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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
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第3話後編 『最初の裁き(判決)』

1 違法性阻却の攻防


 ライオネルへの反対尋問が終わった瞬間、法廷の空気は目に見えて変質していた。


 先ほどまでの流れだけを見れば、勝負はほとんど決していたはずだった。被告人は身分を誇示し、被害者を威圧し、実際に有形力を加えた。被害者本人の供述、風紀官による現認、そのいずれもが嚙み合っている。暴行の構成要件該当事実は、すでに逃げ場なく固定されたと言ってよかった。


 だがエドワルドは、そこから一歩も引かなかった。


 事実を争えないのなら、事実の法的な意味を争う。行為が存在しても、直ちに違法とは限らない。その極めて実務的で、そしてこの国の旧秩序に深く根差した反撃の刃が、今まさに法廷の中央へ突き立てられようとしていた。


 エドワルドが一歩進み出る。


「裁判長。弁護側は、被告人による暴力行為そのものは争いません。本件において争うべきは、事実の有無ではなく、その行為が法的に罰せられるべきか否かです。すなわち――――本件の行為が、学則基本法総論第七条の定める『正当な権限または身分に基づく行為』として、例外的に許容されるか否か。この一点にございます」


 傍聴席がどよめいた。


 被告人席の伯爵子息すら、一瞬だけ目を剝いた。まさか自分を弁護するはずの男が、暴力の事実をあっさりと認めてしまうとは思っていなかったのだろう。


 エドワルドは、構成要件の該当を完全に明け渡すことで、戦場を『違法性阻却事由の有無』へと引きずり込んだのである。


 その声音に、一切の揺らぎはない。


「学園は、王立学園です。ここは市井の雑多な寄せ集めではなく、将来王国を担うべき者たちが、身分と責務を学ぶ場でもある。ゆえに学則は、単に暴力一般を機械的に排斥するためだけに存在するものではございません。秩序を維持し、上下の別をわきまえさせ、学び舎全体の品位を守るためにこそ存在するのです」


 被告人席の伯爵子息が、ようやく「そうだ」とでも言いたげに顔を上げる。


 だがエドワルドは、彼のような愚物を庇うために語っているのではない。もっと大きなもの――――この国の社会通念そのものを法廷へ持ち込むために語っていた。


「先ほど、風紀官ライオネル殿に対する反対尋問でも確認した通り、暴力そのものが一律に罪とされるわけではありません。風紀官が学園秩序維持の任務に基づき違反者を制圧するように、一定の立場と責務に基づく実力行使は、学則上、明確に許容されうるのです。そして、この王国において上位者が下位者の無礼を正し、身の程を教えることは、単なる私情ではなく、古くから秩序維持のために認められてきた社会的役割です。ゆえに、被告人の行為は粗暴ではあっても、その性質上は『身分に基づく矯正』として理解されるべきであり、総論第七条の例外規定に当てはまると解するのが、学則体系全体との整合性において最も妥当でございます」


 講堂のあちこちで、安堵とも熱気ともつかぬ吐息が漏れた。


 上位貴族たちにとって、それは救済の論理だった。


 つまりこうだ。たしかに殴った。だが、殴ったこと自体が問題なのではない。誰が、どの立場から、何のために行ったかが問題なのであり、上位者が下位者の無礼を矯正するためであれば、それは違法性を帯びない『正当行為』たりうる。そう位置づけられれば、彼らの日常は何一つ否定されずに済む。


 エドワルドは、冷ややかなほど整った声でなおも続ける。


「被害者は、子爵家令嬢という立場にありながら、第一王子殿下のお近くへあまりにも軽率に接近し、周囲に無用な混乱をもたらしました。そこに対し、被告人が上位者として秩序の回復を図ろうとした。その手段が過剰であったか否かは別論ですが、少なくともその行為の出発点は、学園秩序に対する関心と、身分秩序の維持という社会的役割に基づくものでございます。よって弁護側は、本件について、事実関係は認めつつも、罪には問われないと主張いたします。学則第四条の存在をもって、王国における伝統的な上下関係の規律作用まで否定することはできません。むしろ総論第七条が存在する以上、学則はそうした社会的現実を織り込んだ上で構築されていると解するべきであり、本件被告人を有罪とすることは、学則体系の趣旨を逸脱する不当な拡張解釈にほかなりません」


