第6話後編 『拒絶の体温』
4 知将の激昂
法廷を支配していたあの異様な沈黙を、最初に切り裂いたのはグラクトではなかった。
低く押し殺した「黙れ」という声が落ちた次の瞬間、それは法廷の誰も聞いたことのないほど鋭く、烈しい怒声へと変わった。
立ち上がっていたのはエドワルドだった。
普段の彼は、感情すら盤面の一手として制御してみせる男である。氷のように整えられた所作を崩さず、怒りですら論理へ変換して相手の逃げ道だけを静かに封じる。それが、この知将の本来の姿だった。
だが今、その冷静さは跡形もなかった。机に手をついたまま伯爵子息を睨み据える氷青の瞳には、理性ではなく、剝き出しの怒気が燃えている。
そして彼は、怒鳴った。
「殿下の神聖なる義務を、貴様の卑劣な劣情と同列に語るな!!」
一語一語が、刃のように鋭い。
「王家の血統を守るための制度が、どれほどの責任と管理の上に成り立っていると思っている。何一つ背負わぬ貴様が、自らの欲望のために無力な令嬢を食い物にした行為と、殿下が王家の正統を支えるために引き受けておられる義務を、同じ『性』の言葉で並べること自体が万死に値する不敬だ!!」
伯爵子息は一瞬だけ気圧されたように目を見開いた。だが、理性の焼き切れた顔にはすぐに歪んだ反発が戻る。
「何が違う! 言葉を飾っているだけではないか! 王家もまた女を選び、囲い、管理して使っているだけ――――」
「違う!!」
エドワルドのその一言は、怒声よりもなお重かった。
「殿下は己の快楽のために制度を使っておられるのではない。この国の秩序と血統を守るために、望む望まぬを越えて背負わされているのだ。そこにあるのは、貴様のような下劣な私欲ではなく、王家が王家であるために負うべき責務だ! 理解できぬのなら黙っていろ。理解する頭も敬う心も持たぬまま、ただ落ちるからといって王家へ泥を投げつけるとは……最後の最後まで、貴様は自分が何を汚したのかすら分かっていないらしいな!!」
法廷の空気が、再び強張る。
伯爵子息はなお口を開こうとした。だが今度は、その前に動く者がいた。
「――――被告を制圧しろ」
短く命じたのはグラクトだった。
その声は冷たく、よく通った。感情を見せぬぶん、むしろ絶対だった。
次の瞬間には、待機していた風紀官たちが一斉に踏み込んでいる。ライオネルが先頭、ベアトリスがその斜め後ろに付き、他の風紀官が左右から挟み込む。伯爵子息はなお喚こうとしたが、最後まで言わせてもらえなかった。ライオネルが容赦なく腕を捻り上げ、ベアトリスが冷え切った声で告げる。
「法廷妨害および秩序破壊の継続を確認した」
伯爵子息は無様に暴れた。だがその姿は、もはや貴族の矜持など微塵も残していない。ただ、自分一人だけが落ちるのを嫌って最後に毒を撒き散らした愚者のそれだった。
「ずいぶん元気だな。なら、外で頭を冷やせ」
ライオネルが吐き捨てると、そのまま風紀官たちは伯爵子息を半ば引きずるように退廷させた。靴音と荒い呼吸と、途切れ途切れの罵声。重い扉が閉まった時、法廷はようやく表面上の静けさを取り戻す。
だが、静かになっただけだった。
毒は、もう残っている。
誰もがそれを理解していた。
エドワルドはなお立ったままだった。先ほどまでの激情は、もう表には出していない。だが、机の縁に置かれた手がほんのわずかに強く握られている。自分でも制御しきれぬほどの怒りを、ようやく押し込め直したばかりなのだろう。
その横顔を見て、上位貴族たちは初めて理解する。彼の怒りは、単に秘密を暴かれた焦りから出たものではなかった。王家の義務と品位を、下劣な私欲と同列へ引きずり下ろされたこと自体が、耐え難い冒瀆だったから怒ったのだ。
それはある意味で、エドワルドという男の忠誠の純度を示していた。
だが同時に、その怒りが届かない者たちも、すでにこの法廷には存在していた。
