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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第4話前編 『打算なき劇薬』

1 孤立する王と、管理された寝室


 初めての学園裁判が終わったその日、王立学園の空気は、確かに変わっていた。


 大講堂を満たしていたざわめきは、判決の瞬間を境に、あまりにもはっきりと色を変えた。下位貴族や平民の特待生たちが向ける視線には、畏れと、かすかな希望が混じっている。対して、中位以上の貴族たちがグラクトへ向ける目には、戸惑いと、測りかねるような冷たさが宿っていた。


 彼らは、王の威光そのものを否定しているわけではない。むしろ逆だ。第一王子たるグラクトの品位と権威を、これまで以上に意識している。だからこそ、自分たちが当然のように持っていたはずの「身分による裁量」が、彼の名の下に、成文法という形で切り落とされたことを飲み込めずにいた。


 廊下ですれ違う上級貴族たちは、以前より恭しく礼をする。だがその一礼の奥には、露骨な親しみも、打算に満ちた追従もなくなっていた。


『――――あの殿下は、どこまで本気なのか』

『――――我々の側に立つお方なのか、それとも』

 そんな測りかねる不安が、学園中に薄く広がっていた。


 生徒会役員たちの態度も、表面上は変わらない。エドワルドは相変わらず完璧な礼節を保ち、必要な実務を一つの遅滞もなく処理していたし、リュートもまた、副会長として涼やかな微笑みを崩さなかった。ベアトリスとライオネルは風紀官の統制に戻り、アイリスとヴィオラもまた、それぞれの持ち場で何事もなかったかのように振る舞っている。


 だが、グラクトには分かっていた。

 誰一人として、今日の判決を「ただ良き裁きでした」と無邪気に称えてはいない。学則に基づいて、客観的事実から有罪とした。その結論そのものに、後悔はなかった。あのまま身分秩序を言い訳に暴力を正当化すれば、学則は初日で死ぬ。それだけは、もうはっきりと分かっていた。


 けれど、正しい裁きを下したはずなのに、空気はどこか重い。自分を取り巻く盤面が、目に見えぬところで静かに軋んでいるのを感じる。


『――――結局、私はまた、誰にも喜ばれないのか』

 そんな考えが脳裏をかすめた瞬間、グラクトは小さく唇を嚙んだ。それは、次代の王として抱くにはあまりにも幼く、弱い感情だった。


 夕刻。表向きの公務と役員との最低限の確認を終えたグラクトは、重い足取りで自室へ戻った。


 王立学園の第一王子専用室は、少年一人に与えるにはあまりにも広く、豪奢だった。重厚な扉、厚い絨毯、磨き抜かれた調度品。だがそこには安らぎよりも先に、徹底した管理がある。


 扉を開けた瞬間、鼻先にかすかな香が届いた。

 室内の奥、控えめな灯りの下で、一人の令嬢がすでにグラクトを待っていた。年は彼とそう変わらない。淡い色の夜着の上からきちんと肩を覆う羽織をまとい、姿勢よく椅子に腰掛けている。その所作には、過不足なく訓練された従順があった。

 彼女はグラクトの姿を見ると、すぐに立ち上がり、深く礼を取った。


「お帰りなさいませ、殿下」

 柔らかな声で告げるその姿には、何一つ落ち度がない。アイギス公爵家出身である王妃マルガリータの厳格な管理下で選抜され、教育され、整えられた「奉仕役」として、完璧だった。


 グラクトは一瞬だけ、返す言葉を失った。

 彼女の名を、知らないわけではない。だが、知っているのは帳簿に記された家名と年齢、健康状態、そして『問題なし』という簡潔な評価だけだ。実家がどのような状況で、どんな思いでここに来たのか。彼女自身が何を望み、何を諦めてこの部屋にいるのか。そうしたことを、グラクトは一度も考えたことがなかった。


 いや、考えること自体を許されていなかったと言うべきかもしれない。

 王家の血統は、管理されねばならない。王族の情欲や衝動が、勝手な婚姻や身分なき落胤によって政治の盤面を乱すことは許されない。ゆえに、選ばれた令嬢が与えられ、報酬と地位を約束され、必要な処置を受けた上で、王族の寝室は事故なく運用される。

 それが、この国の常識だった。


 王妃が整え、側妃たちが補助し、臣下たちが当然の制度として受け入れてきた、王家の『品位を守るための仕組み』。そこには、愛も、嫌悪も、本来は不要なのだ。ただ役割があり、義務があり、血統のための最適化があるだけ。