 言い切ったその声は、驚くほど静かだった。


 だが、その静けさゆえに恐ろしいほど強い説得力を持っていた。


 上位者による暴力を「秩序維持」と再定義し、身分そのものを「社会的役割」と言い換え、違法性阻却の器の中へ完璧に収めてみせる。それは明らかに旧秩序を守るための理屈だったが、同時に条文の文言へ一定の筋道をつける、高度に洗練された法解釈でもあった。


 リュートは席に座ったまま、その主張を一言一句逃さず聞いていた。


 内心では、むしろ静かな感心すら浮かべている。


『――――見事だ、エドワルド。事実認定で負けるなら、違法性へ論点を移す。しかも単なる感情論ではなく、総論第七条の文言と、この国の社会通念を正面から接続してきたか』


 雑な相手なら、「貴族は偉いから許される」と喚くだけで終わる。


 だが目の前の知将は違う。彼はあくまで法的手続きの形式を守りながら、旧世界の論理を法解釈として再構成してみせた。


 だからこそ、この最初の裁判は重いのだ。ただ論破するだけでは足りない。この論理を正面から叩き切らなければ、法治の箱庭は最初の一歩で死文化する。


 グラクトは黙っていた。


 その沈黙は長く、法廷の誰もが彼の次の言葉を待っていた。だが、今はまだ裁判長の判断を下す段階ではない。


「訴追官、反論は」


 グラクトの問いに、リュートはゆっくりと立ち上がった。


「ございます」


 深紅の瞳が法廷を一周する。その視線は、上位貴族の安堵も、平民席の不安も、被告人の下卑た得意顔も、すべて見透かしているようだった。


「弁護側の主張は、一見すると学則総論第七条の文言に忠実であるように見えます。しかし、その解釈を無制限に認めれば、学則第四条は実質的に上位者に対して適用不能となり、条文は最初から存在しないのと同義になります。訴追側は、総論第七条の存在を否定しません。風紀官による制圧、教員による安全確保、あるいは学園の正式な役務に基づく有形力の行使が、例外として許容されうることは認めます。問題は、その『身分』の意味です」


 彼はそこで書面を掲げた。


「学則は学園内の秩序を明文化したルールです。そこにおいて『身分』とは、学園内における役務上・制度上の地位を意味するのであって、生得的な家格そのものを無制限に免罪符とする趣旨ではありません。もし爵位それ自体を根拠に他者への暴力を正当化できるのなら、上位者は下位者に何をしてもよいことになる。それでは第四条の暴力禁止規定は、下位者にだけ適用される飾り文句へ堕します。さらに申し上げます。弁護側は、被告人が『秩序の回復を図った』と述べました。しかし本件において、被告人は学園の正式な秩序維持者ではありません。風紀官でもなく、生徒会役員でもなく、教員でもない。ただの一生徒です。正式な権限も役務も持たぬ者が、己の家格のみを根拠に他者へ制裁を加えることは、秩序維持ではなく、まさに学則が禁止する私的な暴力そのものです。よって訴追側は、被告人の行為に総論第七条の例外は成立しないと主張します。本件は、たかが一生徒が身分を誇示して行った私的制裁に過ぎず、学則第四条が最も明確に禁止しようとした行為類型そのものでございます」