平民たちは、王家の事情など詳しくは知らない。けれど「王子には女があてがわれる」「血統のために身体が管理される」という断片だけで、十分すぎるほど生々しい。下位貴族の令嬢たちの中には、顔色を失ったまま膝の上で指を震わせている者もいた。中位貴族たちは、王家の制度を本来は“高貴なもの”として理解していたはずなのに、今やその理解の外から、下劣で乱暴な言葉によって引き裂かれた構図を見せつけられている。
同じものを聞いた。
だが、同じ意味では受け取っていない。
それが何より厄介だった。
グラクトは裁判長席に座したまま、法廷全体を見渡していた。表情は静かだ。だが、その沈黙は先ほどまでの「判決を下す王」のものではない。傷を負ったまま、それでも姿勢を崩さぬ者の静けさだった。
リュートはその横顔を見ながら、内心で冷えた分析を進めていた。
学則は勝った。少なくとも、伯爵子息個人は客観的事実に基づいて断罪された。
だが、その勝利の瞬間に、王家の寝室のシステムは最悪の形で白日の下へさらされた。
これは単なる失点ではない。
『法が王家の品位を守る』という論理に対し、『そもそも王家の品位とは何なのか』という疑念が、今この場で初めて学園の空気そのものへ混入したのだ。
それはまだ、思想や批判と呼べるほど整ったものではない。もっと曖昧で、もっと原始的な違和感に近い。
高貴な義務と言われても、聞こえ方によってはそれは搾取にしか見えないのではないか。
法を支える王家の品位とやらは、本当にそんなに清浄なものなのか。
自分たちが信じてきた秩序の土台そのものに、腐敗が染み込んでいるのではないか。
そうした、まだ言葉になりきらぬ疑念。
最も危険なのは、疑念が生まれたことそのものだった。
噂は否定できる。言葉なら封じられる。
だが一度目にし、耳にし、皮膚で感じた違和感は、人の内側に沈殿し続ける。
エドワルドもまた、それを理解していた。だからこそ、あの場で感情をむき出しにしてでも「王家の義務は私欲とは違う」と叫ばずにはいられなかった。理屈では間に合わない速度で、秩序の根が傷つけられたと悟ったからだ。
しかし、その叫びですら、もう完全な回収にはならない。上位貴族には「義務」として響いても、平民や下位の者には「王家もまた女性を制度で囲い込んでいる」としか残らない可能性がある。
同じ言葉が、聞く者の位置によってまるで違う毒へ変わる。
木槌が、再び鳴った。
「法廷の秩序を乱す発言は、これ以上一切認めない」
グラクトの声は冷静だった。だが、その冷静さがかえって法廷の奥の冷えを際立たせる。
「本件の判決自体に変更はない。被告の処分は先の通り確定とする。書記は、法廷妨害および不敬発言について付記せよ」
誰も異議を唱えなかった。
唱えられなかったという方が正しい。
形式の上では、法廷はまだ保たれている。裁判長は動じず、風紀官は命令に従い、訴追官も弁舌士も席を立たない。秩序は崩れていない。少なくとも、見える形では。
だが、その秩序の下にあるものは、すでに変わってしまっていた。
上級貴族も、平民も、同じ場で、同じ瞬間に、王家の腐った血の匂いを嗅いでしまった。忘れたふりはできても、聞かなかったことにはできない。
法が王家の品位を守る。
その理屈が、つい今しがた別の方向から突き刺された。
王家の品位そのものが、すでに腐っているのではないか、と。
その疑念は、まだ誰の口からもはっきりとは語られない。
だが語られないままだからこそ、学園全体へ静かに広がっていく。
こうして第二回学園裁判は、法治の勝利と同時に、王家自身の腐敗を照らし出すという最悪の返り血を浴びることになった。
そしてその毒は、法廷を去る伯爵子息よりもなお厄介な形で、この場に残された全員の心へ沈んでいったのである。
5 レティシアの絶望
法廷は、奇妙な静けさに沈んでいた。
つい先ほどまでそこにあったのは、裁きの場としての緊張だったはずだ。どの証拠が通り、どの理屈が崩れ、どこまで特権が法の前で否定されるのか――――そうした、学園裁判としての熱と硬さ。
だが今、傍聴席を満たしているのは、それとはまるで違う冷たさだった。
レティシア・ラナ・ハーテスは、自分の席で小さく固まったまま、指先ひとつ動かせずにいた。