 だからこそ、グラクトは今、この静かな部屋の中でひどく息苦しさを覚えていた。

 今日、自分は法廷で法は身分に優越すると宣言した。暴力を当然の権利とみなす旧い秩序を、公然と否定した。その日の夜に、自分はまた、誰かの人生も感情も知らぬまま、王家のシステムの一部としてこの部屋に戻ってくる。


 それは矛盾なのか。

 それとも、王である以上、切り分けて受け入れねばならない別種の現実なのか。

 答えは分からない。ただ、昼の法廷に立っていた時とは違う種類の息苦しさが、胸の奥をじわじわと塞いでいく。

 令嬢は、グラクトの沈黙をどう解釈したのか、慎ましく視線を伏せたまま口を開いた。


「殿下。お疲れのようでしたら、今夜は休まれますか。それとも、お茶の支度をいたしましょうか」

 あくまで控えめな申し出。その気遣いに咎めるべき点は何もない。だからこそ、思ったより強い拒絶が喉から飛び出した瞬間、グラクトは自分自身をひどく嫌悪した。


「……いや」

 令嬢の肩が、わずかに震える。


 グラクトはすぐに声音を悔いた。だが謝罪の言葉も出てこない。謝れば済む話ではないことを、直感的に分かってしまったからだ。彼女は悪くない。むしろ、何一つ悪くない。ここにいるのは、王家の求める通りに整えられ、役目を果たそうとしているだけの娘だ。責められるべき点などどこにもない。


 それなのに、自分はこの空間そのものから逃げ出したいと思っている。

「……少し、風に当たってくる」

 それだけを絞り出すように言い残し、グラクトは部屋の奥へ進むこともなく踵を返した。


 背後から、令嬢の困惑した気配が伝わってくる。だが振り返れなかった。逃げ出すように部屋を出て、廊下を歩く。誰にも行き先を告げず、護衛もつけず、ただ無意識のまま足が向いたのは、夜の温室だった。


 学園の一角にあるその温室は、昼間こそ令嬢たちの憩いの場として穏やかな賑わいを見せるが、夜ともなれば人影はほとんどない。分厚い硝子の向こうに月光が滲み、薄闇の中で植物たちが静かに息づいている。


 温室の扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた夜気が頰を撫でた。少しだけ、胸の奥の圧迫感が和らぐ。誰もいない。少なくとも、この瞬間だけは。


 グラクトは奥のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。

 法廷で王を演じることはできる。判決に責任を持つことも、きっとできる。けれど、こうして一人になった瞬間、胸の中に残るのは、「正しかったはずなのに、なぜこんなにも苦しいのか」という、あまりにもみっともない感情だった。


 今日、有罪を言い渡した時の伯爵子息の顔。傍聴席に走った、あの凍りつくような沈黙。役員たちの崩れぬ表情。そして、自室で待っていた、名も事情も半分しか知らない令嬢の伏せた睫毛。全部が、重くのしかかってくる。


『――――私は、王なのか。それとも、ただ用意されたシステムの上で動いているだけの、空っぽの器なのか』


 月明かりの差す温室で、グラクトは片手で顔を覆った。その姿には、昼間法廷で木槌を打ち鳴らしていた裁判長の威厳など、どこにもなかった。ただ、自分を責めずに「あなたは間違っていない」と言ってくれる誰かを、ひどく幼く、身勝手に求めてしまう、一人の少年の弱さだけがあった。




2 打算なき劇薬


 夜の温室は、昼の華やぎが噓のように静まり返っていた。硝子張りの天井越しに差し込む月光が、白い花弁と濡れた葉を青白く照らし、湿った土の匂いが重く沈んでいる。


 グラクトは、奥まった石造りの長椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。


 昼間、彼は裁いた。学則に従い、事実に従い、上位貴族の子息に有罪を言い渡した。それ自体に後悔はない。むしろ、あの瞬間だけは確かに、自分の手で王の役目を果たしたという手応えすらあった。


 だが、その判決の代償は、思った以上に重かった。役員たちは表向きこそ従っていたが、どこか慎重に距離を測っている。旧来の秩序に甘えていた上位貴族たちは、表立って逆らえないぶん、沈黙のうちに敵意を深めていた。そして自室へ戻れば、王妃の管理下にある奉仕役の令嬢が、何事もなかったように待っている。


 そこに悪意はない。彼女もまた、王家の血統と品位を守るための役目として、その場に置かれているだけだ。だからこそ、苦しかった。相手の名も、家の事情も、何を思ってそこに立っているのかも知らない。知ろうとすることすら許されず、ただ定められた制度の歯車として向き合わされる。王家の正統性を守るための正しい仕組みであることは、頭では理解している。だが、その正しさが、今夜のグラクトには鉛のように重かった。