 上位貴族の席に苛立ったざわめきが走る。


 だがリュートは一切ひるまない。


 総論第七条は認める。だが、違法性阻却の適用範囲をあくまで「学園内の制度上の役務」に限定する。生得的な爵位を根拠にした私的暴力まで含めれば、法の平等性は崩壊する。


 それは極めて単純で、だからこそ逃げ道のない強固な法理だった。


 もっとも、それで直ちに勝負がついたわけではない。


 今の応酬によって、法廷ははっきり二つの価値へ割れたのだ。


 旧秩序において当然とされてきた、身分による私的制裁。


 新秩序において守られるべき、文字としての法の平等。


 どちらが優先されるのか。どちらの違法性を阻却するのか。


 それはもはや単なる条文解釈ではない。


 この学園が、そして将来この国が、何を秩序の中核に置くのかという宣言に等しかった。


 グラクトは静かに木槌へ指を置いた。


 その顔には、先ほどまでの儀式的な威厳だけではない、重い思考の影が落ちている。


「双方の主張、確かに聞き届けた。本件は、学則第四条と基本法総論第七条の関係解釈に関わる重大案件である。ゆえに本法廷は、ここで一度休廷し、合議に入る」


 木槌が打ち下ろされた。


 乾いた音が、最初の裁判の最初の核心が、いま密室へ持ち込まれることを告げる。


 ざわめきが再び講堂に満ちる中、リュートは静かに書面を閉じた。


 エドワルドもまた無言で一礼し、席へ戻る。


 法廷での勝敗は、まだ決していない。


 だが、この瞬間ではっきりしたことが一つある。


 この裁判は、単なる暴行事件の裁きではない。


 身分は学則の上に立つのか、それとも学則の内に押し込められるのか。


 その最初の判定が、いま密室の合議室で下されようとしていた。




2 密室の合議と、遅すぎた理解


 休廷を告げる木槌の音が大講堂に響いた直後、裁判長、訴追官、弁舌士の三名だけが、法廷裏に設けられた小さな合議室へと移った。


 重い扉が閉まると同時に、傍聴席のざわめきも、上位貴族たちの苛立った視線も、平民たちの張り詰めた息遣いも、すべてが厚い壁の向こうへ遮断される。


 室内に置かれているのは、簡素な机と椅子だけだった。


 だが、そこに満ちる空気は法廷以上に重い。


 最初に口を開いたのは、やはりエドワルドだった。


「殿下。ここでのご判断は、単なる一件の暴行事件にとどまりません。被告人は伯爵家の子息です。議長派に連なる中位貴族の家々にとって、今回の裁判は『学則が自分たちの慣習的権限に介入してくるか否か』を見極める試金石となっております。ここで有罪の前例を作れば、彼らは間違いなく反発する。今後の学則運用全体に深刻な軋みを残しかねません。ゆえに本件は、総論第七条を広く解釈し、『上位者による秩序維持の行為』として例外的に許容すべきです。少なくとも、退路を断つような断定は避けるべきかと」


 その言葉は、決して感情論ではなかった。


 損得勘定として、政治的合理性として、極めて正しい。


 ここで身分秩序に配慮する判決を下せば、議長派を敵に回さずに済む。上位貴族たちの不満も抑えられる。何より、今後の制度運用を続ける上で無用な摩擦を避けられる。


 リュートは、黙ってその言葉を聞いていた。


『――――そうだ。君ならそう言うだろう、エドワルド』


 この知将は、旧秩序の枠内にいる限り、恐ろしく有能だ。彼は決して愚かではない。法の必要性も、学則の有用性も理解している。だが、その法が既存の身分秩序そのものを切り裂く刃となることまでは、許容できないだけだ。


 そして、兄もまた、ここで身分の論理へ流れる。


 リュートは、そう予測していた。


 法廷では厳粛な顔を作れても、密室で現実を突きつけられれば、特権階級の反発を恐れて政治的配慮に落ちる。今までのグラクトであれば、それが自然だった。王の威光を守ることと、今ある秩序を壊さないこと。その二つを両立させようとして、中途半端な裁定へ逃げるはずだった。


 だが。


「……違う」


 低く、しかし迷いのない声が落ちた。


 リュートは一瞬、思考を止めた。


 エドワルドもまた、まばたきを忘れたようにグラクトを見る。


 グラクトは机上に置かれた訴状と学則草案を見下ろしながら、ゆっくりと顔を上げた。その金色の瞳には、休廷前までの揺れが不思議なほど薄れていた。


「総論第七条の『正当な権限または身分に基づく行為』とは、学園の制度運営に必要な役務上の権限を指すものだ。風紀官や教員のように、学園秩序を維持する責務を明確に負った者の行為を予定している。生まれの爵位そのものを根拠に、他者へ私的制裁を加えることまでそこへ含めれば、学則第四条は最初から意味を失う。上位者だけが例外となるなら、法は法ではない。ただの飾りだ」


