第2話後編 『現行犯』
1 緊急会議と、読めない異物
入学式からひと月あまり。新入生の喧騒がようやく学園の空気に馴染み始めた春の夕刻。
王立学園の生徒会室には、異様なまでに張り詰めた空気が満ちていた。
重厚な円卓を囲んでいるのは、第二王子リュート、書記官たるエドワルド、東のアイリス、西のヴィオラ、南のライオネル、北のベアトリス、そしてユスティナ――――ティナである。
生徒会の定例会議ではない。グラクトへ上げる前に、学園内で発生した危険要素を実務側だけで切り分けるための、非公式の根回しだった。
口火を切ったのはエドワルドだった。机上の羊皮紙を一瞥し、氷のような声で事実を積み上げていく。
「対象はハーテス子爵家令嬢、レティシア。王都に隣接する代官職の家ですが、昨年の食糧相場混乱の余波を強く受け、現在は実質的に破綻寸前です。帳簿上も、家格維持の体面費を除けば、立て直しの余地はほぼありません」
ティナが静かに補足した。
「王都側の公的記録でも、債務の増加と納付遅延は確認できます。表沙汰にはなっておりませんが、極めて深刻な状態です」
リュートは無言で頷いた。
家が沈みかけている――――そこまでは予想の範囲内だ。問題は、その上でレティシアが見せている振る舞いの方だった。
エドワルドは羊皮紙を伏せ、今度は感想ではなく明確な警戒として言葉を続ける。
「……にもかかわらず、当の令嬢本人は、まるで追い詰められている者の動きではない。王族への接近に際して最低限必要な慎重さも、後ろ盾を確認するだけの計算もない。あまりにも不用意で、無防備です。
普通、没落寸前の貴族であれば、まず最初に考えるのは延命策であって、王家中枢への直線的な接触ではない。
にもかかわらず、彼女はまるで失敗の代償そのものを認識していないように動いている。そこが不気味です」
ライオネルが腕を組んだまま低く喉を鳴らした。
「考えなしの小娘にしか見えねえ。だが、考えなしで王族にあそこまで何度も突っ込めるのも、それはそれで気味が悪いな」
アイリスが扇で口元を隠し、冷ややかに引き取る。
「損得で動く令嬢なら、もっと安全な道を選びますわ。誰かに取り入るにしても、侍女や下位貴族を経由して段階を踏むのが普通ですもの。最初からグラクト殿下やエドワルド様へあれほど露骨に接近するのは……打算としては下策にも程がありますわ」
「つまり、打算がないということ?」
ヴィオラが淡々と確認した。
「少なくとも、貴族社会を理解した上での動きには見えません」
エドワルドは即答した。
「だからこそ不気味なのです。破産寸前の子爵家令嬢が、何の備えもなく王家中枢へ接近する。成功率より、失敗した場合の損害の方がはるかに大きい。合理的な判断力を持つ者なら、まずやりません」
この世界ではあり得ない。
その一点が、かえって彼女の危険性を底知れぬものへ変えていた。
乙女ゲームの恋愛劇ならば、身分差を越えた無垢な接近は「運命の始まり」として機能するのかもしれない。だがここは違う。王族に不用意に近づくことは、当人一人の破滅で済まない。王族の威光、周囲の派閥均衡、誰がその接触を許したか、どこから情報が漏れたか――――あらゆるものが一斉に問われる。つまり、軽率さそのものが政治的事件になるのだ。
ベアトリスが、そこで静かに口を開いた。
「間者か、愚か者か。その切り分け自体は後でよい。問題は一つだ。あの令嬢がこのまま動けば、秩序を乱す火種になる。それだけは確定している」
北の将軍らしい、容赦のない整理だった。
動機ではなく結果。感情ではなく被害の予測。その一刀で、会議はようやく正体当ての迷路から引き戻される。
リュートは指先で机を軽く叩き、全員を見渡した。
「同意する。今の段階で重要なのは、彼女の本質を見誤らないことだ。ここで兄上に上げれば、あの令嬢は正式に『盤面に乗った存在』になる。今はまだ、その価値を与えるべきではない。……まずは水面下で観察し、何を考え、何を欲し、どこまで危険なのかを見極める」
