2月24日 1
朝 7時
野球部員の朝は早い。この高校では、体育教官室の鍵は7時30分に開く。そして各運動部の部室の鍵は体育教官室の中にある。そしてまた、体育館の鍵が開くのも同じ時刻である。したがって、各部の朝練が本格的に始まるのは7時30分以降になる。しかしながら、野球部の部室の鍵は7時に開く。
野球部の規律は厳しい。それは良かれ悪かれあらゆる高校の野球部に共通する伝統である。そうした規律と抜け目ない顧問の監視によって、部員たちは一生狂うことのない目上の人センサーを植えこまれるであろうし、あるいは引退後にのみ許される頭髪の自由を夢見て、数ヶ月に一度、行きつけの床屋で一番安いコースを選ばされる。そうした陋習に部員たちは辟易するはずである。少なくとも傍目にはそうに違いない。それなのに、彼らの内の何人かが野球部の指導者になったとき、さも当然のことのように伝統は繰り返される。これは当事者等以外に理解できない最大の謎である。ちなみに、現在のこの高校の野球部の顧問は、一人が体育部主任であり、一人が生徒指導部主任である。これは、第一段落の話と関係している。つまり、そういうことである。
そう言う訳で、今日も花田は部長が7時丁度に開けた部室に入り、五分後には土色に汚れた白いユニフォーム、その下に黒いアンダーウェアを着て外へ出た。そしていつも通り、チームメイトにちょっかいをかけたり、通りすがりの後輩たちを小突いたりしながらグラウンドへ向かう。恐らくこの時間に学校で起こる騒音の何分の一かは彼に因る。
そうして部室棟を抜けてグラウンドに出るとき、花田は最近の日課になっていた通りに、普通棟の校舎の方を見た。詳しく言えば、それと、グラウンドとに挟まれた茂みのあたりである。そして、彼は、そこの様子を確認すると、しかし今日ばかりは意外に思いながらも、その方向へ駆け出した。階段をひょいひょいと段飛ばしに駆け上がり、中庭の方からそこへ向かう。
「先輩、ッざーっす」
と、花田は野球部連中の中でしか通用しないような挨拶をお見舞いする。彼らにとって挨拶とは気合の具象である。
「おう、今日も元気だな」
ナオヤは、キャンバスを見つめる顔を振り向けもせずに応える。二人は二月に入ってからこのやりとりを何回したか知れない。三年生が入試のために自由登校になった後も、ほとんど毎朝ナオヤはこの場所へ思い思いの時間に来て、よく手入れした筆を握り、目に映る景色をキャンバスに写し取っている。今日、彼は制服を着ていた。
「先輩、今日も描いてるとは思わなかったっすよ。二次の本番明日じゃないっすか」
花田は、心底驚いたというような声で言う。それに対して、ナオヤは、どこか、ただならぬ慈悲に目覚めたような声で、
「ん、そうは言っても、ジタバタしたってしょうがないからな。それに、やけに落ち着いてるし、こうしてると落ち着くんだよ」
と言った。
「そうなんすか。とにかくがんばってくださいよ」
「おう、サンキュ」
それだけの会話が終わってしまうと、花田はグラウンドへと帰ろうとした。その時、
「あ、そう言えばお前、この前の約束覚えてるか?」
と、ナオヤが花田を引き止める格好になった。
「え、約束っすか?」
「ほら、お前が俺のキャンバスぶち抜いてくれたときの」
「あー、すっかり忘れてた。コーラ一日分っていうあれっすよね」
「そう、それ。俺も今まで忘れてた。まあ、朝練終わった後でいいからよぉ、景気付けに買ってきてくれ」
そう言われて、しかしふとあることに思い当たった花田は、しまった、と顔をしかめる。
「……うわー、しまったな、実は今日財布家に忘れてきたんすよ」
「とか何とか言って嘘じゃねーだろうな。まあ、いいか。わりいな、タイミングが悪い時に言い出しちまって」
「いやこっちこそ本当にすいませんって。……あ、そうだ! 先輩、ちょっと待っててください」
何かを思いついた様子の花田は、そう言い残すと、いきなり走り出して、普通棟の玄関の方へ消えていった。
ナオヤは、どうするつもりだろうかと少し楽しみに思いながら、変わらず筆を動かし続けた。