 それは、先ほど法廷でリュート自身が提示した解釈そのものだった。


 エドワルドの表情が、ごくわずかに強張った。


「ですが殿下、それでは中位貴族たちが――――」


「反発するだろうな」


 グラクトは遮った。


 だがその声音には、驚くほど静かな確信が宿っていた。


「だが、それでも彼の行いは正当化されない。被告人は学園の正式な秩序維持者ではない。ただの一生徒だ。しかも己の家格を笠に着て、相手の拒絶を無視し、有形力を加えた。これを秩序維持と呼ぶなら、法は最初から強い者のための免罪符にしかならない」


『――――兄上が……自らの意志で、学則を選んだ?』


 リュートの胸の奥で、何かが不快なほど鋭く軋んだ。

 勝利の予感ではない。むしろその逆だった。


 彼はずっと、兄を軽蔑してきた。血統に守られ、周囲に持ち上げられ、都合が悪くなれば事実から目を逸らして流されるだけの、空虚な王子。今回も、エドワルドが用意した政治的な逃げ道に飛びつき、特権階級の反発を恐れて身分の論理を選ぶはずだと、そう高を括っていた。


 だが、目の前の男は違う。


 リュートが提示した『学則』の意味を正しく理解し、中位貴族を敵に回すリスクを承知の上で、身分ではなく法を適用するという積極的な選択を自ら下したのだ。


「エドワルド。お前の懸念は分かる。だが、ここで私が『上位者だから許される』という解釈へ逃げれば、この裁判所は最初の一件で死ぬ。今後、誰がどれだけ証拠を揃えようと、結局は身分が上なら免れるという前例だけが残る。私は、それを認めるためにこの席へ座ったのではない」


 エドワルドは沈黙した。


 彼の理性は、主君の言葉の危険性と同時に、その論理的な整合性もまた正確に理解していた。ここで反論を重ねれば重ねるほど、逆に自分が法を骨抜きにしたい側へ見えてしまう。そして何より――――グラクトが今口にしているのは、感情論ではなかった。学則第四条を空文化させないためには、総論第七条の適用範囲を役務上の権限へ限定せねばならない。法体系全体の整合性から逆算された、真正面の結論だった。


「……承知、いたしました」


 やがてエドワルドは、深く頭を垂れた。


「殿下がその解釈を採られるのであれば、弁舌士としての役目はここまでにございます。以後は、その判決がもたらす政治的波紋を最小限に抑えるため、全力を尽くします」


 それは服従だった。


 だが、盲従ではない。主君の決断を受け入れた実務家として、その後始末を引き受けるという、有能な官僚としての敗北の受容だった。


 グラクトは小さく頷いた。

 リュートは、なおも黙っていた。

 合議室の空気は、静かだった。


 だが、たった今ここで、何かが決定的に変わったことだけは、誰の目にも明らかだった。


 裁判長グラクトは、法と身分の衝突に対し、政治的損得ではなく学則の趣旨を優先するという選択を、自らの意志で摑み取った。


 それは、リュートにとっては可能性としては考慮はしても、極めて可能性の小さいものであった。

 ただ都合よく踊るだけの神輿だと思っていた男が、突きつけられた選択肢を前に、逃げずに泥を被る道を選んだ。


 その事実に対する、純粋な驚愕。


「……法廷へ戻りましょう」


 最初に立ち上がったのは、リュートだった。


 いつものように整った声で告げるが、その深紅の瞳の奥には、盤面の前提が覆されたことに対する、冷たい戦慄が沈んでいた。




3 最初の判例


 休廷を終えた鐘の音が、重々しく特別法廷に響き渡った。


 ざわめいていた傍聴席が、波が引くように静まっていく。


 再び入廷した裁判長グラクトは、先ほどまでとはどこか違って見えた。金の髪も、まっすぐに伸びた背筋も、王族としての威光そのものは変わらない。だが、その瞳の奥には、他者の言葉をなぞるだけではない、自ら選び取った者だけが持つ冷たい覚悟が宿っていた。