 自分は本当に、誰かに必要とされているのか。それとも、血統と役目の中心に据えられた、空っぽの器にすぎないのか。


 その時だった。

 控えめな足音が、湿った石畳の上で止まった。

「――――やっぱり、ここにいらしたんですね」

 振り向いたグラクトの視界に、月光を背に立つ少女の姿が映る。レティシア・ラナ・ハーテスだった。


 彼女は少し息を弾ませていた。だが、その表情には後ろ暗さも、気遣うべき空気を読む慎重さもない。むしろ、どこか嬉しそうですらあった。


「君は……こんな時間に、どうしてここへ来たのだ」

「たまたまです!」

 グラクトの問いに、レティシアは明らかに偶然ではない、弾むような声で即答した。だが、その不自然さを咎める気力は、今のグラクトには残っていなかった。疲れたように目を伏せる彼の様子を見て、レティシアはためらいなく一歩近づいた。


 そして、あまりにも真っ直ぐに言った。

「あの、私……どうしても言いたくて。今日の裁判、本当にすごかったです。誰が相手でもちゃんと裁いて、身分や空気に流されなくて……ああいうの、すごく格好いいと思います」

 政治的な配慮は微塵もない。あの判決がどれだけ多くの不満と軋轢を生むのかも、この少女はおそらく理解していない。だが、だからこそ、その言葉は異様なほど澄んでいた。


 役員たちは制度を見ていた。貴族たちは権益を見ていた。王妃は威光を見ていた。けれど今、目の前の少女だけは、裁判長でも第一王子でもなく、ただ『今日、あの場で言葉を下した自分』を見ているように思えた。


 気づけば、グラクトは問い返していた。

「……君は、怖くなかったのか。あの場に立つこと自体が」


「怖かったです。平手打ちは痛かったし、何が起きたのか一瞬分からなくなりましたし」

 レティシアは少しだけ頰をしかめ、それからふっと笑った。


「でも、それでも殿下がちゃんと裁いてくれるって、なぜか思えたんです」

 その言葉に、グラクトの胸の奥で何かが軋んだ。


 思えば、彼はずっと正しくあれと求められてきた。王家の血を汚すな。品位を損なうな。光の象徴であれ。だが、信じていると言われたことは、あまりなかった気がした。


「……妙なことを言う。普通なら、今日の判決を見て、私に近づくのを躊躇うはずだ。私は自らの手で、貴族の特権を切り捨てたのだぞ」

 グラクトが苦く笑っても、レティシアはきょとんと首を傾げるばかりだった。


「どうしてですか? だって殿下は、裁くべきことを裁いたんですよね? 皆がどう見ているかなんて関係ありません。私は、私が見たものしか知りませんから。今日の殿下はちゃんと自分で決めて、自分で言葉を出してました。だから、格好よかったんです」

 何の含みもなく言い切る。


 貴族社会で生きる者の言葉としては、あまりにも危うく、あまりにも無防備だった。だが、今のグラクトにとって、その無防備さは毒のように甘かった。


 制度の一部として待つ令嬢。威光のために頭を垂れる側近たち。判決の意味を秤にかける貴族たち。そのすべての外側から、この少女だけが、何の役目も背負わずに自分へ言葉を投げてくる。

 そう錯覚した瞬間、張り詰めていた心のどこかが、音もなく緩んだ。


「……少しだけ、ここにいてくれないか」

 掠れた声で頼むと、レティシアの目はぱっと明るくなった。


「もちろんです!」

 何のためらいもない快諾。その返答に、グラクトは一瞬だけ目を閉じた。救われた、と思った。王でもなく、裁判長でもなく、ただの自分を肯定してくれる場所が、ここにあるのだと。


 そしてレティシアの方もまた、胸の中で高らかに確信していた。

『――――やっぱりそうだわ! 夜の温室イベント、完全に成功してる!』

 彼女にとってこれは、推しの心の扉が開く特別な場面でしかない。彼の背負う制度も、血統も、重圧も、その本当の重さまでは見えていない。


 同じ長椅子の端に腰を下ろした二人のあいだには、月光に照らされた白い花々が静かに揺れていた。


 片や、制度に押し潰されそうになった末に、打算なき承認へ縋ろうとする王子。

 片や、現実をゲームの延長線上でしか捉えられないまま、攻略の進展に胸を躍らせる転生少女。


 互いに見ているものは、まるで違う。それでもこの夜、二人は確かに同じ温室の中にいた。

 だからこそ、その出会いは甘く、致命的だった。

 それは傷ついた王にとって、あまりにも都合のよい救済であり、同時に、王家の血統と秩序を根底から揺るがしかねない、打算なき劇薬の始まりでもあった。




3 異常行動の観測と、謎の言語


 同じ夜。

 生徒会室の表扉が閉ざされ、さらに奥まった記録室が「誰にも聞かれないための部屋」として使われていた。


 机の上には、ティナがここ数日でまとめ上げた報告書の束が整然と並んでいる。灯りは最低限。窓には厚いカーテン。室内にいるのは、第二王子リュート、西のヴィオラ、そして報告役として呼ばれたティナだけだった。