「では監視を」
エドワルドが即座に言う。
「ああ。だが露骨なものは避ける。警戒されれば、逆に読めなくなる」
そこでリュートの視線が、円卓の一角へ向いた。
ティナは、静かな官僚の顔でその視線を受け止める。
「同年齢、同性、かつ家格も十分。……ユスティナ嬢。君に、彼女への接触を頼みたい」
ティナは一瞬も動じなかった。ただ長い睫毛を伏せ、淡々と問い返す。
「接触の名目は?」
「友人候補。あるいは、貴族令嬢としての忠告役でもいい。自然な形で近づき、思考の癖と行動原理を見てほしい。怯えから動いているのか、誰かの指示なのか、それとも別種の異物なのか」
ティナは短く黙考し、それから答えた。
「承知いたしました。表向きは、同年代の令嬢として様子を見ます。……ただし、過度な期待はなさらぬよう。非論理的な対象ほど、解剖と観察には時間を要します」
「それで構わない」
話はそこで一応の着地を見た。
レティシアは排除も保護もされず、まずは監視と分析の対象として棚上げされる。それは温情ではなく、最も危険の少ない保留というドライな判断だった。
やがて会議は解散となり、エドワルド、ベアトリス、ライオネルらが順に退室していく。最後に残ったのは、リュートとティナ、そして扇を閉じたまま面白そうに眺めているアイリスだけだった。
短い沈黙ののち、リュートが口を開く。
「……ユスティナ嬢。先ほどの件、筋を違えた。状況上、君に頼むのが最適だったのは事実だ。だが、本来なら先に了承を取るべきだった。あの場で当然のように役目を振ったことについては、謝罪する」
真っ直ぐな謝罪だった。
王族としてではなく、実務を預ける側の人間としての詫び。
ティナはしばらく彼を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「合理的判断であったことは認めます。……ですが、私の主はリーゼロッテ様です」
「分かっている」
リュートは即座に頷いた。
「今夜のうちに、僕から正式にリーゼへ許可を取る。併せて、王都側の網でハーテス家の現状をより詳しく洗ってもらいたい。債務の実態、代官職の綻び、家の内部事情、そしてレティシア本人に対する家の扱いだ。学園の観察だけでは、どうしても見えない部分がある」
その返答を聞いて、ティナの表情からわずかに硬さが抜けた。
「……承知しました。リーゼ様には、私からも状況を整理してお伝えします」
そのやり取りを横で聞いていたアイリスが、ついに堪えきれなくなったように小さく笑った。
「まあ。ずいぶんと殊勝ですこと、殿下」
リュートが眉をひそめる。
「何がだ」
「何が、ではありませんわ。以前の殿下でしたら、ここまで律儀に頭を下げる前に、まず『必要だから使う』で終わらせていたでしょうに」
扇の向こうで、金色の瞳が愉快そうに細められる。
「それに……ようやくご理解なさいましたのね。ティナが誰のものか」
「アイリス様」
ティナが低くたしなめる。
だが、アイリスは楽しげな笑みを崩さなかった。
「だって事実でしょう? 殿下がぼんやりしている間に、こちらはちゃんと人を育てて、支えるべき相手を選ばせてきたのですもの。安堵くらいさせてくださいませ」
その言葉に、リュートは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「……そうだな。僕が気づくのが遅かった」
「ええ。本当に遅いですわ」
アイリスは容赦なく言い切ったが、その声音には棘だけではなく、どこか家族めいた温度も滲んでいた。
ティナは二人のやり取りを見つめ、わずかに目を伏せる。
この場には、ただの政略会議ではない、奇妙な温もりが確かにあった。冷徹な実務と、剝き出しの利害と、その底にある不器用な信頼。だからこそ、この陣営はただの派閥ではなく、王宮のどこにも存在しない異質な結びつきで成り立っているのだと、改めて理解させられる。
