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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第4話後編 『同郷の異物』

4 同郷の異物の解析


 翌日。

 昼休みの終わり際、人気の途絶えた西棟の回廊で、ヴィオラは一人きりで立っていた。

 窓の外では、春先のまだ冷たい風が中庭の若木を揺らしている。回廊は静かで、靴音ひとつよく響いた。そこへ、どこか浮き立った足取りで近づいてくる影がある。レティシアだった。


 食堂での一件を経てもなお、彼女は怯え切ってはいなかった。むしろ、裁判という大きな出来事を経たことで、これから攻略対象たちとの関係が本格的に動き出す段階へ入った、とでも思い込んでいるような顔つきをしている。


 ヴィオラはその能天気な様子を一瞥すると、手にしていた数枚の紙束を、わざと床へ落とした。

「あら、困ったわ」

 ぱらり、と羊皮紙が散る。


 レティシアは反射的に駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか!? 今、拾います――――」

 勢いよく屈みかけた、その瞬間だった。


 ヴィオラは、ごく自然な声音のまま、この世界の人間が決して口にしない言語を滑り込ませた。

「……ちょっと拾うの、手伝ってくれる?」

 空気が止まった。


 レティシアの動きが、まるで糸を切られた人形のように途中で凍りつく。伸ばしかけた手は宙に留まり、瞳だけが大きく見開かれた。息すら一拍遅れたようだった。


「え……」

 喉の奥で掠れた声が震える。

「い、ま……にほん、ご……?」

 それで十分だった。


 ヴィオラは何も答えず、ただ静かにレティシアを見つめた。

 遅れて、自分が何に反応してしまったのかを理解したのだろう。レティシアの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「な、なんのことですか……?」

 取り繕いはあまりにも遅かった。声は震え、視線は泳ぎ、何より“日本語”という単語を即座に認識し、それをこの場で口にしてしまった時点で、答えはもう出ている。

 ヴィオラはしゃがみ込み、散った紙を一枚ずつ拾い上げながら、淡々と言った。


「安心しなさい。ここで大声で騒ぐほど、私も暇じゃないわ」

 レティシアは何か言いたげに唇を開いた。けれど結局、言葉にはできないまま立ち尽くしている。


 ヴィオラは最後の一枚を拾い上げ、静かに立ち上がった。

「貴女が何者で、どこまで分かっていて、どこまで分かっていないのか。……それは、これから考えることにする」

 それだけ告げると、彼女はそれ以上追及せず、レティシアの脇をすり抜けて回廊を後にした。


 あえて逃げ道を残したのは慈悲ではない。ここで下手に追い詰めれば、あの少女はただ怯えて閉じるだけだ。今必要なのは自白ではなく、正確な解析だった。


 そしてその日の夕刻。

 裏の生徒会室で、ヴィオラはリュートと向かい合っていた。

 室内には二人きりだった。昼の回廊で起きた一件を報告し終えると、リュートは目を伏せたまま短く息を吐いた。


「……確定だね」

「ええ。あれは間違いないわ」

 ヴィオラは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


「少なくとも、『前世の記憶がある』だけじゃない。日本語に反応した速度と動揺の仕方からして、日常の思考言語としてまだかなり残っている。たぶん、あの子の中ではこの世界の現実より、“あちらの知識”のほうが上位にある」

 リュートは沈黙したまま、机上の記録を指先でなぞった。


 ティナの報告。イベント、スチル、ルート、好感度。そこへさらに、日本語への即時反応が加わる。材料はもう十分だった。

「……同郷の転生者」

 静かな断定だった。


「だが、君や僕のように、この盤面を現実として再定義して生きている類ではない」

「ええ。そこが一番まずいのよ」

 ヴィオラの声音は冷えていた。


「私たちは、この世界が現実だからこそ、言葉を選び、制度を読み、死ぬ気で適応してきた。けれどあの子は違う。現実に適応しているんじゃない。現実のほうを、自分の知っている“何か”に読み替えて処理している」

 昼間のレティシアの顔が脳裏に蘇る。


 あれは敵の顔ではなかった。もっと質の悪い、何も分かっていない者の顔だった。


「まるで、舞台の上に立っているつもりなのよ。台本があって、決まった役回りがあって、自分が選べば物語が動くと本気で信じている。……でも、ここはそんな優しい盤面じゃない」