王家の寝室。
王妃の命。
奉仕役の令嬢。
血統の管理。
身体への処置。
法廷の中央で吐き散らされた言葉の断片が、遅れて遅れて胸の奥へ沈んでいく。意味は分かる。語句も分かる。けれど、それらがひとつの現実として結びつくたびに、胃の底が冷たく強張った。
『――――グラクト様は、攻略対象ではなかったの?』
いや、第一王子であることに変わりはない。だが、自分が思い描いていたような、ただ好感度を積み上げて恋に落ちる相手ではなかった。
夜の温室。疲れきった顔で、自分の言葉に少しだけ救われたように見えた彼。
その記憶のすぐ裏側に、今聞かされた王家の制度が、あまりにも生々しい現実として貼りついてくる。
「うそ……」
掠れた声が、唇からこぼれた。そんなの、と続けようとしても、誰も答えない。
法廷はまだ終わっていない。けれどレティシアにとっては、別の何かがもう崩れ始めていた。
その時、すぐ傍らから淡々とした声が落ちた。
「お顔の色が優れませんね。退出なさいますか」
顔を上げると、いつの間にかティナが立っていた。姿勢は正しく、声色は平板で、周囲の動揺からだけ切り離されたような静かな顔をしている。慰める声音ではなかった。だからこそ、レティシアは逆に縋るように問い返してしまった。
「今の、ほんとうなの……?」
ティナは瞬きひとつせずに言った。
「どの部分を指してお尋ねですか」
「どの部分って……」
レティシアは喉の乾きを覚えながら言葉を探す。
「グラクト様が……王子様が、ああいう、その、女の子を……そういうふうに、あてがわれてるって……」
ティナは一拍だけ置いて、極めて事務的に答えた。
「事実です」
その二文字だけで、レティシアの肩から力が抜けた。
優しい嘘も、取り繕いもない。ただ、事実だと断定された。
「王族の血統は、この国の秩序の根幹です。誰と子を成し、どの家を取り込み、どの家を遠ざけるかは、個人の気分や恋情に委ねてよい問題ではありません。ゆえに、王家の周辺には、王妃殿下の管理下で奉仕役が選定されます。家格、健康状態、家の事情、将来の処遇、従順性。そうした条件を精査したうえで、適切な者が配置されます。家への補償も、本人の立場も、王家の側で整理される。身体の管理もまた、血統の正統性を損なわぬための制度の一部です」
配置。整理。制度。
人ではなく、部品の説明のようだった。
レティシアは唇を震わせた。
「でも、それって――――」
言いかけたところで、ティナは初めて少しだけ彼女を正面から見た。
「先ほど法廷で裁かれた件と、同じではありません」
その言葉は、鋭く切り分けるようだった。
「あちらは、伯爵子息が私的な欲望のために、相手の拒絶を踏み越えて強要したものです。合意もなく、正当な手続もなく、ただ身分差を使って相手の自由を押し潰した。公序良俗にも、この学園の学則にも反します。だから裁かれました。一方、王家の側は、公的な血統管理と家門調整の一環として運用されています。綺麗な話ではありませんが、この国の社会通念では、無秩序な私的強要とは別物として扱われています。高位貴族の子女であれば、遅かれ早かれ知る常識です」
常識。
そんなもの、自分の知っている世界にはなかった。
好きになった相手には、他の女の子がいてもイベントの障害くらいにしか思っていなかった。けれど今、聞かされているのはそんな甘い話ではない。家の事情と、王家の事情と、身体の管理が、最初から一つの制度として繋がっている世界だった。
「じゃあ、グラクト様は……」
声が掠れる。
「それを、当たり前だと思ってるの……?」
ティナは迷わなかった。
「はい」
また、即答だった。
「殿下はその制度の内側でお育ちです。物心ついた頃から、王家とはそういうものだと教えられてこられた。ですから、伯爵子息の件と同じ意味でご自分を恥じる、という発想は、おそらくお持ちではありません」
その言葉が、レティシアには何よりきつかった。