リュートは最後に、机上の書類へと視線を落とした。
「……まずはリーゼの許可を取る。その上で、ハーテス家の実態を掘る。学園の中だけで見ていては、この異物の危険度は測れない」
「ええ。友人を装いながら、解剖してまいります」
ティナの声は、恐ろしいほど静かだった。
こうして、破産寸前の子爵家から現れた一人の少女は、誰にも理解されぬまま、学園の成文法と権威を揺らしかねない「読めない異物」として、静かに監視網の中へ取り込まれていく。
そしてその裏では、王都に残る影の女王へ向けて、新たな問いが投げられようとしていた。
2 秩序の軋みと、過剰な事実の発生
同じ日の夕刻。
授業と諸手続きが終わり、王立学園の大食堂には二年生以上の上級生と、まだ空気を読みきれない新入生とが入り混じり、独特のざわめきが満ちていた。
高い窓から差し込む西日が、長い食卓と白い皿を血のように赤く染めている。
席順を定める明文規則は、去年、生徒会が布告した学則によってすでに大きく修正されていた。少なくとも表向きは、特定の家格による一方的な占有は許されない。早く来た者が座り、食事を取り、静かに退く。それが新しい建前である。
しかし、建前が根づくより早く、感情は軋む。
とりわけ、己の家格だけを唯一の拠り所として生きてきた中位貴族たちにとって、それは耐え難い変化だった。
その日、レティシアは食堂の南寄り、窓際から三つ目の長机に座っていた。新入生の席としては悪くない位置だ。壁際すぎず、中央すぎず、出入口も見渡せる。周囲には同学年らしい子爵家や男爵家の子女が数名、少し離れた別卓には平民出身の特待生たちも見える。
彼女自身はそんな配置の政治的意味など何一つ意識していなかった。
ただ脳内では、相変わらず別の計算が回っている。
『――――食堂イベント。攻略対象かライバル令嬢と接触する王道の場面。ここで印象を残せば、次の好感度上昇に繫がるわ』
現実の王立学園における食堂は、身分秩序と学則が最も露骨に衝突する危険地帯だったが、レティシアにはそれが分からない。彼女に見えているのは、まだ「物語の舞台」としての都合の良い輪郭だけだった。
だからこそ、その軽率さは目立つ。
彼女は給仕に礼を言い、運ばれてきたパンと温かいスープに手をつけながら、近くを通り過ぎた上級生たちに無邪気な笑みを向けた。しかも、その中には一年目から暗黙の特権意識を保ち続けている伯爵家の子息たちの一団がいた。
彼らの足が止まる。
先頭にいたのは、二年の伯爵子息だった。端正ではあるが、その整った顔立ちは、己が「当然に上」であると信じて疑わぬ者特有の歪みを孕んでいる。去年までは、こうした位置の席に下位の者が座ること自体、彼らの前でほとんど起きなかった。学則施行以後も、下位の者の側が自主的に遠慮していたからだ。
だが、目の前の少女は違う。
子爵家の分際で、悪びれもせず、平然とそこに座っている。しかも最近、第一王子にしつこく近づいているという噂まである。
伯爵子息の顔から、あからさまに不快げな色が浮いた。
「……おい」
低い声だったが、周囲には十分に届いた。
食堂の空気が、わずかに止まる。
レティシアは顔を上げる。
その瞬間でさえ、彼女の脳内にはモブ貴族の嫌味イベントが浮かんでいた。ゲーム的にはよくある。ここを機転や根性で乗り切れば、攻略対象に見直される。そんな期待すらあった。
「はい?」
返事は、あまりにも軽い。
敬意がないというより、危機感がない。
伯爵子息の眉がぴくりと動く。
「そこは、本来お前のような家格の者が座る席ではない」
「……え?」
レティシアは本気で意味が分からず首を傾げた。
その反応が、さらに火に油を注ぐ。
「聞こえなかったのか。身分を弁えろと言ったんだ」
周囲の上位貴族たちが、露骨にせずとも気配で同調する。直接口を挟まないのは、去年の学則を意識しているからだ。だが、否定もしない。視線だけでそこはお前の位置ではないと圧をかける。
