気になること
翌々日 早朝
ミサは、駐輪場の目の前まで立ち漕ぎで乗っていた自転車を降り、屋根のついた自転車置き場の一番手前に自分の自転車を停めた。見上げれば、実にお生憎様、というような曇り空だ。天気予報では、昼ごろにサッと雨が降るという話だ。それでも彼女が自転車でやってきたのは少々ギャンブルじみていたが、もし雨が長引けば、顔馴染みの部活に遊びに行って小止みになるまで待てばいいと考えていた。ミサは、普段から日替わりでたいていの文化部を渡り歩いていた。
彼女は自転車の前カゴからオレンジ色の小さなナップザックを取り出し、首にかけていた手の平サイズのデジタルカメラを丁寧にしまった。今朝の不作を溜め息とともに嘆きながら。めぼしい収穫といえば、交差点で信号待ちをしている時に撮った、越冬ツバメの低空飛行ぐらいのものだった。それも慌てて撮ったせいで、少しピントがぼけている。いっそ通り雨でも降ってくれたら面白かったのに、と彼女は思った。雨が降ったあとには、まだ、無味乾燥な都会の中でも自然の香りが感じられるから。
8時前の校舎はやけに静まり返っていた。朝練の音もしない。今日はオフなのだろうか。ミサはいっそうつまらなく思って、周りに人影を探した。このまま教室へ行って、既に来ているであろう“特別”な人たちをひやかしてもいいが……と思いながら、彼女はグラウンドの方へと歩いて行った。
すると、グラウンドに降りる階段の前まで来たところで、すぐ右隣の校舎とグラウンドの間の茂みに、誰かがいることに気づいた。目を凝らして、すぐにその誰かが誰であるかを判別すると、あ、と心の中で呟き、探り当てた名前を大きな声で呼ぼうとした。しかし、その寸前、その誰かさんの横にもう一人いることに気づいて、それが誰かもわかると、あら、と心のなかで驚き、出かかっていた声を引っ込めた。そして、向こうから見えない位置まで、足音を忍ばせて下がる。
ミサの好奇に満ちた視線が向けられた先にいるのは、目立たない色のコート(三年生は既に終講している)に身を包んだナオヤと、制服を着た一人の少女だった。二人はフェンスの前に立ち、一人は両手をズボンのポケットに突っ込み、一人は背中で手の平を合わせ、明後日の方向を見つめて何事かを話しているようだった。
ミサは、その予想もしていなかった組み合わせに釘付けになった。彼女にとって、美術部やら書道部やらでちょくちょく顔を合わせるナオヤは、彼女が言うところの“特別”な人の中の一人だった。一般的な意味で“特別”というと勘違いされるかもしれないが、彼女の言うそれは、“special”よりむしろ“satisfactory”であり、要するに彼女に何らかの充足を与え得る存在、そうでなければ恰好のからかい相手である。そしてそういう相手は、特別な割には案外たくさんいる。しかもそれとは別に“本命”なるものも存在していて、彼女はそういう人たちのもとを気ままに行き来していた。傍から見ていれば節操がないとしか言いようがないが、彼女にしてみれば、それは所謂「別腹」を食べ物以外でも実践しているに過ぎないようだ。もちろん、本当のところは彼女しか知らない。
そのようなミサの“特別”な人たちの中で、ナオヤは一つ上の先輩と言えど、比較的御しやすい、つまりからかいやすい部類だった。誰にでもウィークポイントはあるものである。
一方で、その隣の少女は、ミサと同じクラスで、名前も知っているが、それ以上のことはほとんど知らなかった。そもそも休みがちであまり教室に姿を表さない彼女をミサはノーマークだったわけだが、これは面白い取り合わせに遭遇出来たと、彼女は忍び足のまま、二人のもとへ近づいて、二人と校舎の角を挟んだ位置に身を隠した。いつでも決定的瞬間を激写できるよう、愛用のカメラを再びナップザックから取り出して。けれども彼女は、ただのパパラッチよりももっと面白い方法を考えていた。タイミングを見計らって、直撃取材をしに出て行ったら、二人はどんな反応をするだろう。彼女は自分から事件の中に飛び込んでいくタイプの好事家だった。そのために火傷をすることもないではなかったが。
ミサは、冷たい校舎の壁に背中を預けて、すぐ先を曲がったところにいる二人の会話に耳を澄ませた。湿った空気は、ところどころ、ささやかな二つの声を運び損ねた。
……そう…終わったのか……
…はい……これを……
……ああ、いい-だな……これから、大変になる……
…………
……まあ、なるようになるんだろうが……
……そうですね……
……やっぱり、-ってる方がいい……
…………
……今、この景色を描いてるところなんだ……
……そう……
……多分、間に合うだろう……
……ありがとう……
二人の会話は、そこで途切れた。ミサはこれを何らかの文脈で解釈しようとしたが、それだけを切り取っても、余りにもとりとめのない会話だった。これでは二人の関係もよく分からない。ミサは、再び会話が始まるのを待った。しかし、それから一分も待たない内に、彼女は不安になって、こっそりと片目だけで、角の向こうの様子を覗いた。案の定、既に二人の姿はそこになかった。
気づかれたのか? それともあれで本当に終わりだったのか? いずれにしても、二人の足跡は中庭のタイル貼りの地面に消え、中庭に人の気配は一つも残っていなかった。
「ちょっと気になっちゃうなー」
ミサは、そう呟きながら、ようやく、教室へ向かった。