もしグラクトが、それを苦しみながらも「ひどいことだ」と理解しているなら、まだ救いがあったかもしれない。けれど違う。彼にとってそれは、正しい仕組みであり、王族として当然引き受けるべき義務なのだ。悪びれもしない。裏切りとも思っていない。そこに道徳的な違和感を持つ発想自体が、最初から存在していない。
レティシアの中で、何かが決定的に崩れた。
温室で見せた弱さ。
裁判で見せた気高さ。
自分の言葉に救われたように見えた顔。
そのどれもが嘘だったわけではない。
それなのに、その人の背後には、自分にはどうしても受け入れられない世界がある。
「そんなの……」
両手で口元を押さえた。
「そんなの、嫌……っ」
それは嫉妬ではなかった。
もっと生理的な、もっと深い拒絶だった。
選ばれた令嬢。家のために差し出される身体。制度として管理される寝室。そのどれもが、レティシアの中にある「恋」のイメージとあまりにもかけ離れている。乙女ゲームの王子様だと思っていた相手が、そんなものの中にいる。しかも、それをこの世界の正しさとして受け入れている。
もう、好感度だのルートだのと言っていられる場所ではなかった。
自分がこれまで見ていたものは、ただ世界の表面だけだった。しかもその表面すら、自分は勝手にゲームの画面に読み替えていただけだったのだ。
ティナはそれ以上、余計な言葉を添えなかった。
「退出なさいますか」
もう一度だけ同じ問いを口にする。
けれどレティシアは、首を振ることも頷くこともできなかった。法廷はまだ終わっていない。だが彼女の中では、もっと別のものが、もう終わってしまっていた。
王子様との恋。
特別な再会イベント。
自分だけが選ばれる物語。
それらは悪意ある誰かに壊されたのではない。
ただ、この国の現実を、感情のない声で説明されただけで、呆気なく崩れ落ちた。
だからこそ、どうしようもなく残酷だった。
6 拒絶の体温
その日の放課後、レティシアはティナに「今日はもう誰にも近づかず、寮へ戻って休んでください」と静かに言い含められていた。もっと正確に言えば、それは忠告であると同時に、半ば約束の確認だった。
今の彼女は顔色が悪すぎる。動揺も隠せていない。そんな状態で第一王子の周囲へ近づけば、何を言い、何を見せるか分からない。だから今夜は人目を避けて休み、何かあれば明日以降に考えればいい。ティナはそう告げ、レティシアもその場では力なく頷いていた。
けれど、夕暮れが学園を薄紫に染めるころになっても、彼女の胸のざわめきは少しも収まらなかった。
寮の部屋へ戻っても、じっとしていられない。椅子へ座れば、法廷で暴かれた言葉が蘇る。窓の外を見れば、夜の温室で笑いかけた自分が思い出される。ベッドへ横になろうとすれば、知らない令嬢たちの身体と、王家の管理という冷たい言葉が頭の中で結びついてしまう。
そして何より、グラクトの顔が離れなかった。
法廷で木槌を打った時の、あの冷たい横顔。
伯爵子息の叫びを真正面から浴びた時、ほんの一瞬だけ血の気を失った顔。
『――――きっと今、あの人も傷ついている』
そう思ってしまった。
思ってしまった以上、もう駄目だった。
行ってはいけない。今会えば、自分はきっとまともな顔をできない。
そう分かっているのに、それでも「それでも一度だけ会って、ちゃんと確かめたい」という衝動の方が勝ってしまう。
レティシアは、約束を破った。
寮の廊下へ出て、人気の少ない道を選び、ほとんど無意識のうちに足を進める。行き先は、もう決まっていた。温室だ。前と同じ場所なら、彼が来るかもしれない。自分でも馬鹿みたいだと思う。けれど、そうとしか考えられなかった。
夜の温室は、前に来た時よりもずっと冷たく見えた。硝子越しの月明かりが植物の輪郭を青白く縁取り、湿った土の匂いが静かに沈んでいる。あの時は甘いイベントの舞台にしか見えなかった場所が、今は妙に生々しい。葉の一枚一枚、花の一輪一輪が、やけに現実の質量を持ってそこにある。
扉を押し開けた瞬間、奥に人影が見えた。
グラクトだった。