 ティナは一礼し、最上段の紙をめくった。

「では、ご報告いたします」


 告げるその声音に私情はない。あるのは、観測した事実を、順序立てて誤差なく提出する官僚の冷たさだけだった。


「対象レティシア・ラ・ハーテスの行動原理は、一貫して非合理です。家格、現在の家計、王宮と学園の権力構造、いずれの前提にも即していません。まず、第一王子殿下への接近頻度が異常です。彼女は周囲の視線や上位貴族からの敵意を認識している様子はありますが、それを『危険』として回避するのではなく、『想定された障害』として処理している節があります」

 リュートが指先で机を軽く叩き、低く問い返す。


「……想定された障害、とは?」

「通常の令嬢であれば、恫喝や冷遇を受けた時点で接近をやめます。ですが彼女は違います。拒絶、無視、敵意、いずれを受けても『予定通り』とでも言いたげに、むしろ行動を強めています。つまり、嫌われても退かないのではなく、嫌われること自体を織り込み済みで動いているのです」

 ティナは一切揺るがない声で論理を紡ぐ。


「しかも不可解なのは、その判断が一見すると無秩序でありながら、第一王子殿下の心理的な死角だけは外していない点です。本日、温室付近での接触を含む観測によれば、彼女は殿下に対し、学園裁判の判決内容や政治的効果ではなく、『格好よかった』『私だけは分かっている』といった、極めて情緒的な言葉を選んでいました。殿下が現在、周囲から求められている『次期国王としての威光』ではなく、『一個人としての承認』に飢えている点を、最初から知っているかのようでした」

 報告を聞いたヴィオラは腕を組み、細く息を吐いた。


「本当に気味が悪いわね。権力構造は何一つ分かっていないくせに、刺さる場所だけは外さないのだもの」


「同感です」

 ティナは簡潔に応じ、さらにもう一枚の紙を抜き出した。


「加えて、独り言の中に、学園では通常用いられない語を複数確認しています。意味は不明ですが、反復していたため記録しました」

 そう前置きした上で、ティナは紙面を視線でなぞりながら正確に読み上げた。


「――――『イベント』。『スチル』。『ルート』。『好感度』」

 その瞬間、部屋の空気が、わずかに止まった。


 リュートもヴィオラも、表情だけは動かさなかった。だが、ティナほどの観察眼があれば十分に分かる程度には、二人の沈黙は不自然だった。


「……殿下?」

 ティナの静かな問いかけに対し、リュートは一拍置いてから、ごく平坦に答えた。


「少なくとも、この国の一般的な令嬢が自然に使う語彙ではないな」

「ええ。しかも本人はそれを隠そうとしていません。つまり、あの令嬢は自分だけ異なる前提で世界を認識していながら、そのズレを異常だと思っていない可能性が高い」

 ヴィオラは肩をすくめた。


「厄介ね。意味を秘匿している暗号というより、本人にとっては『普通の単語』なのでしょう。だからこそ零れる」


「その通りかと」

 ティナは短く返し、新しい紙へ、二人の反応まで含めて簡潔に追記した。

 しばしの沈黙の後、リュートが口を開いた。


「……対象への接触方針を修正する。あの単語について、直接問い詰めるな。あの令嬢は、自分が何を漏らしているのか分かっていない可能性がある。圧をかければ閉じるだけだ」


「引き続き、友人としての継続観測を優先しますか」

 ティナの確認に、リュートは静かに頷いた。


「ああ。自然に話させろ。何に安心し、何に怯え、何を『当然』と思っているのかを拾うんだ。言葉の意味を今すぐ解く必要はない。まずは、彼女の思考の土台そのものを観測したい」

 ヴィオラもそこで冷徹に補足した。


「ハーテス家の現状も、もう一段深く洗いたいわ。一年前の相場暴落以降、借財がどう膨らんだのか。父親が今どこまで追い詰められているのか。あの娘の認識と現実の落差が、どこで生まれているのかを見たいの」

