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リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜  作者: ムササビ-モマ
第7章『法治の産声』
68/75

第3話前編 『最初の裁き(開廷)』

1 裁判前夜の訴訟指揮


 学園裁判の開廷を翌日に控えた夜。

 第一王子グラクトに与えられた私室は、ひどく静まり返っていた。


 窓の外では春先の風が若木を揺らしている。だが、その柔らかな気配とは裏腹に、部屋の中に満ちているのは、張りつめた緊張と紙の匂い、そして蠟燭の熱に炙られた羊皮紙の乾いた匂いだけだった。


 机の上には、整然と積み上げられた書類の束。

 起訴状の写し、学則基本法の該当条文、風紀官からの現場報告、証人調書、裁判進行の覚書――――それらすべてに、何度も読み返された痕跡がある。


 グラクトはその中心に座り、じっと一枚の紙面を見下ろしていた。豪奢な第一王子の私室であるにもかかわらず、今この部屋にあるのは王族の享楽ではない。あるのは、明日、自らが初めて公の場で「法に基づいて他者を裁く」という重責だけだった。


 その静寂を破ったのは、扉を叩く端正な音だった。


「……入れ」

 短い応答ののち、扉が開く。

 姿を現したのは、プラチナブロンドの髪を乱れなく整えた少年――――エドワルド・シーン・カルネリアである。

 彼は入室すると、まず隙のない一礼を捧げた。


「夜分に失礼いたします、殿下。明日の開廷に先立ち、最終確認に参りました。まず進行ですが、開廷宣言の後、訴追官による冒頭陳述。次いで被告人の人定質問と罪状認否。その後、証拠調べ――――被害者本人の供述、現認した風紀官の証言、必要に応じて補助資料の提示。そこから弁舌士による反対尋問、法的主張の整理、最終弁論を経て、最後に殿下が判決を言い渡されます。形式は、あくまで『学則に基づく公正な裁き』で統一いたします。重要なのは、感情ではなく手続に則って進んでいるように見せることです。たとえ結論がすでに見えていようとも、手順が整っていなければ、それは裁きではなく私刑と受け取られます」


「ああ。ちょうど、お前を呼ぶべきか考えていたところだ。……そこまでは分かっている」

 グラクトの声音は落ち着いていた。


 だが、その落ち着きはかつてのような、何も考えず周囲に支えられる神輿の静けさではない。むしろ、考え抜いた者だけが持つ、重く沈んだ静けさだった。


 エドワルドはそれを敏感に察しながらも、表情には出さなかった。彼は机の前へ進み出ると、あらかじめ用意していた進行表を滑らせるように差し出し、そのまま次の論点へ入る。


「特に明日は、全校生徒が見守る最初の裁判です。ここで示すべきは、殿下が激情で人を断ずる方ではなく、規則と秩序に基づいて学園を導く裁定者である、という一点に尽きます。そのうえで申し上げますが、被告人はただの無法者ではありません。貴族院において一定の発言力を持つ伯爵家の子息であり、その背後には中位貴族層の空気がございます。ここで彼を真正面から重く断罪すれば、学園の秩序は一時的に保てても、別の火種を無用に育てることになる」


 グラクトは無言のまま、ようやく視線を上げた。

 金色の瞳が、蠟燭の火を映してわずかに揺れる。


 エドワルドは、その目を正面から受け止めながら言葉を継いだ。

「もちろん、表向きには学則が優先されるべきです。ですが法とは、条文だけで完結するものではありません。秩序の維持という大目的のために、どこまで厳格に適用し、どこで現実との均衡を取るか――――そこに裁定者の知恵が問われます。本件で争点となるのは、単なる暴力の有無だけではございません。学則基本法総論には、『正当な権限または身分に基づく行為は罰しない』という条項がある。ならば、上位者が下位者の無礼や逸脱を矯正しようとした行為に、一定の正当性を認める余地はある。ここで必要なのは、殿下の威光を損なわず、なおかつ学園全体に『秩序は保たれている』と示すことです。被告人の行為を全面的に称揚する必要はありません。学則違反の疑いは認めつつも、正当行為の解釈を広く取り、訓戒あるいは軽微な処分に留める。それが最も穏当で、最も賢明な着地にございます」

