君に愛の花束を
1周年記念リクエストより
それに気付いたのはエレナと一緒に久しぶりに庭の散歩をしている時だった。
最後にこの場所を通った時とは違う香りに、自然と歩みも止まる。私の数歩後ろを歩いていたエレナが戸惑い気味に尋ねた。
「どうかされましたか?」
「この前来たときとどこか違う気がするのだけど……」
確信ではないがそう思った。この庭は王宮の自室以外、どの場所よりもよく知っている自信がある。
まだ陛下と心を通わせることが出来なかった頃、庭は私にとって避難場所だった。痛みと苦しみの中で必死で陛下のことを想って、想い続けて。
それでも時々、どうしようもなく泣きたくなった時は庭へ出て季節の花々で心を癒したものだ。あの時の風の匂いも、花の色も寸分の狂いも無く思い出すことが出来る。
それ程庭は私にとって特別な場所であったのだ。
だから僅かな香りの変化にも敏感になっていたのかもしれない。周りをよく見ると、この前来た時よりも幾分花の色合いが明るくなっているような気がした。
「さすがサラ様ですわ。先日庭師が代わったそうでございます。先代はもう歳でしたから」
エレナの言葉になるほど、と納得した。先代の庭師のことはよく知っている。
穏やかな老人で、職人らしく自分の作品に妥協を許さない一面を持っていた。彼とは何度も言葉を交わしたことがあるが、会う度に私に花のことについてたくさんのことを教えてくれた。
どの季節にどんな花が合うとか、水のやり方などは私個人の庭で大いに役に立ったし、今でも彼の知識はこの庭の隅々まで行き渡っている。
新しく庭師になった人物はきっと若いのだろう。この前までは白や紫、青が中心だった庭の花色が薄いピンクや黄色など鮮やかなものへと変わっていた。
バラが国花ということもあり王宮の庭はバラが中心に植えられているのだが、よく見ると小さな草花も絶妙な配置で咲いているのが分かった。大輪のだけではなく、小ぶりの可愛らしいバラも今までにはなかったものだ。
まるで春の女神が降り立ったように明るい庭を見ると、こっちまで明るい気持ちになってくるのだから不思議なものだ。
胸一杯に花の香りを吸うと自然に頬も緩んでくる。そんな気の緩みがいけなかったのだろうか。何も考えずに近くにあったバラへ手を伸ばした時だった。
「危ない!」
急に茂みから大きな声を出され、反射的に伸ばしていた手を引いてしまった。それが逆にいけなかったのか、一瞬指先に熱を感じた。
「まあ!サラ様!」
エレナが慌てて私の手を取ると、人差し指の先から僅かに血が滲んでいた。きっとバラの棘で切ってしまったのだろう。
一瞬のことで痛みを感じる余裕すらなかったのか、今になって鈍く指先が痺れていた。だが昔は怪我なんて日常茶飯事だったのだ。私は別段驚くこともなく、エレナに差し出されたハンカチで血を拭った。
だがエレナはそれだけでは済まなかった。
「大事なお体ですのに!侍医を呼んで参りますわ」
半ば叫ぶようにそう言うと、後ろを振り返りもせずに去っていってしまった。侍医なんて、大袈裟すぎる。現に血はもう止まっているのだ。
「あの…大事ありませんか?突然大声を出してしまって、本当に申し訳ございません!」
後ろを振り返ると、こげ茶色の髪をした青年が真っ青になって深く頭を下げていた。きっとさっきの声はこの人なんだろう。棘の取っていないバラに触らないように咄嗟に大声を出してしまったのだ。
「顔を上げてください。大した怪我ではありませんわ」
ほら、と指先を見せると青年の顔にもやっと安堵の表情が戻ってきた。
髪と同じ色の目と長時間太陽の下にいたと思われる焼けた肌、手には手袋をしていて頬には僅かに土が付いている。
一目で彼が新しい庭師なのだと分かった私は急に嬉しくなり、彼に微笑んだ。何故だかすぐに目を逸らされてしまったけれど。
「レイノルズに代わって新しく庭師になられた方ですよね?庭がますます素敵になって嬉しいわ」
「は、はあ…お褒めに与り光栄です。えっと…お嬢様」
年齢は私と同じくらいか少し上だろうか、老齢の大臣や落ちついた男性しか知らない私には彼の照れたような笑い方がとても好印象だった。
王宮に来たばかりなのか、それとも緊張しているのか、彼は私が王妃だということに気付いていないようだ。やっと最近お腹も膨らみ始めてきたとは言え、少しゆったりとしたドレスを着てしまえばそれも分からない。
元々美女と形容するには童顔な私は、いつも年齢よりも低く見られる。恐らく王宮に遊びに来た貴族の姫だと思われているのだろう。
急に可笑しくなって笑うと、不思議そうな顔でこちらを見てくる彼と目があった。
先代の庭師と同じようにいい話友達になれそうだ。庭の作り方からして、きっと先代と同じくらいかそれ以上の腕の持ち主に違いない。
「サラよ。このバラは新種のかしら?初めて見たわ」
「あっ、セドリック・フォードと申します。そちらのバラは陛下が王妃様へ贈る為に作られたものですので、まだ正式には発表されてないんです」
「え?」
陛下が、私に――?