 リュートは短く頷いた。


「工作員ならまだ扱いやすい。利害があるなら交渉も脅迫も成立する。だが、現実を“ゲーム画面”として見ている相手には、通常の政治的前提が通用しない」


「そう。しかも、本人に悪意がない」

 ヴィオラは吐き捨てるように言った。


「悪意がないからこそ、どこを踏み抜いているのか自覚がない。王妃の管理下にある血統の盤面に、身分も家も理解せず、素手で突っ込んでいく。これほど厄介なバグもないわ」


『――――バグ』

 その単語に、二人の間だけで通じる前世の感覚が滲む。


 リュートはそこでふと視線を上げた。

「君、何か思い出した顔をしているね」

 ヴィオラは一瞬だけ黙り、それから机の上に指を置いてゆっくりと言った。


「……一年前よ。学園入学直前。王妃様から“グラクトの身の回りを整える奉仕候補の令嬢たち”の名簿を渡された時のこと」

 その言葉だけで、空気がさらに冷えた。


 リュートは何も言わなかったが、その眼差しだけで続きを促した。

「私はあの時、年齢、家格、家の困窮度、逆らえなさ、あと……見た目まで含めて、王妃様が後で管理しやすい娘たちを選別させられたの。正直、吐き気がしたわ。誰が一番救われるべきかなんて基準で、そんな名簿を読む羽目になるなんて」

 ヴィオラは皮肉げに笑った。


「でも今、ティナの報告とハーテス家の名前を照らした時、引っかかった。全部を覚えていたわけじゃないけれど……レティシア・ラナ・ハーテス、その名前は確かに候補の中にあった」

 リュートの指先が止まる。


「理由は」

「家がもう崩れかけていたのよ。売れるものを全部売って、それでも足りず、最後に娘の身体を差し出す段階まで来ていた。……ただし、年齢で弾かれた。当時の彼女はまだ規定未満だったから」

 そこまで言って、ヴィオラは冷ややかに結論づけた。


「つまり、彼女は一年前の時点で“システムの入口”までは来ていた。でも、正式には組み込まれていない。避妊処置も、身分調整も、王妃による管理も受けていない、完全な枠外のまま今に至っている」

 それはあまりにも危険な事実だった。


 奉仕者として制度の中に組み込まれているなら、まだ管理できる。だがレティシアは違う。王家の血統管理システムの外部にいるまま、第一王子へ接近している。しかも本人は、その危険性を政治として理解していない。


「……なるほど」

 リュートの声は、ほとんど無感情だった。


「彼女は借金苦から這い上がるために政治的打算で動いているわけじゃない。もっと悪い。現実の破滅を、物語の初期設定か何かだと誤認している」


「ええ」

 ヴィオラは頷いた。


「前世の記憶を持つ人間が、現実を生き抜くために知識を武器として使うのならまだ分かる。けれどあの子は逆。知識を使って現実を読み解いているんじゃない。自分の知っていた“物語らしき何か”に、目の前の現実を無理やり当てはめてる」


「プレイヤーの視点だな」

「しかも、仕様書も読んでない最低のプレイヤーよ」

 ヴィオラの口元に、冷たい嘲笑が浮かんだ。


「開発者でもない。盤面の構造も、フラグの分岐も、致命的なバグの位置も知らない。ただ“それっぽいイベント”が起きたから、自分が主人公だと思い込んで突っ込んでる。……実機に素手で触ってるようなものだわ」

 リュートはその比喩に、静かに同意した。


「悪意ある工作員ではない。純粋なお花畑のバグ、か」

「まさにそれよ」

 二人の見解はここで完全に一致した。


 レティシアは高い知性を持つ脅威ではない。

 だが、だからこそ危うい。

 知性ある敵は、自分が何を狙い、何を壊そうとしているかを理解している。しかし無知な味方未満の異物は、壊している自覚のないまま、最も脆い場所へ足を踏み入れる。


「……排除する?」

 ヴィオラが問うた。

 リュートは即答しなかった。しばし沈黙した後、ゆっくりと首を振る。


「まだ早い」

「観察を続ける?」

「ああ」

 その声は冷徹だった。

「今の彼女は、敵対意思を持つ工作員ではない。下手に追い詰めれば、ただ暴発するだけだ。それに――――」

 そこで、リュートの瞳にわずかな悪意の光が差した。


「兄上にとっては、あれが極めて危険な意味を持つ。政治でも制度でもなく、“個人としての承認”だけを無邪気に投げてくる存在。管理された世界の外から差し込まれる、打算なき劇薬だ」