 それは明白な誘導だった。


 事実認定を争うのではなく、違法性の段階で逃がす。構成要件には触れても、最終的には「正当行為」として違法性を阻却してしまう。そうすれば法の体裁を保ったまま、政治的波風だけを抑えられる。


 政治的には、極めて正しい。

 暖炉の火が小さくはぜる音だけが、やけに大きく響いた。


 グラクトはしばらく何も言わなかった。机の上の書類に視線を戻し、その中の一冊――――何度も読み込まれ、端が擦り切れ始めた写本へと指先を置く。


 それは『王国史』。

 王家の品位と裁きの歴史を、事実と判例の形で抜き出した、あの異様に冷徹な書であった。恣意的な恩赦。身分への配慮を優先した結果、反乱の火種を残した判決。逆に、あまりに感情的な処罰が、王権そのものへの不信を招いた例。グラクトは、ここ数週間、それを何度も何度も読んでいた。


 自分のために用意された盤面であることを理解しながら、それでも、そこに並ぶ「事実」からは目を逸らせなかった。王が恣意に逃げた時、法は死ぬ。法が死んだ時、残るのは人の顔色だけだ。そして、人の顔色で守られた秩序は、結局、最も声の大きい者の暴力へと還る。

 そのことを、彼はようやく、自分の頭で理解し始めていた。


「……エドワルド。お前の言いたいことは分かる。明日の裁判は、ただ一人の伯爵子息を裁く場ではない。……そのことも、お前は分かっているのだろう」


「無論にございます。だからこそ、です。最初の判例は重い。だからこそ、学則が中位貴族層に対する露骨な敵意ではないと示す必要があるのです。ここで最初から極端に振れれば、法そのものが『特権を奪うための刃』と見なされ、以後の運用はいたずらに困難になります」

 あくまで理に適っている。


 あまりに理に適っているからこそ、グラクトはすぐには否定できなかった。

 自分は、まだ王ではない。学園という箱庭の裁判長にすぎない。だが、それでも明日の判決は、ここで暮らすすべての生徒に「これから何が正しいとされるのか」を示すことになる。

 そこから逃げてはならない。


 だが、同時に、軽々しく振り下ろしてよいものでもない。

 その重みを、彼は今、たしかに感じていた。


「……手順は分かった。明日は予定通り進める。冒頭陳述、証拠調べ、弁論、判決。形式は崩さない。その上で、何をどう解釈するかは……法廷で決める」

 エドワルドは一瞬だけ目を細めた。


 それは失望でも反発でもなく、主君がなお結論を口にしないことへの静かな観察だった。


「承知いたしました。では私は、弁舌士として、彼の行為が罰を免れる『正当な例外』に当たるという筋道を整えておきます」

 争点を構成要件ではなく、違法性阻却事由の有無に絞り込むという、第一王子側近としての極めて正確な実務宣言であった。


「殿下も、どうか今夜は少しでもお休みください。明日は、学園中の目が貴方お一人に注がれます」

 丁寧に一礼し、エドワルドは退室する。

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。

 再び一人になった部屋で、グラクトはしばらく微動だにしなかった。


 政治的には、エドワルドが正しい。秩序を維持するだけなら、曖昧な着地はいくらでも可能だ。上位者の躾と称し、学則に柔らかな違法性阻却事由を与えれば、中位貴族層の反発は最小限に抑えられる。


 だが、それでいいのか。

 それでは結局、「法はあるが、最後は身分が勝つ」という、この国そのものを学園の中に再生産するだけではないのか。

 グラクトは机の上の写本を開く。


 そこに書かれているのは、飾り立てられた正史ではない。判決と、その後に生じた帰結だけが冷たく並べられた記録だ。誰を庇い、誰を切り捨てたか。その時、秩序はどう揺れたか。為政者が何から逃げ、何を直視しなかったか。


 ページをめくる指先に、力が入る。

「……恣意に逃げれば、また同じか」

 それは誰に向けた言葉でもなかった。

 ルナリアの死。セオリスの断末魔。


 そして、何も知らぬまま、ただ周囲の作った盤面の上で「許可する」と頷くだけだった、かつての自分。あの時、自分は判断していなかった。責任だけを持つ顔をして、実際には何一つ見ていなかった。