レティシアはそこでようやく、これは単なる嫌味ではなく、席を立てと言われているのだと理解した。だが理解の仕方が、やはり甘い。
「でも……空いてましたし」
場がさらに冷えた。
その言葉は、学則の建前に照らせば正しい。だがこの場において、それを口にすること自体が、伯爵子息の顔を真正面から潰す行為になる。
「空いていれば座ってよい、と?」
「え、ええ……だって、学則では」
その一語を聞いた瞬間、伯爵子息の唇が冷たく吊り上がった。
「学則。なるほど。最近の新入生は、紙に書かれた文字を盾に、上の者へ口答えしてもよいと教わるらしい」
レティシアはようやく、ほんの少しだけ空気のおかしさに気づく。だがもう遅い。引き返す地点は過ぎていた。
「口答えというか……私は、ただ」
「ただ?」
伯爵子息は一歩近づく。テーブルを挟んでいた距離が、一気に詰まる。
「子爵風情が、王立学園で伯爵に『ただ』などと口をきくのか」
その言い方には、明確に身分差を誇示する意図があった。周囲に聞かせるための言葉。お前と私は違う、お前は下だ、と空間全体へ再確認させるための言葉。
レティシアの隣にいた令嬢が、青ざめて少し椅子を引いた。正面の席にいた男爵家の少年も、巻き込まれまいと目を伏せる。誰も助け舟を出さない。出せない。ここで伯爵家の機嫌を損ねることは、そのまま家や保護者に波及しかねないからだ。
レティシアは喉を鳴らした。
この世界はゲームだと思っていた。少なくとも、攻略対象のそばにいる限り、自分は物語の庇護を受ける側だとどこかで思っていた。だが今、目の前にあるのは、悪役令嬢が嫌味を言う程度の軽いイベントではない。ただ「下位の令嬢が上位者を不快にさせた」という、それだけで現実に圧力が発生する空間だった。
「……申し訳、ありません」
とりあえず謝れば済むかもしれない。
そう考えて立ち上がろうとした、その動きすら遅かった。
「今さら遅い」
伯爵子息は机の端に手をかけ、わざと音を立てて身を乗り出した。
「学則を盾にするほど頭が回るなら、誰に対してどう振る舞うべきかくらい理解しておけ。第一王子殿下の周りをうろついていると聞いたが、身の程も知らぬ子爵令嬢が、よくもまああそこまで――――」
そこで言葉が切れたのは、侮蔑のためではなく、怒りが混じり始めていたからだ。彼にとって問題なのは席だけではない。最近のレティシアの振る舞いそのものが、上位貴族たちの間で「秩序を乱すもの」として積もりに積もっていた。
「お前のような家の娘が、王族の周囲をふらつくだけで目障りなんだ」
その言葉は、ほとんど恫喝だった。
家格、王族、目障り。すべてが「お前は越えてはならぬ線を越えた」という意味で並んでいる。
レティシアは完全に気圧された。
だが、ここで本当に口を閉ざしてさえいれば、まだ暴力までは至らなかったかもしれない。
「……そんな言い方、ないでしょう」
ごく小さな反発。
現代日本の感覚からすれば、当然の言い返し。
だがこの場では、それが決定打になった。
伯爵子息の目が据わる。
「何だと?」
「だって、私は別に、何も悪いこと――――」
最後まで言い切ることはできなかった。
乾いた音が、食堂の空気を裂いた。
傾いた西日がまるで凝固した血のように石床を赤く染める中、伯爵子息の手が、ためらいなくレティシアの頰を打っていた。強く、はっきりとした平手打ち。怒りに任せた勢いだけのものではなく、「黙らせる」意図を持って振り抜かれた一撃だった。
レティシアの顔が横へ弾かれ、椅子の脚が床を擦って嫌な音を立てる。次の瞬間には身体ごとバランスを崩し、彼女は冷たい石床へ肩から倒れ込んだ。食器が鳴り、スープがこぼれる。
誰かが短く息を呑み、誰かが顔を逸らした。
レティシアは床に手をつき、数拍遅れて頰の熱と痛みを理解した。じんじんとした生々しい痛み。冷たい石の感触。ゲームの演出でも、漫画の記号でもない、現実の一撃だった。視界が揺れる。耳の奥で、ざわめきが遠くなる。ただ、頰に残る熱だけが、これは本物だと告げていた。