「……なるほどね」

 ヴィオラもそこで理解した。

 レティシアは盤面を理解していない。だが、理解していないからこそ、疲弊したグラクトの心理に真っ直ぐ入り込める。


 王家の都合も、派閥の駆け引きも、血統管理も、何一つ分かっていない。

 それが逆に、この国の誰も投げられない言葉を彼へ投げつけることを可能にしている。

「なら、結論は一つね」


 リュートは報告書を閉じた。

「レティシア・ラ・ハーテスは、排除対象ではなく観察対象に切り替える。危険ではあるが、今はまだ、切るよりも見た方が価値が高い」


「そして、必要なら利用する」

「必要ならね」

 ヴィオラは小さく笑った。


「まったく。あんな危ういものを“価値が高い”と言い切るあたり、本当に性格が悪いわ」

「君にだけは言われたくない」

 短いやり取りののち、二人は再び真顔に戻る。


 机の上には、ティナの報告書と、ヴィオラが思い出した一年前の名簿の断片。そこに記されているのは、ただ一人の没落子爵令嬢の名前に過ぎない。だがその名は今や、第一王子の精神、王家の血統、そして学園という箱庭の法治の盤面すら、無自覚にかき乱しうる異物として扱われ始めていた。

 リュートは最後に、静かに呟いた。


「……さて。あの少女が現実に潰されて泣き出すのが先か。それとも、夢を見たまま盤面に致命傷を与えるのが先か」

 ヴィオラは扉の方へ視線を流し、冷たく言った。


「どちらにしても、もうただの令嬢では済まないわ。あの子は、自分が何者なのかも分からないまま、この国で一番触れてはいけない場所に手を伸ばしてしまったんだから」

 こうして、レティシア・ラナ・ハーテスという“同郷の異物”は、敵でも味方でもなく、極めて危険な観察対象として正式に盤面へ登録されたのであった。




5 知将への劇薬投与


 第二回目の生徒会会議は、グラクト不在のまま開かれていた。

 裁判後の余波はまだ学園全体に色濃く残っており、表では風紀官の巡回強化、裏では上位貴族たちの不満の火消しに追われている。そうした実務の延長線上にある定例会議――――のはずだった。


 しかし、その場の空気を最初に変えたのは、ヴィオラだった。

「……一つ、今のうちに共有しておくべき情報がありますわ」


 静かな声音だった。だが、その一言だけで、円卓の空気がわずかに引き締まる。

 リュートは表情を変えず、エドワルドは書類から顔を上げ、ベアトリスとライオネルもそれぞれに視線を向けた。

 ヴィオラは感情を一切見せないまま続けた。


「ハーテス子爵令嬢――――レティシア・ラナ・ハーテス。彼女の名、私は一年ほど前に一度だけ見ていますの」

 エドワルドの目が細くなる。


「……どういう意味ですか」

「王妃様のご命令で、殿下の身辺に侍る候補者を選定した際の名簿ですわ。あの時、候補として一度だけ名が上がっていたのです」

 その意味を、円卓にいる者たちは即座に理解した。


 だが誰もすぐには口を開かなかった。代わりに、エドワルドだけが静かに、しかし明らかに声音を低くした。


「選定からは外れた、と?」

「ええ。年齢規定に届いておりませんでしたもの。選定対象にはなりませんでしたわ。ゆえに――――」

 ヴィオラはそこで一拍置いた。


「彼女は、管理の外にいます」

 その瞬間、エドワルドの顔から、はっきりと血の気が引いた。


 それは、ただの令嬢の奇行ではない。王族の周囲に近づく女のうち、王宮の手続きを経ていない存在。王家の血統を管理する制度の外にありながら、第一王子に異常な執着を見せている少女。


 それが何を意味するかを、彼ほど理解している者はいなかった。

 エドワルドは確認するようにヴィオラへ視線を据え、慎重に問い直す。


「……ヴィオラリア様。貴女の話が事実なら、あの娘は王家の管理下に置かれた候補ではなく、身分も力も持たぬまま、まったくの自由意志でグラクト殿下へ接近している――――そういう理解でよろしいか」


「ええ。少なくとも、今見えている事実はその通りですわ」

 ヴィオラは事務的に肯定し、淡々と整理する。


「選定を任されていた立場から言えば、管理外の令嬢が無秩序に第一王子の御前へ近づく現状は、本来あってはならないことです。候補の選定も、その後の処置も、すべては王家の血統と品位を乱さぬための制度。そこに例外が生じれば、殿下の御名にも、婚約者たる私の立場にも、回収不能の瑕疵が残りますわ」