 訴追官席のリュートは、その変化を誰よりも鋭く見抜いていた。


 弁舌士席のエドワルドもまた、無表情の奥で、主君が合議室にて最終的な判断を固めたことを理解している。


 被告人席の伯爵子息だけが、その空気の変化に気づけていなかった。


 いや、気づこうとしなかったのだろう。彼はまだ、自分が伯爵家の子息であるという一点だけで、最後の最後には守られるはずだと信じていた。


 グラクトが立つ。


「これより、判決を言い渡す」


 その声は、広い講堂の隅々までよく通った。


 一瞬の静寂。誰も息をしないかのような緊張が、その場の全員を包み込む。


「被告人、アルノルト・ベイル――――有罪」


 その二文字が落ちた瞬間、法廷の空気が凍りついた。


 上位貴族の生徒たちの顔が一斉に強張る。平民や下位貴族の生徒たちは、何が起きたのか理解しきれぬまま、ただ目を見開いて裁判長席を見上げていた。


 被告人の伯爵子息は、数秒遅れて言葉の意味を理解したらしい。


「……は?」


 間の抜けた声が漏れる。


 だがグラクトは動じない。木槌を一度、短く打ち鳴らし、法的な結論を述べた。


「本件において本法廷は、被告人が学則第四条に違反し、身分を笠に着た私的制裁として暴力を行使した事実を認定する。弁舌士は、学則基本法総論第七条に基づき、これが『身分に基づく正当な行い』であるとして違法性の阻却を主張した。しかし本法廷は、同条にいう『正当な権限または身分』とは、学園秩序を維持するため制度上付与された役務上の権限を意味するものであり、個人の生来の爵位を根拠とする私的制裁までは含まないと解する。もし、生来の身分そのものに私的制裁の権限が伴うと解するなら、学則第四条が禁じる暴力行為は、上位者に対しては常に違法性が阻却されることとなる。かかる解釈は、同条を死文化させ、学則自体の制度趣旨を失わせる。よって採用できない。学園において、身分秩序は成文法に優越しない。上位者であろうと、下位者であろうと、他者の自由と身体を不当に侵害した者は、等しく法の下で裁かれねばならない」


 その瞬間だった。


 下位の席のどこかで、誰かが小さく息を吞んだ。続いて、別の誰かが、震えるように手を打った。


 ぱち。


 本当に、かすかな音だった。

 だが、その一音はあまりにも重かった。


 平民の特待生たち。下級貴族の子弟たち。これまで身分を理由に退けられ、我慢を強いられ、泣き寝入りするしかなかった者たちにとって、それは初めて「学則が自分たちを守った」と明確に理解できる瞬間だったのだ。


 やがてその拍手は、広がる。遠慮がちに、だが確かに。熱狂ではない。歓声でもない。ただ、信じきれないものを見てしまった人間たちの、戸惑いと感激が入り混じった不揃いな拍手だった。


 上位貴族たちは、誰一人としてそれに加わらない。顔面を蒼白にし、ある者は怒りに唇を嚙み、ある者は理解不能なものを見るように法廷を睨みつけている。


 被告人の伯爵子息は、もはや立っていることすらできない顔をしていた。


「そ……そんな、馬鹿な……私は伯爵家だぞ……!」


 その声に対し、グラクトは冷たく見下ろした。


「判決を続ける。被告人には、学則に基づき相応の懲戒を科す。詳細は生徒会規程に従い、後刻通達する。以上をもって、本件についての裁定を終える」


 木槌が、再び鳴った。


 その音は、ただ一人の伯爵子息の有罪を意味するものではなかった。


 それは学園という箱庭において、身分による私的制裁はもはや当然の権利ではなくなったという、明確な判例が歴史に刻まれた音だった。


   ◇


 傍聴席の後方。


 白い軍服を着たレオンハルトは、微動だにせず、その判決を見つめていた。


 彼の胸の内で鳴り響いていたのは、単なる感心ではない。もっと深く、もっと強い衝撃だった。


『……これが、学則か』


 武とは力だ。だが、その力が何を守るために使われるべきか。誰の上にも立たず、誰の下にも堕ちず、ただ秩序そのものを平等に支えるための基準があるのなら――――それは、元帥家の嫡男として学ぶべき最も重い“正義”ではないか。