 だからこそ、今度こそ。

 たとえ未熟でも、自分で読んだ事実から逃げず、自分で解釈し、自分で言葉にしなければならない。


 グラクトはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。

 明日、自分は何を裁くのか。伯爵子息の一発の平手打ちか。それとも、その背後にある「身分なら許される」という、この国の空気そのものか。


 答えは、まだ声にはならない。

 だが、迷いの中にこそ、確かにひとつの覚悟が芽生え始めていた。

 蠟燭の火が、静かに揺れる。

 裁判前夜の王子の部屋で、王にも神輿にもなりきれぬ一人の少年が、初めて自分の意志で「裁く者」になろうとしていた。




2 開廷と、明確性の原則


 翌朝。

 王立学園の大講堂は、もはや昨日までのそれではなかった。


 本来ならば式典や演説のために用いられる巨大な空間の中央に、今日は異様なまでに整然とした「裁きの場」が築かれている。高く設えられた中央壇上には裁判長席、その一段下の左右には訴追官席と弁舌士席。さらにその前方には被告人席と証言台、後方には風紀官たちの詰める位置まで明確に区切られていた。


 すべてが「誰がどこに立ち、何を言い、何に従うべきか」を可視化するための配置である。身分や空気ではなく、位置と手続によって場を支配する――――その思想そのものが、すでにこの講堂の造形に染み渡っていた。


 観覧席には、学園中の生徒たちが学年を問わず詰めかけている。上位貴族の子弟たちは、これが単なる見世物ではなく、自分たちの「当然」が今後どこまで許されるのかを定める審判であることを理解していた。平民や士爵家、下位貴族の生徒たちもまた、この学園に本当に規則が存在するのか、それとも結局は身分の壁がすべてを踏み潰すのかを、固唾を呑んで見守っている。


 そして、そこにいる誰よりも無邪気に胸を躍らせている者が一人だけいた。

 子爵令嬢レティシア・ラナ・ハーテスである。


『きた……っ! きたわ! ついに学園裁判イベント! しかも大講堂を改装した特別法廷とか、演出まで完璧じゃない! これ絶対、メインルートの重要シーンでしょ……!』


 昨日、頰を打たれた痛みはまだ残っている。だが彼女の脳内では、その痛みすら「攻略対象を動かすためのイベント用ダメージ」として都合よく変換されていた。現実の裁判が始まろうとしているというのに、彼女一人だけが物語のクライマックスを鑑賞する観客のような高揚感に浸っている。


 やがて、ざわめきに包まれていた講堂の空気が、一瞬で凍りついた。

 正面扉が開く。

 風紀官たちに先導され、関係者が順に入場してきたのだ。


 まず、裁判長席へ向かうのはグラクト。

 純金の髪と金の瞳は相変わらず、講堂そのものを照らすような王家の威光を帯びている。だが、その歩みには昨年までの「作られた眩しさ」とは異なる重みがあった。ただ美しく立っているだけの神輿ではない。己の言葉がこれから人を裁き、場を決定づけることを理解している者の歩みである。


 次いで左の席に着いたのは訴追官リュート。

 黒髪、赤眼。その色だけ見ればこの国で忌避される「影」の象徴に他ならない。だが今、その少年は王家の中で最も冷徹に制度を動かす実務家として、堂々と法の席に座っていた。


 右の席には弁舌士エドワルド。

 隙一つなく整えられた姿は、まるでこの法廷そのものがいかなる結論へ転んでも、ただちに最適な政治的言語へ翻訳してみせると言わんばかりの完成度を誇っている。


 そして最後に、風紀官に両脇を固められた被告人――――伯爵子息が、不満と苛立ちを隠そうともせず被告人席へ押し込まれた。

 すべての配置が整った瞬間、講堂の中から私語が完全に消えた。


 グラクトは中央の裁判長席に立ち、眼下の全校生徒を見渡した。

 その視線は重く、静かで、どこまでも冷えていた。


「――――これより、王立学園学則に基づく第一回学園裁判を開廷する。本法廷は、学園内における違反行為の事実を、規則と証拠に基づいて審理する場である。身分や私情によって左右されず、提出された事実と、明文化された学則のみに従って裁定を下す」

