心に見えて、実のところ、彼女たちの判断材料の一部でしかなかった。
グラクトはようやく、掠れた声で呟いた。
「……自分はずっと、中心にいるつもりだったのだな」
7 神輿の自覚と、名もなき無責任
グラクトの自嘲めいた呟きに対し、ヴィオラは静かに事実だけを返した。
「実際、殿下は中心に置かれていますわ。王家の正統性を体現する第一王子なのですから。ですが、『中心に置かれている』ことと、『主体である』ことは違います」
「……」
「今、お部屋へ通されている奉仕役の令嬢が、どういう立場で、どのような条件で、何を引き換えにそこにいるのか――――殿下はご存知ですか?」
「……制度の概要は、理解している」
そう反射的に返したものの、それが問いへの答えになっていないことは、口にした本人が一番よく分かっていた。
ヴィオラは、その沈黙だけで十分だと理解したのだろう。
「奉仕役の選定は、王妃様の統制の下で行われます。家の困窮、将来の見返り、婚姻の難しさ、王家との距離、従順性、健康状態。そうした諸条件を整理し、どの家にどの程度の補償を与え、どの令嬢をどの位置へ置けば最も事故が少ないかを計算する。婚約者であるわたくしも、その一部には関与しております」
グラクトは顔を上げた。
知っていたはずのことが、まるで別の形で耳に入ってくる。王妃が管理している。婚約者であるヴィオラも関わっている。家への補償があり、条件があり、事故を減らすための調整がある。
それは確かに制度であり、王家の気まぐれな乱行ではない。だが、そうであるがゆえに、逆にひどく冷たかった。
「……合理的な取引だと、君は言うのか」
「少なくとも運用している側は、そう整理していますわ。王家は無秩序な関係を避けられる。選ばれた家は見返りを得る。令嬢本人も、将来の処遇を含めた保護と引き換えに、その役目を引き受ける。全員が幸福とは言えませんが、王家の品位と正統性を維持するための、最も事故の少ない仕組みとして回しているのです」
合理的な取引。
その響きの冷たさは、法廷で伯爵子息が吐いた侮辱より、むしろ重く胸へ沈んだ。なぜならそれは、感情的な暴言ではなく、制度の内側にいる者だけが口にできる整然とした真実だったからだ。
「殿下は殿下で、王子としてその場にいる責任を負っている。ですから、まったくの被害者だとは申しません。ですが少なくとも、『自分で選んでいた』わけではない」
ヴィオラは、残酷なほど簡潔に構造を言語化した。
「ルナリア様を打診の場に引きずり出したのも、ソフィア様を選び取ったのも、誰を置けば火種が少ないかを調整しているのも、殿下ではない。殿下は王家の光であり、正統性の象徴です。けれどその光をどこへ向け、誰の上へ落とし、誰を焼き、誰を温めるかを決めていたのは、別の誰かなのです」
グラクトはついに、かすれた声で問うた。
「……では、自分は何だったのだ?」
「神輿でしょう」
即答だった。
飾られ、担がれ、中心に置かれる。だが、どこへ運ばれるかは自分では決められない。
自分は第一王子であり、光の王子であり、成文法を掲げる裁判長だ。だがその実、王家の血統管理という最も根深い中枢では、意思決定者ですらなかった。
「殿下は学則を掲げました」
ヴィオラは、最後の問いを投げた。
「ならば他者を自分の傍へ置く時もまた、その存在をどう位置づけるのか、責任をもって定義しなければならないはずですわ。……それでもレティシア嬢を傍へ置きたいのだとしたら、あの娘に、どのような立場を与えるつもりなのですか?」
「……」
「婚約者にするのですか。妾妃として囲うのですか。奉仕役として管理下へ置くのですか。あるいは、何の立場も与えずに、ただ個人的な安らぎのために曖昧な位置へ置いておくのですか」
その一つ一つが、王子としてではなく、一人の男としての責任を問うていた。
グラクトには何一つ答えられなかった。
婚約。違う。妾妃契約。違う。奉仕役。違う。
何の立場もないまま傍に置くなど、もっと違う。
では何だ。レティシアを自分の傍へ置きたいと思ったことは事実だ。温室でのあの安らぎを、失いたくないと思ったことも。
だが、その思いにどんな名を与え、どんな責任を伴わせるのかと問われた瞬間、自分の中には何もなかった。王子としての制度は知っている。だが、一人の男として誰かを求める時、その相手へどんな立場を与えるべきかなど、考えたこともなかったのだ。
ヴィオラはその沈黙を見届け、静かに告げた。
「……お答えになれないのなら、それが現時点での殿下の答えですわ」
それは冷たくも、正確な宣告だった。
グラクトは、その場に立ち尽くした。
学則を掲げ、裁きを下し、王家の論理を用いて旧秩序を切ってきた。だが、自分が誰かを求める時、その相手へ何を与え、何を背負わせるのかという問いの前では、驚くほど空白だった。
王としての言葉は持っている。だが、一人の男としての責任を引き受ける言葉は、まだ何一つ持っていない。
『――――無知だったのだな、私は』
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ヴィオラは頷かなかった。だが、否定もしなかった。それが答えだった。
夜は深い。窓の外では、風が弱く枝を鳴らしている。
王家の中心に立つ第一王子は、その夜初めて、自分が中心でありながら主体ではなかったことを知った。
そして、自分が求めるものに責任ある名を与える言葉を、まだ一つも持っていないことも。