 彼はゆっくりと拳を握りしめた。


『ならば、私はこの客観的な秩序を守る剣になりたい』


 今日この場で確定したのは、一つの暴力事件の有罪だけではない。未来の国軍が従うべき、新しい国家の骨格の萌芽だった。


   ◇


 一方で、レティシアはまるで別の世界にいた。


 頰の痛みはまだ残っている。法廷の厳粛さも、伯爵子息の蒼白も、平民たちの震える拍手も、見えていないわけではない。だが彼女の脳内で再生されている物語は、あまりにも都合よく加工されていた。


『やっぱり……!』


 胸の前で両手をきゅっと握りしめ、レティシアは熱に浮かされたように頰を赤くする。


『グラクト様が、ちゃんと私を助けてくれた……! しかも皆の前で、身分に関係なく私の味方をしてくれるなんて……! これ、完全にメインルートの大型好感度イベントじゃない!』


 現実には、自分はあくまで暴行の構成要件を立証するための被害者証言として処理されただけであり、グラクトが彼女個人のために学則を曲げたわけではない。


 だがレティシアにはそんなことは分からない。分かりたくもない。


『よかった……! ちゃんとシナリオ、進んでるんだわ!』


 彼女は勝手な安堵に胸を熱くしていた。法廷の張り詰めた空気の中で、ただ一人、彼女の瞳だけが『私と王子様の物語』という甘く陳腐なフィルター越しに世界を見つめている。その無邪気な狂気は、この場にいる誰よりも、この歴史的裁判の本当の意味から遠かった。


  ◇


 そして――――訴追官席のリュートだけが、まったく別の地平を見ていた。


 制度としては、完璧な勝利だった。想定していた通り、学則は最初の一件において身分秩序へ優越した。しかもそれを宣言したのは、第一王子グラクトその人である。生徒会長としての名目も、次期国王としての権威も、すべて法治の最初の判例に奉仕させることができた。


 本来なら、胸のすくような瞬間のはずだった。


 だがリュートの胸の内に広がっていたのは、冷ややかな達成感だけではない。むしろ、それを塗り潰しかねないほどの鈍い痛みだった。


 兄は、理解した。少なくとも、今日この法廷においては。身分の論理に逃げず、学則の趣旨を自らの頭で解釈し、突きつけられた『選択肢』を自らの意志で摑み取った。


『……遅すぎる』


 心の中で吐き捨てる。

 だが、同時に別の声が囁く。


『本当に、ただ遅すぎただけなのか?』


 兄が、自ら正しい選択肢を摑み取れる人間だったのだとしたら。


 もし、あの幼い日に。兄を「理解する器ではない」と切り捨てるのではなく、自分がこうして真正面から選択肢を提示し続けていれば。


 もし彼が、その選択肢を摑んでくれていたなら――――。


 リュートと、リーゼロッテと、グラクト。


 三人で兄弟として机を並べ、母であるルナリアの教えを共に請い、同じ未来を歩むことができたのではないか。


 そうして自分たちが手を取り合えていたなら、派閥の対立も凶行も生まれず、母が死ぬという悲劇そのものが、そもそも起こり得なかったはずなのだ。


 その残酷な可能性に、今さらどれほど打ちのめされても、もう過去は返らない。

 兄弟の道は、すでに血の海で分かたれている。


 リュートは静かに目を伏せた。


 法廷には、まだ拍手が残っていた。新しい秩序の誕生を祝うにはあまりにも小さく、頼りない音。だが、それでも確かに始まってしまった音。


 法治国家という怪物は、もう産声を上げている。

 そしてその最初の判例は、兄弟の取り返しのつかない断絶と、遅すぎた理解と、取り返しのつかない喪失の上に打ち立てられた。


 グラクトは裁判長席に座ったまま、静かに法廷を見下ろしていた。


 エドワルドはその横顔を見つめ、もはや何も言わず、ただ次に来る政治的混乱の計算を始めている。レオンハルトは新しい秩序への忠誠を胸に刻み、レティシアは夢見がちな勘違いの中で胸をときめかせている。


 誰もが、同じ判決を見ていながら、別々の意味を受け取っていた。


 そうして、第一回学園裁判は閉廷した。


 それは一つの事件の終わりではない。


 むしろ、すべての始まりだった。


 身分ではなく学則が人を裁く。


 その当たり前で、だがこの国では最も危険な前提が、ついに公然の事実として歴史に刻みつけられたのである。



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