「身の程を教えてやっただけだ」
伯爵子息は見下ろしながら吐き捨てた。その言い方には、己の行為を暴力ではなく正当な指導だと位置づける強い自負がある。
「貴族社会の秩序も理解できぬ娘が、軽々しく王族に近づくな。お前のような愚かな娘一人の軽率さが、どれほど周囲に迷惑をかけるか、その程度は覚えておけ」
そこには、明確な因果のねじ曲げがあった。
自分が打ったのではない、お前が打たせたのだ。力を持つ側が常に使う、典型的な責任転嫁の論法である。
レティシアは返事ができない。
痛みと、屈辱と、何よりも「本当に殴られた」という現実の方が早く、思考が追いつかなかった。彼女の目尻に、反射的に涙が滲む。
それを見て、伯爵子息の後ろにいた一人が小さく鼻で笑った。
「ようやく分かったようだな」
「最初からそうしておけばよかったものを」
責任を分散するような、軽い同調。
だがその一つ一つが、「暴力はここでは異常ではない」という空気を補強していた。
さらに悪いことに、床に倒れたレティシアへ手を貸す者は誰もいない。近くの下位貴族たちは目を伏せ、平民特待生たちは硬直し、給仕たちは職務上の限界を越えられず凍りついていた。
つまりこの瞬間、事実として成立していたのは一つではない。
上位者が家格を誇示したこと。
その言葉によって相手を萎縮させたこと。
公衆の面前で有形力を行使したこと。
周囲がそれを止められなかったこと。
そして、被害者が実際に床へ倒れ、身体的・心理的に明確な侵害を受けたこと。
だがその場の誰も、まだそれを学則的な条文に照らし合わせては見ていない。
ここではただ、空気と力関係が支配しているだけだった。
伯爵子息はなおも言葉を重ねた。
「立て。自分の席を弁えろ。次は頰で済むと思うなよ」
脅しであることを隠そうともしない言い方。
次があると明示することで、単発の叱責ではなく、継続的な支配の意図すら示していた。
レティシアは床に手をつきながら、どうにか身体を起こそうとする。頰が熱い。手のひらが震える。喉の奥が引きつる。それでも彼女の頭のどこかでは、まだ信じたくない気持ちが残っていた。
『――――こんなの、ゲームじゃない。でも、ここで泣き崩れたら負ける。何か言わなきゃ。イベントを巻き返すための、ヒロインらしい台詞を……!』
その思考自体が、現実とのズレをさらに深くしていく。
「……私は、ただ」
かすれた声が漏れた、その時だった。
食堂の出入口側で、ざわめきが一段、質を変えた。
それは単なる野次馬の気配ではない。空気が道を開ける時のざわめきだった。誰かが来る。それも、この場の力関係を一変させるだけの存在が。
伯爵子息がわずかに顔を上げる。周囲の視線も、一斉に同じ方向へ向いた。
石床を踏む足音が、真っ直ぐこちらへ近づいてくる。
その瞬間になって初めて、食堂全体が「これはただの躾ではなく、明確な事件だったのではないか」という後追いの認識を持ち始めていた。
そして床に手をついたままのレティシアだけが、涙で滲んだ視界の中、その足音に対してなお場違いな期待を抱いていた。
『――――誰か来る。もしかして、ここで』
だが、次にこの場へ入ってくる者が、彼女の甘い想像を救うためではなく、積み上がった事実を「違法性のある事件」として確定させるために来るのだとは、まだ理解していなかった。
3 現行犯拘束と、喜劇の確信
石床を踏み鳴らす足音は、一直線にこちらへ近づいてきた。
人波が割れる。
まず食堂へ踏み込んできたのは、南のヴィレノール公爵家嫡男ライオネルだった。獣じみた鋭さを宿した翠眼が、床に倒れたレティシアと、その前に立つ伯爵子息、そして周囲の萎縮した空気を一息に見渡す。その後ろには、つい先ほど生徒会室で風紀官への志願を済ませたばかりの白き軍服の少年――――レオンハルト・デイル・アイゼンガルトの姿もあった。
食堂の空気が、今度こそ決定的に変わる。
