第57話 家庭裁判所からの電話
(青井佑太視点)
6月初旬。
プルルルルル――。
耳障りな電子音が、意識の底を引っ掻いた。
遠いはずの音が、頭蓋の内側に直接響いてくる。
自宅の固定電話だ。
間違いない。
こんな朝っぱらから、誰だよ。
俺はベッドの上に転がったまま、天井をぼんやりと見ていた。
視界が、少し滲んでいる。
寝ていないからだ。
昨日は、結局ほとんど眠れなかった。
目を閉じても、同じ場面が何度も繰り返される。
無機質な会議室。
退学を言い渡されたあの時。
校長や担任たちの機械的な表情。
思い出すたびに、胃の奥が冷たくなる。
それで寝たくても寝れなくて。
気づけば朝になっていた。
身体が、鉛みたいに重い。
起き上がる理由なんて、どこにもない。
――なのに。
プルルルルル。
まだ鳴っている。
(……出ろよ、ばばあ)
心の中で吐き捨てる。
いつもなら、あいつが真っ先に出る。
なのに今日は――気配がない。
台所の音も、水の音も、何も聞こえない。
本当に家にいるのかすら、分からない静けさだった。
プルルルルル。
しつこい。
一定のリズムで、容赦なく鳴り続ける。
まるで、逃がさないみたいに。
(……チッ)
舌打ちが、自然に漏れる。
仕方なく、俺はゆっくりと身体を起こした。
背中に貼りついたシャツが、不快に肌に張り付く。
ベッドから足を下ろす。
フローリングの冷たさが、じわっと足裏に伝わった。
現実に引き戻される感覚。
プルルルルル。
まだ鳴っている。
ほんと、クソうるせぇ。
止めるためだけに、俺は部屋を出た。
ドアを開ける。
廊下は、異様なほど静かだった。
生活音が、ひとつもない。
なのに――あの電子音だけが、家中に反響している。
階段へ向かう。
1段目。
ギシ、と小さく軋む。
2段目。
3段目。
足取りは、やけに重い。
身体が拒否しているみたいに、進みが遅い。
プルルルルル。
音は確実に近づいてくる。
逃げ場はない。
リビングに入る。
その瞬間、視界の中心にそれがあった。
固定電話。
着信ランプが、規則的に点滅している。
白い光が、やけに強く見えた。
無機質な機械のはずなのに――
妙に「意志」を持っているみたいだった。
――鳴り止まない。
俺は、無言で歩み寄る。
手を伸ばす。
受話器を取る。
耳に当てる。
「もしもし」
自分でも驚くくらい、低く、かすれた声だった。
喉が、乾いている。
『もしもし。家庭裁判所の調査官の山口と申します。青井様のお電話でお間違いないでしょうか』
男の声。
落ち着いている。
事務的で、感情が乗っていない。
その1言で――
頭の中が、真っ白になった。
「……裁……判……所……?」
うまく発音できない。
言葉が、口の中で引っかかる。
(なんで……?)
理解が追いつかない。
裁判所?
なんで、家に電話が来るんだよ。
そんなの――ドラマの中の話だろ。
鼓動が、一気に跳ね上がる。
耳の奥で、自分の心音がうるさい。
『検察から送致された資料を確認いたしました。その件につきまして、いくつかお話を窺いたく、青井佑太様とその保護者様と一緒に家庭裁判所までお越しいただくことは可能でしょうか。日時や場所については、こちらで調整いたします』
淡々とした説明。
一切の揺れがない声。
だからこそ――現実味があった。
検察。
送致。
資料。
単語が、ひとつずつ突き刺さる。
逃げ場がない。
これは、もう進んでいる。
止まらない。
俺の知らないところで、全部。
――現実だ。
昨日まで、どこか他人事みたいに感じていたものが。
一気に、目の前に降ってくる。
「……」
声が出ない。
喉が、閉じている。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
ただ、受話器を握る手だけが、じわじわ汗ばんでいく。
時間の感覚が、曖昧になる。
『もしもし? 青井様、聞こえていらっしゃいますか?』
呼びかけ。
遠くで聞こえる。
でも、身体が反応しない。
思考が止まっている。
(……どうすればいい)
分からない。
何も。
選択肢なんて、考えられない。
ただ――
怖い。
それだけが、はっきりしていた。
気づけば。
俺はゆっくりと後ろを振り返っていた。
リビングの奥。
誰もいないはずの空間。
それでも、縋るみたいに。
「……ばばあ……」
かすれた声が漏れる。
情けないくらい、小さい。
電話の内容を伝えることすら、頭が回らない。
ただ助けを求めることしか、できなかった。
受話器を握ったまま――
俺はその場に立ち尽くし、
完全に、動けなくなっていた。