 ただの開会宣言にすぎないはずなのに、その一言には、これまで空気と慣習に吞まれていた学園に対して、明確な節目を刻むだけの重みがあった。


 観覧席の平民たちの顔が強張る。

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにもこの国らしくない言葉だったからだ。王や貴族の機嫌ではない。提出された事実と明文化された学則。そんなものが、本当に自分たちを守る力になるのか――――誰もが半信半疑で、それでも耳を澄ませていた。


 グラクトが軽く顎を引く。

 すると、訴追官席のリュートがゆっくりと立ち上がった。


 その立ち姿には、演説の熱も、怒りも、誇示もない。あるのはただ、これから法廷の論点をどこまで正確に切り分けられるかという、実務家としての冷たい集中だけであった。


「訴追官として、起訴事実を述べます。本件において訴追側が問題とするのは、単なる『不快な出来事』ではありません。誰が、何を根拠に、どのような手段を用い、どのような結果を生じさせたか――――すなわち、学則違反として規定された『三つの事実』が完全に揃っているか否かです」

 近代法学における『構成要件該当性』の確認作業の宣言であった。


「第一に、被告人が自らの爵位を誇示し、相手に対して上下関係を強制したこと。すなわち、身分の誇示です。

第二に、その優位を背景として、相手の身体に接触したこと。すなわち、実行行為としての暴力です。

第三に、その結果、被害者の自由な意思決定と身体の平穏が侵害されたこと。すなわち、自由および身体の侵害です。

訴追側は以上の要件充足を、被害者本人の供述、現認した風紀官の証言、ならびに複数の付随資料によって立証する予定です」

 区切られた三要件。


 それは講堂に集まった生徒たちの耳にとって、ほとんど初めて聞く種類の言語だった。

 昨日までは「失礼だった」「やりすぎた」「身の程を弁えない」など、曖昧な評価語で片付けられていたはずの出来事が、今この場では「何をしたか」「どの規定に該当するか」という形に変換されていく。法が、空気ではなく文字として、概念として、初めて人の前に姿を現した瞬間だった。


 弁舌士席のエドワルドは、その整然とした起訴構造を黙って聞いている。氷青の瞳はわずかにも揺らがなかった。むしろ、その怪物的なまでの構成の正確さを、内心では冷静に評価していた。

 起訴事実の陳述が終わると、グラクトが静かに言った。


「被告人。起立せよ」

 伯爵子息は不機嫌を隠さぬまま立ち上がった。だがその目には、まだ本気の危機感はない。こんなものは結局、自分の家格と周囲の空気でどうにでもなると信じ切っている目だった。


「氏名と家名を述べよ」

 形式に則った人定質問。


 被告人は不承不承ながら答える。学年、身分、所属。必要事項が確認されるたび、風紀官が記録を取っていく。その一つ一つが、「こいつは誰で、どの位置にいる者なのか」を曖昧さなく固定していった。

 グラクトは続けて、手元の起訴状を読み上げた。


「被告人は、食堂において、学則第四条に違反し、自己の身分を背景として他生徒に威圧を加え、さらに暴力をもってその身体と自由を侵害した疑いがある。……被告人、この罪状について認めるか、否認するか」

 その問いに、伯爵子息は一瞬きょとんとした顔をした。


 次の瞬間、あからさまな嘲笑がその口元に浮かぶ。

「……否認いたします。理由も何もありません。私は上位の貴族として、無礼な下位者を指導しただけです。子爵風情が、第一王子殿下のお近くで身の程を忘れた振る舞いをしていた。だから、それを正そうとした。それだけのこと。そもそも、貴族が下位の者へ礼儀を教えることのどこが罪だと言うのですか。少々手荒になったから何だというのです。こちらは学園の秩序を守るために動いたのであって、暴力を楽しんだわけではない。あの女が、自分の身分も弁えず騒がしくまとわりついていたことこそ問題でしょう」

 ざわ、と上位貴族の席が揺れた。


 通常、貴族の諍いといえば大声で家格と正当性を怒鳴り合うものだ。しかし、この法廷では一切の割り込みが許されず、ただ冷徹に『手順』だけが進んでいく。その見えない檻のような息苦しさに、特権階級の者たちは得体の知れない気味の悪さを感じ始めていた。


 被告人の言葉には、一片の悪びれもない。己が他者の頰を打ったことも、恐怖を与えたことも、そもそも「して当然の範囲」に入っているという、貴族社会の常識そのままの顔だった。