 ティナは迷いなく書き留めた。


「承知いたしました。家計記録、王都側の借用書、子爵家の出入り商人、奉仕候補選定時の周辺証言まで当たります。必要であれば、内務省側に残る非公開の負債台帳との照合も試みましょう」


「そこまでやってくれ」

「はい。では、引き続き『友人』として接触しつつ、対象の認識構造とハーテス家の現状を精査いたします」

 ティナは報告書をまとめると、音を立てぬよう後退し、そのまま静かに室外へ消えた。


 扉が閉まる。気配が遠ざかる。廊下の向こうからも完全に人の存在が消えたことを確認してから、ようやくヴィオラが椅子の背に深く身を預けた。


「……今の、完全に日本語だったわね」

 その瞬間まで凍ったように静かだったリュートが、ゆっくりと息を吐く。


「ああ。間違いない」

 短い断言。それだけで、二人の間には十分だった。

 ヴィオラは苦い顔のまま続けた。


「あれは知識として『知っている』程度ではないわ。『イベント』『スチル』『ルート』『好感度』――――あれは、現実を現実としてではなく、物語か遊戯の盤面として処理している人間の語彙よ」

 リュートは机上の報告書へ視線を落としたまま、低く呟いた。


「……同郷、か」

 だが、その声に同胞を見つけた安堵はなかった。むしろ、確認してしまったことへの冷酷な嫌悪感の方が強い。


「だが、君や僕のように、この世界を生きるために論理的思考の前提を書き換えた者ではない。むしろ逆だ。あの令嬢は、現実の盤面を、未だに別の何かとして読み替えている」

 ヴィオラは皮肉げに口元を歪めた。


「開発環境も仕様書も読まずに、実機へ素手で触ってるようなものね」

 その言い方に、リュートは小さく机を二度叩いた。


「……しかも厄介なのは、本人に悪意が見えないことだ。間者ならまだ扱いやすい。利害で動く人間なら、脅せるし、買えるし、切り捨てもできる。だが、善意と妄想だけでこの位置まで踏み込んでくる者は、論理では止めにくい」


「同感だわ。自分が何をしているか理解していないからこそ、止めるための交渉材料すら嚙み合わない」

 ヴィオラは報告書の一角を指先で叩いた。


「しかも、彼女は、王家の血統管理の枠外にいるまま、第一王子へ接近している」

 その一点こそが、この件の本質だった。


 政治的野心を持つ女であれば、まだ交渉ができる。地位が欲しい、金が欲しい、家を救いたい――――そうした欲望ならば、条件のすり合わせも、牽制も可能だ。だが、もしそうではないのなら。


 リュートは静かに結論を口にした。

「彼女は工作員じゃない。少なくとも主観的には違う。……現実をゲームか何かと誤認したまま、純粋な好意だけで兄上へ突撃している」


「最悪ね」

「最悪だ」

 即答だった。


 リュートは椅子の背にもたれ、目を細める。悪意ある敵なら対処法はいくらでもある。だが、悪意なき愚か者は、もっとも制御が難しい。


「しかも同郷だなんて。だからこそ余計に厄介だわ。現代日本の平和な感覚のまま、この血統主義の盤面に踏み込んでいる。その危うさに本人だけが気づいていないなんて……反吐が出る」

 ヴィオラが吐き捨てた言葉に、リュートは同調の感傷を微塵も滲ませなかった。


 盤面に現れてしまった以上、無かったことにはできない。

「排除するには早い。まずは観測だ。どこまで無知で、どこからが修正不能なのかを見極める」


「利用価値は?」

「ある」

 リュートは迷わず答えた。


「兄上にとって、あれは打算なき承認として作用している。制度の外から差し込まれた、極めて危険な劇薬だ。今はまだ、切るより観察する方が盤面への情報価値が高い」

 ヴィオラは苦い顔で笑った。


「本当に嫌な評価ね」

「だが正確だろう」


「ええ。認めるわ」

 二人の冷徹な視線が、報告書の上で交わる。


 そこに記された言葉の一つ一つが、甘い恋愛譚などではなく、この王国の血塗れの現実に直結していた。打算なき好意。制度を知らぬ無邪気さ。同郷の言葉。そして、王家の血統管理という最大の地雷。


 そのすべてを抱えたまま、レティシア・ラナ・ハーテスという少女は、無自覚に盤面の中央まで歩み込んできていたのだ。


 リュートは最後に、報告書を静かに閉じた。

「――――監視を継続する。彼女が夢から醒めるのが先か、それとも盤面そのものを壊すのが先か。見極める価値はある」


 薄暗い記録室の中。

 異世界の学園という箱庭に、二人目の、そしてあまりにも危うい『同郷の異物』が正式に認識された瞬間であった。

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