その光景を見た瞬間、頰の痛みで呆然としていたレティシアの脳内で、ばらばらになっていたものが一気に繫がった。
『――――ライオネル。レオンハルト。食堂での暴力事件。そして、その後に起こるはずの公開裁判』
殴られた衝撃で止まりかけていた思考が、別の方向へ一気に跳ね上がる。
『そ、そうだ……! これ、ただの嫌がらせイベントじゃない……! ここ、攻略対象が助けに来る法廷分岐イベントの導入なんだ……! ライオネルとの遭遇イベントで、レオンハルトの正義ルートも同時発生して……その先にグラクト様の裁判イベントがある――――!』
涙で滲んだ視界の向こうで、現実はまるで彼女の妄想を肯定するように役者を揃えていた。ライオネルという危険な野獣。レオンハルトという白き騎士。そしてこの事件が、きっとグラクトの前へ持ち込まれる。
『やっぱり……私、ちゃんとメインルートに入ってる……!』
レティシアの胸に、恐怖と痛みと同時に、場違いな高揚が灯った。
だが、現実の方は彼女の期待など一顧だにしない。
ライオネルは一歩進み出ると、低く、静かで、それゆえに余計に危険な声で言った。
「……ほう。食堂のど真ん中で、ずいぶん派手にやってくれたじゃねえか」
伯爵子息は一瞬怯んだが、すぐに強引に胸を張った。相手が南の公爵家嫡男だろうと、自分もまた伯爵家の人間である。下位の者を叱責しただけだと押し通せばいい。そういう甘い計算が、その顔に透けて見える。
「これは我が家格に基づく当然の指導です。子爵家の娘が身分を弁えず、王族の周囲で――――」
言い終える前に、ライオネルが一歩で間合いを潰した。
次の瞬間、伯爵子息の腕が後ろへ捻り上げられる。悲鳴が上がるより早く、ライオネルは相手の身体を食堂の長机へ叩きつけるように押さえ込み、その耳元で獰猛に笑った。
「指導? 学則第四条、暴力の禁止。加えて、身分を笠に着た威圧と恫喝。しかも大勢の前で有形力まで行使しておいて、よくもまあそんな寝言が吐けるな」
「は、離せ……! 貴様、相手が誰だか――――」
「知ってるさ。伯爵家の坊ちゃんだろ。だから何だ。学則の前でそれが正当な理由になると、まだ本気で思ってんのか?」
周囲にいた上位貴族たちがざわめく。だが、誰一人として前へ出ない。相手がライオネルであることも大きいが、それ以上に今ここで口を挟めば、自分まで「成文法に逆らう側」として視線を浴びることを本能的に察していた。
その沈黙を断ち切るように、レオンハルトが一歩前へ出た。純白の軍服はまだ新しく、しかしその背筋には次期元帥家の嫡男として叩き込まれた厳格な矜持が宿っている。
彼は床に座り込むレティシアを一瞥し、それから伯爵子息へまっすぐ視線を向けた。
「私は今、この場で見た。被害者が着席している状態で、貴殿が身分差を理由に威圧し、明確な拒絶の意思表示があったにもかかわらず、平手を打った。暴行の構成要件を完全に満たしている。その結果、彼女は椅子から転落した。私はその事実を、アイゼンガルト家嫡男として明確に証言する」
それはもう、単なる仲裁ではない。
客観的事実の固定だった。
伯爵子息の顔色が変わる。平民や下位貴族の証言ならば、後からいくらでも揉み消せた。だが、アイゼンガルト家嫡男の現認は違う。王国最上位の武門の名の下で行われる証言は、中位貴族の言い逃れを許さない重さを持つ。
「ち、違う! あれは転んだだけだ! 私はただ――――」
「では確認する」
レオンハルトは一歩も引かなかった。
「貴殿は先ほど、『子爵風情が』と口にしたな。それは家格を前提とした威圧ではないのか。さらに平手を打った。それを指導と呼ぼうが、有形力の行使である客観的事実は変わらない」
ぴしゃりと断じられ、伯爵子息は言葉を失う。
ライオネルはその横で、押さえつけたまま鼻で笑った。
「もう十分だろ。現行犯、証人、被害者、周囲の目撃者。これだけ揃ってりゃ、訴追官殿の好物としては上等すぎる」