 そして、その傲慢さこそが、この裁判が避けて通れぬ問題の核心だった。

 もしここで、この男の言い分が上位者として当然と認められるなら、学則第四条は初日で死ぬ。違法性が悉く阻却され、法は生まれた瞬間に身分の前に膝を屈することになる。


 グラクトは、被告人をじっと見つめた。

 その金の瞳に怒りはない。あるのは、むしろ昨夜よりさらに深く沈んだ、冷たい観察だった。

 こいつは本気でそう思っている。


 演技でも強弁でもない。法があると告げられた今この瞬間ですら、なお「爵位があれば許される」と疑っていない。その事実が、かえって重かった。


 被告人席に立つ伯爵子息は、旧秩序そのものだった。そして、今ここで問われているのは彼一人の有罪無罪ではない。この人間を通して、「身分は法の上に立てるのか」という問いそのものが法廷の中央へ引きずり出されているのだ。


 訴追官席のリュートは、わずかに目を細めた。

 想定通り。いや、想定以上に分かりやすい愚物だった。これほど綺麗に旧秩序の論理を自白してくれるなら、立証のための材料としては申し分ない。


 弁舌士席のエドワルドは、表情を動かさない。

 だが内心では、被告人の愚かさにひどく苛立っていた。もう少し慎重に振る舞えばよいものを、法廷の冒頭からここまで露骨に「身分だから許される」と言い切ってしまえば、争点は事実の有無ではなく、まさしく違法性阻却しか残らなくなる。


 大講堂全体に、目に見えぬ緊張が張り巡らされる。

 法は文字として提示された。被告人は旧秩序の論理をむき出しにした。ならば次に問われるのは、その旧秩序を、証拠と法理で本当に切り刻めるのかという一点だけである。

 グラクトは木槌を軽く打った。


「罪状認否は記録された。これより証拠調べに入る」

 その一言で、講堂の空気がまた一段階、深く沈んだ。

 いよいよ次の段階では、曖昧な印象や身分の空気ではなく、具体的な言葉と行為が、事実として解体されていく。

 学園という箱庭における、最初の本格的な「法の作業」が、静かに始まろうとしていた。




3 証拠調べと、事実の固定


 グラクトの開廷宣言と罪状認否を終えた法廷には、すでに張り詰めた緊張が満ちていた。被告人はなおも鼻先で笑い、傍聴席の上位貴族たちの一部もまた「どうせ最後は身分相応のところへ落ち着く」とでも言いたげな、甘い期待を捨てていない。


 だが、その空気を一歩ずつ切り崩していくように、リュートは静かに立ち上がった。

「訴追側は、被害者本人への尋問を請求します」

 グラクトが短く頷く。


 風紀官に促され、証言台へ歩み出たのはレティシアだった。

 昨日までなら、王子と視線が合うだけで舞い上がっていたはずの彼女も、全校生徒の視線が自分一人へ突き刺さるこの場では、さすがに頰の血の気を失っている。しかも正面には裁判長たるグラクト、左には赤い目で淡々と書面を操るリュート、右には氷のようなエドワルド。


『え、なにこの空気……! イベントの選択肢間違えたら即ゲームオーバーになりそうなくらい怖いんだけど……!』

 これがイベントだと浮かれて受け止め切れるほど、現実の法廷の空気は優しくはなかった。


 リュートの声は冷たく平板で、そこに慰めや配慮の色はない。

「証人。氏名、家名、学年を述べてください」

 レティシアは一瞬、場違いな愛想笑いを浮かべかけ――――だがその瞬間、リュートの目がまっすぐに自分を捉えていることに気づき、慌てて姿勢を正した。


「……レティシア・ラナ・ハーテス、一年です」

「よろしい。では質問します。昨日、食堂において、被告人から接触を受けたのは事実ですね」


「は、はい……」

「その際、被告人はあなたに対し、自らの身分を示しながら発言しましたか」

 レティシアは一瞬きょとんとした。


 脳裏では「悪役令嬢に嫌味を言われ、モブ貴族に絡まれるイベント」程度の分類しかなされていない。だが、ここで求められているのはそんな物語的整理ではないのだと、かろうじて察する。