 その言い方は完璧だった。制度への嫌悪も、個人的な願望も、一切滲ませない。ただ『婚約者として看過できない管理上の不備』を報告する者として、非の打ち所がなかった。


 エドワルドは、その言葉に頷くことしかできなかった。

「……その通りだ」


 吐き出すようにそう言って、彼は片手で額を押さえた。

「実家の窮状を盾にする女なら、金で、地位で、あるいは脅しで制御する余地がある。だが、制度の理屈も、王家の管理も理解せず、ただ殿下個人へ向かってくるだけの者は最悪だ。制度の外にいる以上、何を踏めば盤面が壊れるのか、自覚のないまま急所へ触れてくる」

 声音に、純粋な恐怖が混じった。


 リュートは黙って聞いていた。

 ここで余計な口を挟む必要はない。すでに劇薬は投与されている。あとは、優秀な知将が自分で毒の回り方を理解するだけだった。


 案の定、エドワルドは自ら、その帰結へたどり着いた。

 氷青の瞳が、今度はまっすぐリュートへ向けられる。


「リュート殿下。政治的な後ろ盾は本当にないのですか」


「現時点では、その可能性が最も高いね」

 リュートは淡々と答えた。


「少なくとも彼女の行動には一貫した利害計算が見えない。家の再建のために有力者へ取り入るのなら、もっと慎重に動くべき場面で、彼女は何度も不用意に兄上へ接触し、挙句の果てにはエドワルド殿にまで距離を詰めた。普通の工作員なら、あそこまで露骨には動かない」


「むしろ、だからこそ厄介なのですわ」

 ヴィオラもそこで静かに補足する。


「自分がどれほど危うい場所に立っているかを、本人が理解していない。理解しないまま近づき、理解しないまま踏み越える者ほど、秩序にとって不吉なものはありません」


「……つまり何だ。あの娘は貴族の差し金ですらないのか」

 ベアトリスが腕を組んだまま低く問う。


「それが最も高い可能性だ」

 リュートは答え、冷酷に続ける。

「そしてそれは安心材料ではない。意図ある敵なら読める。だが、意図も理もなく動く者は読めない。読めぬまま、制度の急所だけを踏み抜く」


 ライオネルが小さく舌打ちした。

「考えなしのほうが、よほど害がでかいというわけか」


「そういうことだ」

 短く返したエドワルドの声音には、もはや迷いがなかった。


「あの娘は、殿下の御名を汚しかねないだけでは済まない。管理外である以上、万が一にも回収不能な事態が起これば、王家の血統管理そのものが崩れる。そうなれば、今の均衡も、後見関係も、何もかも吹き飛ぶ」

 彼はそこまで言って、ようやく事態の本質を口にした。


「あれは、制度そのものを理解しないまま王の側へ転がり込んだ、歩く時限爆弾だ」

 室内の空気が、さらに一段重く沈んだ。


 ヴィオラは扇も使わず、ただ静かに視線を伏せていた。表向きには婚約者としての責務から報告しただけ。だが、その内側では別の冷徹な計算も同時に動いていた。これでエドワルドは、レティシアを「放置してもよい不思議な令嬢」ではなく、「今すぐ対処すべき危険物」として扱わざるを得なくなる。


 リュートもまた、深紅の瞳の奥でひそかに嗤っていた。

 政治的野心を持つ女ではない。打算も理屈もなく、ただ本人だけが甘い幻想のまま王家の急所へ手を伸ばしている。その事実は、旧秩序の守護者たるエドワルドにとって、どんな陰謀よりも忌まわしい。


 完璧だった。

 善意でも悪意でもなく、ただ「管理外」であるというだけで、あの少女は知将の精神をここまで追い詰める。 


「……対応を急がねばなりません」

 エドワルドはそう断じ、立ち上がった。


「殿下に対し、早急に進言を行います。これ以上、あの娘を自由に近づけるわけにはいかない」

 その背中には、これまでの冷静な実務家の顔とは異なる、切迫した焦燥がはっきりと浮かんでいた。


 リュートはそれを見送りながら、机上で指を一度だけ鳴らした。

 打算で動く者は、理で縛れる。

 だが、理を知らぬまま急所へ触れる者は、それだけで旧秩序にとって致命傷となる。


 レティシア・ラナ・ハーテス。

 王家の制度を理解しない、ただ一人の無知な少女。

 その存在そのものが、今やグラクトの盤面を内部から揺るがす、最も不吉な劇薬となっていた。




6 忠臣の諫言と、王の孤独


 その夜。

 第一王子の私室には、張りつめた静けさが満ちていた。

 机上には、学園裁判の記録と、新たに整備すべき学則の草案が山のように積まれている。だが、それらに目を通しているはずのグラクトの意識は、どこか別の場所へと引きずられていた。