彼は前と同じように、温室の奥まった長椅子に腰を下ろしていた。だが前回と違うのは、その背中に漂う疲労が、あまりにもあからさまだったことだ。裁判長としての威厳も、第一王子としての光も、今はどこか剝がれ落ちている。
こちらの気配に気づき、グラクトが顔を上げた。
「……レティシア」
彼は驚いたように名を呼ぶ。そこに混じっていたのは、困惑だけではなかった。安堵と、ひどく個人的な喜びがあった。まるで本当に、自分が来ることを望んでいたみたいな顔だった。
「どうしてここに」
問われても、レティシアはうまく答えられない。本当は会いに来た。だが今となっては、その理由をどう言えばいいのか分からない。
グラクトは立ち上がり、数歩だけこちらへ近づいた。その仕草にためらいは少なかった。むしろ、ようやく見つけた安らぎに手を伸ばすような自然さがあった。
「……来てくれたのか」
その一言だけで、レティシアは痛いほど理解してしまった。
この人は、何も知らない。
いや、正確には、法廷で暴かれた内容そのものは知っている。けれど、それが自分にとってどんな意味を持つのか、どうして自分がこんな顔をしているのか、その一番大事なところを、たぶん一ミリも理解していない。
グラクトは前の夜と同じように、自分の前へ来た。声は低く、疲れているのに、どこか必死だった。
「今日は……ひどく疲れた。君の顔を見たら、少し落ち着く気がした」
レティシアの胸がぎゅっと縮む。
ずるい、と思った。
そんなふうに弱った顔を見せられたら、何も知らなかった昨日までの自分なら、また簡単にイベントだと思って近づいてしまったかもしれない。
でも、もう違う。
彼が苦しんでいるのは本当だ。傷ついているのも、本当だ。
けれど、その人は同時に、あの王家の制度の内側にいて、それを「仕方のないこと」ではなく「正しい仕組み」として生きている。
その現実を知ってしまった今、以前みたいには近づけない。
グラクトは、レティシアが答えないことを拒絶とは受け取らなかったのだろう。むしろ、黙って立ち尽くす彼女を見て、さらに一歩だけ距離を詰めた。
「少しだけでいい、今夜だけはそばにいてくれないか」
柔らかく言い、そのまま、彼の手が伸びてくる。
ほんの自然な動作だった。前の夜にしたように、肩へ、あるいは腕へ、そっと触れて安心を確かめようとするだけの、ささやかな仕草。
けれどその手が視界に入った瞬間、レティシアの身体は反射で動いていた。
「っ……」
びくり、と肩を震わせて、明確に一歩、身を引いてしまう。
グラクトの指先は空を切った。
それだけのことなのに、時間が止まったみたいに感じられた。
グラクトはそのまま、伸ばした手を半端な位置で止めていた。何が起きたのか、本当に一瞬分からなかったのだろう。金の瞳が、ひどく静かに見開かれている。
「……レティシア?」
彼は困惑した声で呼ぶ。
「どうしたんだ、何かあったのか」
あった。
ありすぎるほどあった。
でも、それをどう言えばいいのか分からない。あなたが悪い、とは言い切れない。この国の仕組みが気持ち悪い、と叫びたい。でも、その仕組みをあなたは当然のように生きていて、自分がどれほど違う世界の人間かも分かっていない。
レティシアは唇を嚙んだ。
「わたし……今日、聞いて……。法廷で……」
そこまで言ったところで、グラクトの表情がほんの僅かに変わる。何のことを指しているのか、彼の頭の中ではおおよそ見当がついたのだろう。だが、その見当とレティシアの反応とが、まだ彼の中では結びついていない。
「……あの男の、最後の妄言か」
グラクトは低くそう言った。
「あんなものを真に受ける必要はない。あれは追い詰められた者の、ただの捨て台詞だ」
だがレティシアは反射的に顔を上げた。
「でも、違わないんでしょ……!」
その一言が、温室の空気をさらに冷やした。
グラクトは黙る。
黙った、ということ自体が答えだった。
「違わない、んだよね……?」
そう問うレティシアに対し、グラクトは今度もはっきりとは否定しなかった。代わりに、慎重に言う。
「……王家には、王家の制度がある」
その答え方は、彼にとっては誠実だったのだろう。誤魔化していない。嘘もついていない。
