2月24日 2
花田が全速力で向かった先は、自分の教室だった。彼は教室のロッカーにあるものを置きっぱなしにしていたことを思い出したのだ。しかし、彼は大事なことを忘れていた。普通棟の玄関の鍵は7時30分頃以降にしか開かない。
その鍵の掛かった玄関の戸をガチャガチャさせてようやくそのことに思い至った彼は、これまたしまったと思いつつ、すぐに次の手段を閃いて、彼はもう一度、今度は普通棟の正門側を回りこむようにして、体育館の真ん前にある保健室へと向かった。
保健室は、普通棟一階の、体育館に向かって突き出ている部分にある。そして彼の思った通り、保健室の前の廊下に出入りできる戸口の鍵は開いていた。そこから入れる廊下は、普通棟の内部につながっている。よく考えれば不用心な話だ。花田は、こいつは名案だったと自分を褒めながら、靴を保健室の前で脱ぎ、なるべく足音を立てない早歩きで、教室まで向かう。
けれども、花田はもう一つ、大事なことを忘れていた。すなわち、彼が三階の自分の教室に辿り着いたとき、教室の前の戸に手をかけ、それがびくともしないことを確認し、それにも鍵が掛かっていることを理解した。そして、その鍵は職員室にあることを思い出し、フガッ、と声にならぬ声で吠えた。
人間社会というのは、それが新航路の開拓であれ朝一出勤であれ、あらゆる物事の黎明に志す人々にとっては、およそ思いつく限り最大限面倒にできている。そして既に踏み均された道を歩くことは呆れるほど簡単だ。であるからして、開拓者たちの苦労の存在を忘れてはならない。
そう言う訳で、花田は彼が入学してからの二年間で初めて、教室は誰かが鍵を開けなければ入れないことを痛感した。ただ、それだけのことである。
否、それだけのことならば、彼がその誰かになって、職員室まで足を運べば済む話だ。しかし、問題は、今この時間、本来彼が普通棟の中にいてはいけないはずだということである。当然、職員室に入ってもいけないはずだ。早くから出勤している教師たちの目を盗んで鍵を奪取できるならばそれでいいが、なにせ彼は自分で鍵を取りに行ったことがないから、その置き場を知らない。それならばいっそ、忘れ物を取りに来たとでも言おうか。いや、ユニフォーム姿でそれも妙だ。こうなれば最終手段で、野球部という運動部の中では支配的な立場を利用して、適当に顧問の指示をでっちあげるのがよいかもしれない。と、その手に方向性が定まりかけたところで、彼は三たび壁に突き当たった。この朝っぱらから職員室に詰めている生徒指導主任こそ、顧問である。
フンガッ、と、花田ははっきり声を漏らして吠えた。この顧問は7時30分頃まで職員室にいて、他の教師が来始めた頃に、野球部の朝練にやってくる。それまで野球部員は自主的に活動をしている。その間今の花田のように勝手に練習を抜け出すようなことは本来集団意識によって許されないが、もし仮にそんなことがあっても、誰かの告げ口がない限りは顧問にサボりを知られることはない。花田はそれを見越してここまで走ってきたのだが、このままグズグズしていれば顧問がグラウンドに行く時間になってしまうし、そうなれば彼がサボっていることも気づかれる。かといって職員室へ強行突入しても、ユニフォームのままの彼が顧問の目から逃れられる可能性は低い。
花田は途方に暮れてしまった。行動派の彼がこれほど身動きを取れずにいるのは滅多にないことである。それほど、彼にとって顧問は恐ろしい相手であった。それにしても、教室の前でうろうろしているだけではどうにもなるまいと、彼は意図せず遅い歩調で二階の職員室に向かった。
花田が、二階への階段を降りていると、下の階から、誰かが階段を上ってくる足音がした。教師の気配に敏感になっていた花田は、その音に気づくなり、身を硬くして、ずんぐりした身体を手すりの壁に隠す。静かだが、堂々と、教師然とした足音だった。その足音は、階段を一階分上り切ると、職員室へ繋がる廊下の入り口を通り過ぎ、渡り廊下へ向かうか、教室の方へ向かうか、そのまま花田のいる階段を上りに来るかのどれかのようだった。花田は柄にもなく、胸をガンガンに高鳴らせ、足音の動向に神経を集中させる。
足音は、角を曲がり、そして、階段の踊場で止まった。どうやらビンゴらしいようだった。花田は、恐る恐る顔を上げる。それから、あ、と頓狂な声をあげた。
「なんでお前がここにいんだよ」
花田は、きつい口調で囁いた。
「それはこっちのセリフだ。なんでそんなとこでうずくまってるんだ」
つられて金森も、囁き声で言う。言いながら花田のしゃがんでいる段まで上ると、囁き声のまま、彼の事情を聞いた。
「なんだ、そんなことか。別に俺がその分貸してやってもいいけど、それじゃ意味ないし、お前返さないだろうしな。それなら、俺が代わりに鍵取ってきてやるよ」
「いいのか?」
「ああ。俺は鍵の場所知ってるし、案外朝に職員室にいる先生たちは時間に無頓着だから、普通に取りに行けば何も言われないさ」
「お前、なんか慣れてんな」
「ま、そういうことだから、ここで待ってろよ」
「おう、恩に着るぜ」
「その代わり、後で俺にも何かおごってくれよな」
そう言うと、金森は踵を返して階段を降りていった。花田はほっとして溜め息をつく。しばらくすると、職員室の重い扉が開く音がした。




