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第56話 教員たちの謝罪

(赤岩陽太視点)


 午後7時。


 リビングの空気は、異様に張り詰めていた。


 テレビは消えている。

 時計の秒針だけが、やけに大きく響いていた。


 蛍光灯の白い光の下。


 俺の正面で――


 校長先生と担任の先生が、深々と頭を下げている。


 その角度は揃っていた。


 まるで、何度も練習したみたいに。


「今回は学校で、息子様に暴行という被害が出る事態となり、大変申し訳ございませんでした」


 校長先生の声は低く、丁寧だった。


「本当ですよ!! 学校は何をやってるんですか!!!」


 隣から、怒声が叩きつけられる。


 お母さんだ。


 普段は滅多に声を荒げない人なのに、

 今は完全に感情が剥き出しになっていた。


「大事な息子が、どこの馬の骨かも分からない子供に殴られたんですよ!」


 そう言って、俺の肩を強く抱き寄せる。


 ぐい、と引き寄せられ――


 視界が塞がれる。


 柔らかい感触と、大人の香り。


(……は?)


 一瞬、思考が止まる。


 次に理解する。


(お母さんの……胸……?)


 状況と、本能が噛み合わない。


(いやいやいや今それどころじゃないだろ……!)


 自分で自分にツッコミを入れる。


 だが、逃げ場はない。


 物理的に固定されている。


「お母様のおっしゃる通りです」


 校長先生は、まだ頭を下げたままだった。


 微動だにしない。


「本当に! しっかりしてくださいよ!! 」


 お母さんの怒りは収まらない。


 むしろ、言葉を重ねるほど熱が上がっていく。


 その分、腕に力が入る。


(ぐっ……ちょっと待って普通に苦しい……)


 別の意味でダメージが蓄積する。


 だが、誰もそこには触れない。


「……お母様」


 校長先生が、ゆっくりと顔を上げた。


 まるで顔色を窺うように。


「息子様を殴った、我が校の元生徒――青井佑太を、許すことはできますか?」


 一瞬、間が空く。


 意図的な“問い”だ。


 確認じゃない。


 方向付け。


「はい? バカにしてますか? 許せるわけないでしょ!」


 お母さんは即答した。


 食い気味に。


 迷いはゼロ。


 それを聞いた校長先生は、小さく頷く。


 予想通り、とでも言いたげに。


(……誘導してる)


 その違和感に、俺は気づく。


「そうですよね。お気持ちは当然だと思います」


 共感を挟む。


 否定しない。


 その上で――


「そこで、民事での対応はお考えでしょうか」


「民事……?」


 お母さんの眉が、わずかに動く。


 怒りの中に、“現実的な単語”が入り込む。


「はい。今回の件は刑事と民事で分けて考える必要があります」


 校長先生の声が、少しだけ事務的になる。


「警察が介入すれば、暴行罪や傷害罪などの責任は問われるでしょう。ただ――それはあくまで“処罰”です」


 1拍。


「被害に対する補償は別です」


 はっきりと言い切る。


「そのために必要なのが、民事での請求――いわゆる慰謝料請求になります」


 説明は簡潔で、的確だった。


 素人にも分かる言い方。


 だが同時に――


(……慣れてる)


 そう感じた。


「……なるほど」


 お母さんの声が、少し落ち着く。


 怒りの熱が、別の方向に変わり始める。


 感情から、判断へ。


「その話、詳しく聞かせてください」


 ようやく、俺は解放された。


 空気が戻る。


 呼吸が楽になる。


 そして、お母さんは、身を乗り出した。


 完全に“戦う側”の姿勢だった。


「ありがとうございます。まず、地域の市役所などで無料の法律相談を受けることができます。そこで弁護士に状況を説明し、今後の進め方を整理されるのが一般的です」


 校長先生は、淡々と続ける。


 無駄がない。


 まるでマニュアルがあるみたいに。


「それと――」


 スーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出す。


 操作は少しぎこちない。


 片目を細めて画面を見ている。


 老眼、かな。


 俺とお母さんに見えるようにスマートフォンを机に置く。


 画面は、こちらに向けられていた。


「こちらは、今回の暴行の様子を撮影したものです。証拠として使用可能かと思われますので、お渡ししておきます」


 言い終わる前に――


 再生。


『はあぁぁ〜〜〜!!?』


 空気が、一変する。


『お前、言葉の使い方には気を付けろよ!! こらあぁぁぁ!!』


 青井の声。


 そして――


 鈍い、嫌な音。


 骨に響くような。


(……っ)


 身体が反応する。


 無意識に、拳が握られる。


 思い出す。


 あの瞬間。


 痛みよりも先に来た、“理不尽さ”。


 数秒の映像。


 だが、体感はそれ以上だった。


 隣を見る。


 お母さんは――途中で、目を逸らしていた。


 唇を強く噛んでいる。


 肩が、わずかに震えている。


 見ていられない、というより――


 見続けたら、壊れる。


 そんな顔だった。


 やがて、動画が終わる。


 音が消える。


 沈黙だけが残る。


「……陽太」


 お母さんの声は、さっきと違っていた。


 怒りじゃない。


 震えている。


「本当に辛かったわよね。痛かったわよね」


 ゆっくりと、俺を抱きしめる。


 今度は優しい。


 守るような力だった。


 ふわりと、大人の香水の匂いがする。


 落ち着く匂い。


「……お母さん」


 俺は抵抗しなかった。


 校長先生も、担任の先生も目の前にいる。


 でも関係なかった。


 しばらく、そのまま時間が止まる。


 やがて――


 お母さんが、ゆっくりと離れる。


 目はもう、揺れていない。


「その動画、私にいただけますか?」


 完全に切り替わっていた。


 感情から、戦略へ。


「ええ、もちろんです」


 校長先生はすぐに頷く。


「元本校の生徒の問題行動です。被害者様側に情報提供することに問題はないと判断しております」


 一瞬、言葉を区切る。


 そして――


「……あの生徒を守る必要もありませんので」


 切り捨てるように言った。


 冷たい。


 だが、合理的だった。


 その横で――


 担任の先生は、1言も話さない。


 ただ座っている置き物みたいだ。


 目だけが、どこか落ち着かない。


(……何も言えないのか)


 それとも、


(言わないのか)


 スマートフォン同士で、動画の送信が行われる。


 数秒。


 進捗バーが伸びていく。


 データが、お母さんのスマートフォンに移る。


 それは――


 ただの動画じゃない。


 民事裁判のための証拠。


 今後のための起点。


(……ここからだ)


 その最初の一手が、今打たれた。

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