小さな蕾をつけた薄紅色のバラは、他のどの花よりも優しい香りを持っていた。その香りが陛下の腕の中を思い出させる。
温かくて、私の不安を全て取り除いてしまう魔法のような腕の中。抱きしめられるだけで、泣きたくなるくらい幸せになれる唯一の場所。
「サラ、様?どこかお悪いのですか?」
彼の問いにただ首を振ることしかできなかった。私の視界は涙で翳み、嗚咽を飲みこむので精一杯だったから。
セドリックの指先が躊躇いがちに私の方に伸ばされる。だが、頬に届く前に別の手がそれを阻んだ。
「自分の幸運に感謝することだ。サラに触れていたらそなたの首を刎ねねばならなかった」
私の肩を包み込むようにして抱いたのは、紛れもなく陛下だった。心臓の奥がぎゅっとなり、更に涙が溢れてくる。
侍医を呼んでくると去っていったエレナが息を切らしながらこちらへ向かってくるのを視界の端で捉え、侍医ではなく陛下が来たことを悟った。
「へい、か?えっと…その……どうしてこちらに……」
セドリックは未だに状況を掴めていないようで、私と陛下を交互に見ては戸惑いを隠せずに視線が動く。やがてやっと陛下の言った言葉の意味が分かったのか、ぱくぱくと口を開けていたかと思うと勢いよく地面に平伏した。
「おっ王妃様とはつゆ知らず、大変なご無礼を!!」
「いいえ、気にしない…っきゃあ!」
突然足が地面から離れ、おもわず陛下のお召し物の裾を握った。私を横抱きにした陛下はセドリックに鋭い一瞥をくれると、何も言わず城へと歩き出した。
陛下に抱えられながら、私はその空気の冷たさに息を詰めずにはいられなかった。この雰囲気は過去に一度だけ味わったことがある。
私が王妃を止め、城を辞したいと願った時だ。
背中をひやりとしたものが撫でたのを感じずにはいられなかった。
無言のまま部屋に着くとそのまま私はベッドに縫いつけられた。降ろす時に乱暴にされなかったのが唯一の救いだ。
ベッドが軋み、陛下の整った顔がすぐ傍まで来る。そう思ったのも束の間ですぐに息もつけないほどの口付けをされた。
「へいっ…!」
「黙れ」
怒っている。それもとてつもなく。息を吸うこともままならない激しい口付けに、ぼんやりとしながらそう思った。
両手首を掴んでいた手はやがて身体の線をなぞるようにゆっくりと動く。その間もキスは止まらない。
どれくらいの時間が経ったのか。名残惜しげに離れていった唇は、私の頬に流れた僅かな涙を優しく拭った。
「身籠っていなかったら今頃どうなっていたか分かるか?また私はお前を誰の目にも触れぬように閉じ込めなければならなかったぞ」
やっと肺いっぱいに空気を取り込むことが出来た私は両手を伸ばして陛下の首に抱きついた。
私からこうすることは初めてで陛下も戸惑っているのか、応えるように背中に回された腕はいつもの半分の力しかなかった。
「愛していますわ」
ぴくりと指先が動く。
「……どうしたんだ、突然」
「陛下が私の気持ちを疑っているようでしたので」
拗ねたようにそう言うと、陛下はやっと笑ってくれた。
「私を放って庭師と仲良くなどするからだ。よく理性が持ったと褒めて貰いたいくらいだ」
「まあ。私、先代の庭師とも仲良しでしたわ」
「私は独占欲が強いからな。生まれてくる子供が王子だったら、きっとサラを取り合いになる」
そう言う陛下の声がとても優しかったから。私は溢れる愛しさを止めることが出来なかった。
もう一度愛してると言って、強く抱きしめて、甘いキスをしたら。
この部屋があのバラの香りで満たされる日も、そう遠くはないのだろうと思った。