その一言で、ようやく食堂中の人間が、この件がその場の揉め事では終わらないのだと理解した。これは生徒会預かりの案件になる。学則違反として整理され、起訴され、法廷へ持ち込まれる。
レティシアの胸がどくんと跳ねる。
『やっぱり……! 裁判イベント……!』
頰はまだ痛い。石床に打った肩もじんとする。怖かったのも本当だ。だが、それでも彼女は、この展開をどこかで「物語が正しい軌道へ戻った」と理解していた。グラクトが裁く。きっとそこで、彼はヒロインである自分を助けてくれる。そう思い込まずにはいられない。
しかしその間にも、現実は冷徹に進む。
食堂の入口から、風紀官の腕章をつけた上級生たちが数名駆け込んできた。ライオネルは彼らに顎で指示を飛ばす。
「被疑者を引き取れ。逃がすな。目撃者の席も確保しろ。食堂にいた連中の名前、卓の位置、発言内容まで拾えるだけ拾え。後で『覚えていない』は通さねえ。被害者は医務室へ。頰の腫れ、転倒時の打撲、全部記録させろ。殴打の痕が消える前に証拠化する。あと、こいつの座ってた席もそのまま残せ。食器の位置から椅子の倒れ方まで、後で見返せるようにな」
それはまさに、法廷闘争から逆算した完璧な現場保存だった。
誰がどこで見ていたか。どの発言があったか。被害者がどう倒れたか。暴力だけでなく、その前提となる威圧と言葉の流れまで含め、徹底して記録の対象にしていく。
伯爵子息は顔を歪め、なおももがこうとする。
「こんなもの、和解で済む話だろう! たかが子爵令嬢一人、家格を考えれば――――」
ライオネルの目が細くなった。
「今、もう一回言ってみろ。『家格を考えれば』何だ?」
ぞくりとするほど冷えた声だった。
伯爵子息は息を呑んだ。ようやく、自分が取り返しのつかない場所まで来ていると気づき始めている。だが、遅い。
レオンハルトは床に膝をつき、レティシアへ手を差し出した。
「立てるか」
その声音は先ほどまでの法的確認とは違い、静かな配慮があった。
レティシアはその手を見つめる。脳内では、またしても別の意味づけが始まっていた。
『レオンハルト……やっぱり騎士ポジション……! しかもここで助け起こしてくれるの、完全にサブ攻略対象の好感度分岐……!』
痛みで涙の跡が残る顔のまま、それでも彼女は胸を高鳴らせた。現実の残酷さと、ゲーム脳による解釈が、彼女の中でなおも強固に両立してしまっている。
「……はい」
差し出された手を取る。
レオンハルトは余計なことを何も言わず、彼女を静かに立たせた。だがその視線はあくまで被害の確認へ向いており、甘い慰めも特別扱いもない。そこにあるのは、風紀官としての実務と、将来軍を率いる者としての責任感だけだった。
レティシアは一瞬だけ、その温度差に小さく戸惑った。だがすぐに都合よく解釈し直す。
『うん……レオンはこういう真面目系なんだよね。ライオネルは荒っぽくて、レオンは正統派。で、この後グラクト様が裁判で決める……完璧な三段構えじゃない……!』
そんな彼女の狂った内心など知らぬまま、ライオネルは風紀官たちへ最後の指示を下した。
「学則第四条違反ならびに、構成要件を満たした明白な有形力の行使。現行犯、正当理由なし、証拠十分。――――これより被疑者を、訴追官の元へ連行する」
その宣言は、食堂という私的空間を、一瞬で「法の入口」へと変えた。上位貴族たちの顔から余裕が消え、下位の者たちの瞳には震え混じりの光が灯る。
レティシアだけが、その中心で、まだ半分は夢の中にいた。
頰は痛む。怖かった。けれど同時に、これはグラクトが自分のために立つ物語の始まりなのだと、本気で信じている。
『次は……裁判。グラクト様の見せ場だわ』
そうして、彼女の軽率さから生じた一件は、ただの食堂の暴力沙汰では終わらず、王立学園における最初の本格的な「成文法と身分の衝突」として、正式に記録されることとなった。
そしてその分厚い記録の束は、間もなく、あの深紅の瞳を持つ訴追官の机上へと運ばれる。