「えっと……その、はい。『子爵風情が』って……言われ、ました」

「確認します。被告人は、あなたを対等な一生徒としてではなく、『子爵風情』という家格を理由に見下し、上下関係を前提に威圧した。そう理解してよろしいですね」

 問いの形は丁寧だが、逃げ道はない。


 レティシアの曖昧な主観や、恋愛ゲームのような脳内注釈は、その瞬間ごと法的な言語へ翻訳されていく。


「……は、はい」

 傍聴席が再びざわついた。

 ただ嫌な言い方をされたではない。今のやり取りによって、被告人の発言は暴行の前提となる「身分の誇示」という要件に位置づけられたのだと、多くの者が本能的に理解したからである。


 リュートはためらわず続けた。

「次に確認します。あなたはその接触を望んでいましたか」

 レティシアはそこで、少しだけ迷った。


 本当のことを言えば、彼女はあの時、食堂で伯爵子息に絡まれた瞬間ですら、どこかでこれもイベント分岐かもしれないと甘く考えていた。完全な拒絶一色だったかと言われれば、そうとも言い切れない曖昧さがある。


 しかし、その迷いを見抜いたように、リュートの問いが重ねられる。

「あなたは、相手からの接近に対し、不快と恐怖を覚え、その場を離れようとしましたね」


 まるで、彼女の中で混線していた感情を、法廷用に切り分けて整えてやるかのような冷徹な誘導だった。レティシアは小さく息を呑み、それから頷いた。


「……はい。怖くて、逃げたかったです」

「にもかかわらず、被告人はその場でなお接近を続けた。違いますか」


「違いません……」

「さらに、被告人はあなたの頰に有形力を加えましたね」


「……はい」

 講堂の空気がまた一段、冷えた。


 発言の機会は厳しく制限され、ただ事実のピースだけが盤上に置かれていく。リュートは一切声を荒げない。だが、その静かな確認作業の積み重ねによって、なんとなく嫌な出来事は、明確な構成要件該当事実へと固定されていく。


「その一撃によって、あなたは床に倒れましたか」

「はい」


「痛みはありましたか」

 そこまで問われて、レティシアはようやく昨日の鈍い痛みを思い出したように、そっと自分の頰へ触れた。


「……ありました」

「恐怖により、自由に動き、自由に反論し、自由にその場を去る状態ではなくなった。そうですね」

 もうイベントではない。


 レティシア自身も薄々分かり始めていた。自分がここで語らされているのは、物語上の被害者役ではなく、一人の権利侵害の当事者としての事実なのだと。


「……そう、です」

 リュートはそこで書面を閉じた。

「以上で被害者本人への主尋問を終わります」

 簡潔だった。


 だが、その簡潔さゆえに重い。彼女の場違いな感情や空想をすべて削ぎ落とし、身分の誇示、拒絶の継続、有形力の行使、恐怖と身体侵害という客観的事実だけを、完璧に法廷へ提出し終えたからである。


 グラクトは静かに視線をエドワルドへ向けた。

「弁舌士、反対尋問は」

「……いえ、現時点ではございません」

 エドワルドはそう答えた。


 ここで被害者本人の認識の曖昧さを突くこともできなくはない。だが、レティシアの証言はすでにリュートの手で客観化されている。無理にここで突けば、かえって被害者を追い詰める上位者という印象だけを強める危険があった。

 ならば争うべきは、事実そのものではない。


 次の証人。そこが勝負であった。

「訴追側、次の証人を」

「風紀官ライオネルの証言を請求します」

 講堂の空気がわずかにどよめいた。

 南のヴィレノール公爵家次期当主にして、学園中にその凶暴さと武力を知られた男である。彼が証言台へ向かうだけで、場に流れる圧は一変した。


 ライオネルは気負いもなく立ち、証言台に片手を置いた。獲物を前にした獣のような目が、被告人を真っすぐに射抜く。昨日この男の腕を捻り上げ、床に叩き伏せた時とまったく同じ目だった。