けれど、それがレティシアには決定的だった。
制度。
思わず笑いそうになった。泣きたいのに。
「そんなふうに言えるんだ……」
彼女は震える声で返す。
「だって、それって……他の女の子を、そういうふうにしてるってことでしょ……? 家のためとか、王家のためとか言って……」
グラクトの顔に、初めてはっきりと戸惑いが浮かんだ。
彼には本当に分からないのだ。なぜそれが、今ここでレティシアにとって自分を拒絶する理由になるのか。
「それは……王家として必要なことだ」
慎重に選んだ言葉だった。
「血統を守るためには、無秩序な関係を避けなければならない。学則も、裁きも、すべては王家の正統性の上に立っている。だから――――」
「だから、仕方ないって言うの!?」
レティシアの声は震えていた。責めているつもりなのに、半分は泣き声みたいだった。
「それは、そういう問題ではない」
グラクトは声を荒げない。ただ本気で困っていた。彼女がなぜこんなにも怯えた顔をしているのか、理解したいのに、その入口が見つからない。
「私がしていることは、伯爵子息のようなものとは違う。あれは私欲だ。私は――――」
「でも、同じで体に触れるんでしょ!!」
その一言で、グラクトは絶句した。
レティシアは自分でも残酷だと思いながら、止められなかった。たぶん、ここで止まったら、また元のゲームの解釈に戻ってしまう気がしたからだ。
「わたしには……違いが分からない……」
涙が、とうとう一筋だけ零れた。
「王家の義務とか、品位とか、そういうの言われても……わたしには、怖いだけ……っ」
グラクトは何も言えなかった。
怖い。
その言葉は、彼にとってあまりにも異物だった。
王家の制度は重い。煩わしい。息苦しい。
だがそれは正しい仕組みであって、誰かに恐怖される種類のものだとは、考えたこともなかった。
「……私が何か、悪いことをしたのか」
ようやく出たその問いは、言い逃れではなかった。開き直りでもない。本当に分からないから聞いているのだ。
その無垢な困惑が、レティシアには余計につらかった。
この人は、自分が何を背負っていて、何を当然だと思っていて、その当然が他人にとってどれほどおぞましく見えるか、本当に分かっていない。だから、自分の拒絶がどこから来るのかも分からない。価値観そのものが違う。
それは一時の誤解ではなく、もっと深い、埋めようのない断絶だった。
レティシアは唇を震わせたまま、首を横に振ることも、縦に振ることもできなかった。
「わからない……。でも、今は……近づけない」
それだけが、やっと言えた。
グラクトの顔から、ゆっくりと感情が抜けていく。怒りではない。傷ついた、というのが一番近い。けれどその傷の理由が理解できないから、ただ静かに立ち尽くすしかない顔だった。
温室の中では、どこかで夜咲きの花がかすかに香っていた。前の夜には甘く感じられたその匂いが、今はひどく生々しく、息苦しい。
レティシアはもう一度だけ、小さく「ごめんなさい」と言って、逃げるように温室を後にした。扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
グラクトは、その場に一人残されたまま、長く動けなかった。
法廷でどれだけ人を裁いても、自分が何を守るために立っているのかを語れても。たった今、自分がもっとも欲していたはずの相手から向けられた拒絶の意味だけは、どうしても理解できない。
王家の制度は正しい。
血統も品位も必要だ。
それがなければ、自分の法も、裁きも、立たない。
分かっている。
分かっているのに、なぜ彼女はあんなふうに怯えたのか。
その問いだけを残して、夜の温室には重い沈黙が沈んでいた。
こうして、打算なき劇薬として始まった二人の距離は、ついに価値観そのものの断絶によって引き裂かれた。
それは単なるすれ違いではない。
王家の論理で生きる者と、それを生理的に拒絶する現代の魂との、どうしようもなく深い裂け目だった。




