第63話 審判
(青井佑太視点)
6月中旬。
朝から、雨だった。
細かい雨粒が、絶え間なく地面を打っている。
アスファルトは黒く濡れ、靴底がじっとりと吸い付く。
傘に当たる雨音が、やけに大きく響いていた。
俺と母親は、無言で坂道を上っていた。
家庭裁判所へ向かう道。
周囲には人の気配が少なく、ただ雨の音だけが支配している。
視界の先に、灰色の建物が見えた。
家庭裁判所。
雨に濡れて、余計に冷たく見えた。
「もぅ! 本当に勘弁してよね!!」
唐突に、母親の声が叩きつけられる。
ビクッと肩が跳ねる。
「何やってくれてんのよ、あんた……!」
横を見る。
母親の顔は、怒りで歪んでいた。
雨にわずかに濡れた髪が頬に張り付き、余計にその表情を強調している。
「……」
何も言えない。
言い返したら、さらに油に火を注ぐ。
それが分かっていた。
「近所にどう説明すればいいのよ! ……ほんと最悪!!」
傘越しに飛んでくる言葉。
雨音と混ざっても、はっきり聞こえる。
胸の奥に、鈍く刺さった。
母親に激怒された、あの日から。
俺は、偉そうな態度を取っていない。
――取れなくなった。
母親が、怖い。
あの時の怒りの目。
怒鳴り声。
思い出すだけで、身体がこわばる。
家でも、必要最低限しか話さない。
余計なことは言わない。
怒られないように。
ただ、それだけを考えて生きていた。
建物の前に立つ。
雨は、少し強くなっていた。
庇の下に入ると、雨音が少し遠のく。
ガラスの自動ドア。
人感センサーが反応し、静かに開く。
同時に、外とは別世界みたいな冷気が流れ出てきた。
中は、静かだった。
役所とも病院とも違う、独特の空気。
私語がほとんどない。
足音と、書類をめくる音だけが微かに響く。
入口近くには、金属探知機と警備員。
軽く手荷物を確認される。
俺は無言で通された。
総合受付。
母親が名前を告げる。
「本日、審判の件で来ました。青井です」
職員は端末を見て、すぐに頷いた。
「青井佑太さんですね。受付済みですので、こちらの待合へお願いします。後ほどお呼びします」
淡々とした対応。
感情は、一切乗っていない。
番号札ではなく、名前で管理されている。
逃げ場がない感じがした。
待合スペース。
長イスが並び、間隔を空けて人が座っている。
誰も、目を合わせない。
全員、下を向いている。
空気が重い。
時計の秒針が、やけに響く。
カチ、カチ、と。
時間が進んでいるはずなのに、感覚は止まっていた。
「青井佑太さん」
名前を呼ばれる。
ビクッと身体が反応する。
声の主は、スーツ姿の中年の男だった。
「こちらへどうぞ」
短く言う。
母親と一緒に立ち上がる。
案内されたのは、「審判廷」と呼ばれる部屋だった。
だが、想像していた法廷とは違う。
段差も、傍聴席もない。
机がコの字に配置されている。
その中央に、俺の席。
逃げ場のない配置だった。
正面に、裁判官(家裁では“審判官”)。
左右に、書記官と調査官。
全員、無表情。
淡々としている。
「それでは、これから審判を行います」
低く、よく通る声。
形式的な口調。
空気が1段と張り詰めた。
まず、氏名と生年月日の確認。
事実関係の確認。
すでに調査官面接で話した内容の再確認。
逃げ場はない。
記録として残る。
「今回の行為について、どのように認識していますか? 」
真正面から、問われる。
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
口が乾く。
「……軽率だったと思っています」
自分でも、薄っぺらいと思う。
でも、それしか言えなかった。
「なぜ、そのような行為に至ったのですか? 」
続けて問われる。
理由。
そんなもの、今さら言ったところで意味がない。
分かっている。
「……その時、感情的になって……ブチギレちゃって…」
声が小さくなる。
途中で消えそうになる。
母親への質問もあった。
「ご家庭での様子はいかがですか? 」
「今後の監督について、どのようにお考えですか? 」
母親は、硬い声で答える。
「今まで良好ではなかったです。ばばあと呼ばれてましたし」
「そのため、しっかり指導していきます」
それだけ。
感情は感じられなかった。
俺の方は、一切見ない。
やがて、質問が終わる。
部屋に沈黙が落ちる。
雨音だけが、遠くに聞こえる。
審判官が、記録に目を落とす。
ページをめくる音。
それがやけに大きく感じる。
数秒。
いや、もっと長かった気がする。
「――それでは、決定を言い渡します」
空気が、凍る。
背筋が一気に冷える。
「主文」
その言葉で、心臓が跳ね上がる。
「本件については、少年院送致が相当であると認める」
――止まった。
時間が。
理解が、追いつかない。
少年院。
今、確かにそう言った。
「……え?」
声が漏れる。
小さく。
誰にも届かないくらい。
審判官は、そのまま続ける。
「理由について説明します」
保護処分の必要性。
再非行の可能性。
環境の改善が困難であること。
淡々と、読み上げられる。
全部、俺のことだった。
(……嘘だろ)
心臓が、ドクンと強く鳴る。
呼吸が浅くなる。
手の平に汗が滲む。
終わった。
完全に。
学校も。
日常も。
未来も。
全部、ここで切り離された。
隣を見る。
母親は、現実を受け入れるように目を閉じていた。
何も言わない。
何もしてくれない。
助けは、来ない。
その現実だけが、はっきりと分かる。
視界が歪む。
床が揺れる。
(……終わった)
身体の力が抜けて、イスからずるっと崩れ落ちた。
そんな俺の心境を無視し、残酷にも雨はさらに強くなり降り続けた。