「氏名と立場を」

「ライオネル・ゼオン・ヴィレノール。風紀官副責任者」

「昨日、食堂における現場へ駆けつけましたね」


「ああ」

「その際、被告人が被害者に対してどのような状態にあったか、事実のみを述べてください」

 ライオネルは鼻で笑うように息を吐いた。


「簡単だ。こいつは令嬢を見下ろして怒鳴り散らし、そのあと本気で頰を張り飛ばしてた。俺が見た時点で、令嬢は床に倒れ、周囲も凍りついていた。明確な暴力行為だ」

 その証言は極めて強かった。


 単なるそう見えたではない。南の公爵家嫡男という、絶対に平民側へ媚びる必要のない上位者が、自らの目で見た事実として断定したのである。

 リュートは淡々と確認を重ねる。


「有形力の行使があった、と断言しますか」

「する」


「被害者は、その時点で自由かつ対等な状態にありましたか」

「あるわけねえだろ。完全に怯えてた」

「被告人は学則第四条に違反していた、と」


「現行犯だ」

 短く、鋭い。

 ライオネルの証言は、余計な感情を交えない分だけかえって重かった。


「以上です」

 リュートが引く。


 構成要件は完全に立証された。法廷の空気はほとんど訴追側へ傾いたように見えた。身分を笠に着た暴力、被害者の恐怖、風紀官による現認。事実関係だけ見れば、もはや逃げ場などない。


 ――――そこで、エドワルドが立ち上がった。

 彼の動作は、どこまでも静かで無駄がない。騒然としかけた傍聴席が、逆にその静けさによって鎮まる。


「反対尋問を」

 グラクトが許可すると、エドワルドは証言台のライオネルを正面から見据えた。


「風紀官殿。確認します。貴方は昨日、被告人を制止する際、その腕を強く捻り上げ、床へ押さえつけましたね」

「ああ。抵抗したからな」


「つまり貴方自身も、他者の身体に対して有形力を行使した」

「そうだな」

 その瞬間、一部の上位貴族がはっと顔を上げた。

 何を狙っているのかが見えたからである。


 エドワルドの声はなおも穏やかだった。

「では問います。なぜ貴方のそれは許されるのですか」


 ライオネルの目が細まる。

「……風紀官の任務だからだ」


「その通り。貴方は『風紀官』という学園内の正当な権限を背景として有形力を行使した。ゆえに、それは罪に問われない」

 正当行為による違法性阻却の提示である。エドワルドはそこで、わずかに声を低くした。


「では、上位貴族が下位の者を矯正し、秩序を維持しようとする行為はどうでしょうか。貴族社会において、上位者が下位者の無礼を正すことは、古くから認められてきた役割です。すなわち、これもまた『身分に基づく正当な行為』と考えうるのではありませんか」

 ざわ、と空気が変わる。


 ここに来て初めて、論点が「殴ったかどうか」から、「殴ったとして、それは法的に罰せられるべき違法な行為か」へと移されたのだ。


 ライオネルは露骨に顔をしかめた。

「……ふざけた理屈だな」


「理屈を問うているのです、風紀官殿」

 エドワルドは一歩も引かない。


 事実を争わず、違法性阻却の土俵へ戦場を移す。実務家として極めて正確な反撃だった。


 観覧席の上位貴族たちの顔に、にわかに光が戻り始める。そうだ。もし正当な権限が暴力を許すのなら、身分もまた秩序維持の権限たりうるのではないか。その問いは、彼らが当然のものとして信じてきた日常そのものに接続していた。


 対して平民や下位貴族の席には、再び不安が広がる。せっかく事実が積み上がったのに、結局最後は上位者だから許されるで覆されるのではないかと。


 リュートは黙ってその揺れを観察していた。

 いい。これでいい。事実だけで勝てる裁判なら、この国の病理は炙り出せない。問題は常に、その次――――人間がどのような理屈で『自身を正当化』しようとするかにある。


 グラクトは正面でその応酬を聞きながら、机上の記録へ静かに目を落としていた。


 有形力の行使は争われていない。争点は明確に、正当な権限または身分に基づく行為がどこまで違法性を阻却しうるかへ移った。


 法廷は今、最初の核心へ足を踏み入れたのだ。

 エドワルドは最後に、証言台へ向けて一礼にも似た角度で顎を引いた。

「以上です」


 反対尋問が終わる。

 だが、その余波は大きかった。

 訴追側は事実を固定した。


 弁護側は、その固定された事実を正面から否定せず、「許される暴力」と「許されない暴力」の境界へ論点をずらした。

 この裁判は、もはや単純な暴行事件ではない。


 身分そのものが、法の下でいかなる位置を占めるのか。

 その問いが、大講堂いっぱいの沈黙の中で、誰の胸にも逃れようなく落ちていた。

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