 そこへ、控えめだが鋭い音で扉が叩かれる。


「……入れ」

 許しを得て入室したのは、エドワルドだった。

 いつもの隙のない礼を取ってはいたが、その氷青の瞳の奥には、普段の冷静さを僅かに逸した焦燥が滲んでいた。


「夜分に申し訳ありません。ですが今夜は、どうしても先延ばしにできない話がございます」

 その声音だけで、グラクトは内容を察した。


「レティシアのことだな」

「……はい」

 エドワルドは一礼したまま、一切の逡巡なく本題へ切り込んだ。


「あの令嬢を、これ以上殿下の御側へ近づけてはなりません」

 それは怒りではなく、危機に対する純粋な警鐘だった。


「彼女は制度の外にいます。奉仕者候補として正式に選定された者ではなく、管理も、制御も、補償も、何一つ整っていない。しかも本人は、王家の血統と品位がいかに厳密に管理されているか、その意味すら理解していないように見受けられます。政治的な意図を持つ女ならまだ扱えます。家の事情、金、地位、縁談、いくらでも交渉の余地がある。だが、制度も利害も理解せず、ただ殿下個人へ向かってくるだけの者は最悪です。何を踏み抜けば盤面が壊れるのか、自覚のないまま急所へ触れてくる」


 グラクトは黙って聞いていた。


 その沈黙を、エドワルドは承知の上で続ける。

「殿下は、すでに分かっておられるはずです。王家の正統性――――血統の清浄さと、そこから生まれる品位こそが、殿下ご自身の権威の基礎であることを」


「ああ」

 否定の余地はなかった。学園裁判が機能しているのも、学則が単なる紙切れではなく絶対の重みを持つのも、裁判長たる自分が第一王子であり、この国の秩序の中心に位置する存在だからだ。成文法はまだ弱い。ゆえに今は、王家の威光という旧い柱を借りて立たせるしかない。


 その現実を、グラクトはすでに理解していた。


 だからこそ、エドワルドは一歩進み出る。

「ここで管理外の令嬢に心を許し、あらぬ憶測や混乱を招けば、殿下個人の問題では済みません。殿下の学則、殿下の裁き、殿下の掲げる秩序、そのすべての正統性に傷が入るのです」


 グラクトはしばし目を伏せ、それから静かに言った。

「……お前の言うことは分かる」


 エドワルドはその先を促しかけたが、グラクトはそこで言葉を継いだ。

「だが、それでも……あれは、違うのだ」

 氷青の瞳がわずかに揺れる。


「違うとは、何がでございますか」


「……奉仕者は、義務だ。相手にも事情があり、家にも事情があり、王家にも制度がある。すべて承知の上で成り立っている。そこには間違いなく意味があるし、必要な仕組みだ。否定するつもりはない」

「当然です。その制度を軽んじれば、殿下自身が学則の根拠を掘り崩すことになります」


「分かっている。分かっている。……だからこそ、苦しいのだ」

 グラクトの言葉は、王家の制度そのものへの反逆ではなかった。


 むしろ、制度を理解しているからこその苦しみだった。

「奉仕者は義務としてここにいる。あちらも承知の上で、取引として、制度として、役目を果たしている。私は王としてそれを受け入れている。だが、そこに心の平穏はない」


「……ヴィオラリア様では、駄目なのですか。婚約者として最も近く、しかも殿下の立場も制度も理解しておられる。少なくとも、管理外の令嬢よりは――――」


「ヴィオラは駄目だ」


 その速さに、かえってエドワルドが息を止める。

「なぜです」


「ヴィオラは、最初からすべてを理解している。理解して、管理して、役目としてそこにいる。婚約者であることも、王妃教育も、奉仕者の選定さえも、全部だ。あれはもう、あまりに“王家の側”に立ちすぎている。弱音を見せて寄りかかれるような相手ではない」


 正確には、寄りかかる資格がない、という感覚だった。ヴィオラはあまりに冷静で、あまりに王宮の論理を分かりすぎている。彼女の前では、自分はいつまでも王家の部品として測られる気がしていた。


「……今の奉仕者でも駄目。ヴィオラ様でも駄目。では、殿下は何を求めておられるのですか」

 エドワルドの問いには、半ば追及の響きが混じっていた。


 グラクトは答えに詰まった。

 本当は、自分でも分かっていない。

 ただ、レティシアといる時だけ、自分は制度でも責務でもなく、ただ一人の人間として見られているような錯覚を得られた。


「ならば、妾妃契約を結ばれてはいかがですか」

 苦渋の色を隠しきれぬまま、エドワルドは代案を出した。


「正式な管理下へ置き、血統と立場を明確にする。少なくとも“無秩序な接近”という最悪だけは防げます」

 それは、エドワルドなりの最大限の譲歩だった。

 制度の外にいる少女を、制度の内へ引きずり込むことで爆発を防ぐ。臣下としては、極めて現実的な提案である。


 だが、グラクトはゆっくりと首を振った。

「……それでは駄目だ」

「なぜです」


「契約にした瞬間、壊れる」

 エドワルドは言葉を失う。

 妾妃という形にすれば、立場は守れる。制度上も整理できるだろう。だが、それをした時点で、あれはもう『私だから近づいてきた者』ではなくなる。契約を結べば、相手は契約でここにいる女になる。地位と補償を与え、王家の管理下に入れた瞬間、結局は奉仕者と同じだ。自分が欲しいのは、そんなものではない。

 ひどく身勝手な願いだった。


 制度は必要だ。血統の正統性も理解している。それでもなお、その外側にある心の平穏だけを欲している。


 エドワルドには、その矛盾が危うく見えた。危うすぎた。

「……殿下」

 呼びかける声には、臣下の進言というより懇願に近い響きがあった。


「心が欲しいと仰る。だが心は、最も制度に組み込みにくく、最も盤面を壊しやすいものです。殿下ほどの立場の方が、そこへ無防備に手を伸ばしてはならない」


「分かっている」

「殿下は今、王家の品位と学則の正統性、その双方を背負っておいでです。そこに“契約では買えぬ心”を持ち込み始めれば、いずれ必ず制度と衝突する。貴方が裁判で成文法を貫いた、その根拠そのものと――――」

 グラクトは何も言えなかった。


 なぜなら、エドワルドの言っていることは正しいからだ。正しいのに、それでもなお、正しさだけでは息が詰まる。

 長い沈黙の末、グラクトはひどく疲れた声で言った。


「……私は、王である前に、人であってはならないのか」

 その問いに、エドワルドはすぐには答えられなかった。


 答えは知っている。王家の血を引く以上、この国では『ならない』のだ。

 だが、それをそのまま告げるのは、あまりにも残酷だった。

 だから彼は、ほんの僅かに目を伏せて言った。


「殿下が王であられるからこそ、この国の品位は立ちます。……それだけは、どうかお忘れなきよう」

 救いのない、だが誤魔化しのない答えだった。

 グラクトは力なく笑った。


 それは自嘲であり、諦めではなく、どうしようもない孤独への苦笑だった。

「そうか。……結局、そこへ戻るのだな」

 エドワルドはそれ以上踏み込まなかった。ヴィオラの管理する領域へ無理に手を突っ込めば、それ自体が別の火種になる。奉仕者の扱いも、婚約者の役割も、王宮の血統管理も、すべてが繊細な均衡の上にある。


 ゆえに今夜の彼にできることは、ただ一つだけだった。

「あの令嬢に深入りなさらぬよう、どうかご自重ください」

 それだけを最後に告げ、深く一礼する。

 だが、エドワルドが退室した後も、グラクトは長く席を立てなかった。


 血統は必要だ。

 品位は必要だ。

 それがなければ、自分の裁きも、学則も、王としての言葉も、何一つ立たない。

 分かっている。

 分かっているのに。

 制度の中にいる女たちでは埋まらない空白が、確かに自分の内側にある。


 そしてその空白に、何も知らぬまま笑いかけてきた少女の存在だけが、ひどく甘く焼きついて離れなかった。

『――――その甘さが、やがてどれほどの断絶へ変わるのか』

 この時のグラクトは、まだ知らない。

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